けし (2013)         油彩 / F6
けし (2013)        油彩 / F6

画廊通信 Vol.119             純粋絵画論

 

 

 このところ朝日新聞の紙上では、現在横浜美術館で開

催中の「プーシキン美術館展」を、連日のように紹介し

て推奨しているのだが、つい先日鹿島茂というフランス

文学者の、こんな寄稿が掲載されていた。

 

 絵画は「読む」ことが必要です。印象派の絵は、見た

 まま味わえばいいと思われがちですが、社会史を知る

 と、絵に物語性や厚みが出てきます。知識があるほど

 面白くなるのです。

 

 調べてみるとこの文学者は、大変な古書マニアとして

知られる人で、数千万単位の金額をその蒐集に注ぎ込み、

そのために一時は、尋常ではない借金を背負い込んだ程

の強者らしい。私としては、大いに共感できる人物なの

だが、ただ一つ残念な事は、たぶん絵を買った事はない

だろうと思われる点である。

 本人に聞いた訳ではないので、あくまでも確証のない

推測に過ぎないのだが、しかし私の経験から言わせても

らえば、一枚でも身銭を切って絵を買った事のある人な

ら、上記のような言説はしないものだ。何故なら絵を買

おうとしている人にとって、その絵にまつわる社会史や

個人史、いわゆる知識や蘊蓄(うんちく)のたぐい、そ

んなものはどうでも良いのであって、その人の思う所は

ただ一点、その絵が身銭を切るに値する絵であるかどう

か、それに尽きる。だからその人にとっては、絵に関す

る知識など枝葉末節に過ぎず、当面する最大の問題は、

正に「絵」そのものなのだ。今眼前にある一枚の絵、そ

れが自分にとって「良い」絵かどうか、思う所は唯それ

だけ、他に如何なる判断基準もない。これは、絵を買っ

た事のある人なら誰もが実体験として知る、言及するま

でもない自明の理だろう。

 近年まことしやかに語られ、紙面等でも散見される言

い方、いわく「絵を読む」、いわく「絵を読み解く」、

いわく「絵の謎を解く」等々、まあ色々な見方はあって

然るべきとしても、一つ踏まえておいたほうがいいと思

われる大前提は、絵はあくまでも絵であって、読むべき

書物でもなければ、解くべき数理でもないという事、ま

してや謎解きの推理問題と同視するなどもってのほか、

そんなに謎を解きたければ、探偵小説を買って来た方が

いい。

 絵の題材が何を意味するとか、それによって何らかの

暗号が仕組まれているとか、定説ではヨハネとされてい

た人物が、修復してみたらマグダラのマリアだったとか、

様々にかしましく人は絵に謎を求めたがるが、たとえ題

材の意味を知り、それに関わる諸事情に詳しくなってみ

たところで、それは絵のもたらすあの説明の付かない感

動に比べれば、取るに足らない瑣事瑣末に過ぎない。ど

うしてこのささやかな一枚の絵が、汲めども尽きぬ不可

思議な情趣を発し得るのか、それこそが絵画の私達に突

き付ける、解き得ない真の謎ではないか。

 絵画謎は無い、絵画謎なのだ、私はそう思う。先

述した一節を、今一度、私なりに言い直してみたい。

 

 絵画に「読む」事は必要ない。絵は徹頭徹尾「見る」

 ものだ。まさしく絵は、見たままに味わえば良い。社

 会史を知るに越した事はないが、その先入見で絵に対

 した時、知識はあるほどに眼を曇らせるだけだろう。

 

 常々疑問に思っていた事だが、最近の美術館は企画展

示を観るに際して、ご丁寧に音声ガイドと呼ばれる解説

を準備し、それをヘッドフォンや携帯で聞きながら鑑賞

する事を、当然の如くに推奨している。例のプーシキン

美術館展などは、ナビゲーター(と言うらしい)にわざ

わざ俳優の水谷豊を起用するという、遂に芸能人にまで

ご登板頂くという熱の入れよう、正に至れり尽くせりと

いうおもてなしだ。

 考えてみれば、美術館廻りを趣味とするような人は、

たぶんNHKの日曜美術館等もよく観ているだろうから、

事前にテレビ番組から仕入れた先入観で頭を一杯にした

上、なおかつ当日は、耳元の懇切な作品解説を拝聴する

仕儀となり、結局このような人は「耳」で絵を見ている

ようなもので、残念ながら見開いておくべき肝心の「眼」

には、何も映る事なく終ってしまうに違いない。

 思うのだが、このような見方を臆面もなく推奨する学

芸員の方々は、一体何を考えているのだろう。絵は「眼」

で見るものだという、あまりにも至極当然の原理が、今

軽率にも忘れ去られてはいまいか。

 以前にも載せた事があったと思うが、今一度、かの青

山二郎「陶経」からの一節を、ここに引いておきたいと

思う。ご存じのように彼は陶芸評論の人だから、この一

節はもちろん陶器を対象に書かれたものだが、文中の

「器」を「絵」に替えただけで、それはそのまま陶芸の

範疇を超えて、絵画にも共通する寸鉄となるだろう。

 

 器を見てその鑑識に惑わされ、理知に導かれて器に随

 (したが)ふは、物を観るに耳を以って致す事なり。

 物は一眼・人は一口にて、定まるものと識るべし。

 

 さて、以上のようにあらゆる知識や見識から離れて、

唯まっさらな己の眼だけで一枚の絵に対した時、否応も

なくダイレクトに響き到る何かに、訳も分らず打たれる

事があったとしたら、それは間違いなく本物である。そ

してそんな出会いこそが、如何なる了見や偏見も介在し

ない、芸術との有るべき邂逅の姿であり、更に言えば、

一切の理(ことわり)を借りる事なく、そんな無垢の眼

を一見(いちげん)にして射通し、強く揺さぶり得る絵

だけが、本物の芸術と言えるのだろう。やっと本題に入

るけれど、私は栗原一郎という画家を、正にそのような

本物の絵を描き得る、稀有にして真の芸術家だと思う。

 以前に私は、栗原さんという画家を語るに際して、彼

ほど「画家」という言葉の似合う人はいない、と書いた

覚えがある。今振り返ってみるとこれは、決して何らか

の理論的根拠があって語った訳ではない。ただ栗原さん

の絵を見て、且つはその謦咳(けいがい)に接しての、

直観的な印象に過ぎないのだけれど、しかしながら私は

現時点においても、これは栗原一郎という芸術家の本質

を端的に言い当てた言葉だと、少なからず自負している

のである。と言うのであれば、この時「画家」という言

葉で何を語ろうとしたのか、私は自問せねばなるまい。

 

 クラシックに「純粋音楽」という言葉がある。「絶対

音楽」という言い方もあるが、宗教音楽のように神を主

題としたものでもなければ、ロマン派のように何かの文

学的主題を表したものでもない、要は「何かのために」

という目的を離れて、音楽そのものを純粋に追求した楽

曲を言う。例えば、モーツァルトの交響曲や弦楽四重奏

曲は、間違いなく純粋音楽だろう。ベートーヴェンの弦

楽四重奏曲も、苦悩や勝利や歓喜といった特有の理念が

入り込まない分、純粋音楽的と言える。あるいはブラー

ムスの器楽曲は、全て純粋音楽と呼んで差し支えないだ

ろう。そこには、押し付けがましい思想や主張の介入が

無く、つまりは「言葉」による干渉が徹底して排除され、

ただただ純粋に「音」だけを用いた表現が、自在に縦横

に展開される。換言すれば音楽そのものが思想であり、

そこでは全てが、音楽の言葉で語られるのだ。

 美術にそのような概念は無いけれど、「純粋絵画」を

ここに想定してみる事にも、一つの意義は有るだろう。

絵を通して何らかの思想を表明するのではなく、ただ

「描く」という行為、純粋にそれだけで描かれた絵画。

上記の言い方をなぞるなら、絵画作品そのものが思想で

あり、そこでは全てが絵画の言葉──美術においては

「造形言語」という言葉が使われるが──で語られるの

だ。

 例えばモネ、彼は生前「そこにあるものは『眼』だけ

で、他に如何なる内容もない」と評されるほど、徹底し

て純粋絵画を貫き通した。絵画に何らかの意味を見出す

事が、自明であった当時の人々にとって、意味内容を付

随しないモネの芸術は、価値基準を破壊する危険なもの

と感じられたのだろう、正にその言葉による翻訳を要し

ない事にこそ、かつてない革新があったのに。きっと彼

らの旧い眼には映らなかったのだ、モネの画面に溢れん

ばかりに満ちた、純粋な絵画の言葉が。

 そんな同時代の旧弊に向けて為された、モネの「意味」

を排除する闘いを思う時、冒頭の文学者による印象派を

語る言葉が、如何に的を外れたものであるかが瞭然とす

るだろう、また話を蒸し返すようで、大変に申し訳ない

のだけれど。

 

 ただ「描く」という行為、純粋にそれだけで表現し得

る画家、自己分析という程でもないのだが、前述の「画

家」という言葉を使うに当って、私はそんなイメージを

彷彿としていたようである。そう考えた時、やはり栗原

さんほど「画家」という言葉の似合う人はいない、あら

ためて私はそう思う。

 ちなみに「画家中の画家」という言葉も、案内状に何

度か使わせてもらったが、それも何かの理論的な分析か

ら発したものではない、そうとしか言えないものを確信

していた故の、やはり直観的な言葉だったのだが、今に

して自らの脳裏を紐解いてみれば、理屈もへったくれも

ない、他の何物も一切を必要としない、全てを絵画の言

葉だけで描く、極めて純粋な画家として、そのような言

い方をしたのだと分る。

 栗原一郎展の開催は、今回でいつの間に7回を数える

のだが、何度拝見しても未だに驚いてしまう事は、その

類例のないモチーフの広さである。人物や花は元より、

小鳥から魚(の骨)にまで到る様々な小動物、アリやバ

ッタといった昆虫類、建物や街の風景、バス停の標識や

郵便ポスト、グラスや瓶や果実等の静物、椅子や帽子等

の小道具、果てはかすがいや釘にまで及ぶ、有りと有る

広範なモチーフを、画家はまるで慈しむかのように、朴

訥と質実に描き出す。そしてそこには何を描こうと、栗

原一郎という唯一の人間が居て、かけがえのない魂が宿

るのである。

 殊更(ことさら)に何かを標榜せずとも、声高に何か

を主張せずとも、特に何かの思想を込めずとも、あえて

何かの意味を託さずとも、それでもなお尽きる事なく滲

み出すもの、それこそが言葉による翻訳の出来ない、純

粋な「絵画の言葉」ではないだろうか。

 

 俺は「芸術家先生」じゃない、「絵描き」なんだ。だ

 から何だって描くさ。今、自分の居るこの場所に、描

 くものなんて幾らだってあるんだよ。キレイなもの?

 そんなもの探したって意味ないさ。キレイなものは、

 自分の心の中に探すんだね。

 

 栗原さんの絵画は、全て自画像だと思う。何を描いて

も、そこに栗原一郎という人間が居るのなら、それは即

ち自画像に他ならない。換言すれば栗原一郎という画家

は、何を描いても自画像という域にまで、達し得た画家

なのだ。畢竟そのような画家を、本物と言うのだろう。

 私は、あのかげりを帯びた画面から否応もなく滲み出

す、栗原一郎という人間が好きだ。拭おうにも拭えない

憂愁、消そうにも消せない孤愁、だからこそ温かく放た

れる、生きとし生けるものへの眼差し、そんな眼で日々

を見つめ往く人の、質朴な「生きる」手触り。私はいつ

も、そのやわな屁理屈など瞬時に霞んでしまうような、

横溢する画家の魂に打たれる。ここに思想は要らない。

 

                     (13.08.23)