画廊通信 Vol.148 版筆一番勝負
通常「浮世絵」と言えば、江戸期の伝統木版画を指す事が多いが、その原画はもちろん筆で描かれている。地元の千葉市美術館は、かねてより浮世絵に関する優れた企画で知られるが、折しも新年は開館20周年を記念して「初期浮世絵展──版の力・筆の力──」と題し、草創期の版画と肉筆画を比較展示するという、ユニークな企画で幕開けの模様である。のみならず他にも、上野の森美術館で「肉筆浮世絵──美の響宴」と銘打たれた展示会が現在開催中だったりと、今では「肉筆浮世絵」と
いう言葉が当り前の如く人口に膾炙しているが、つい数
十年前の戦後辺りまでは、ごく一部の好事家にしか知ら
れていない分野だったらしい。それを広く世に知らしめ
るのに多大な尽力を果したのが、伝説の画商として世に
知られた故・木村東介で、彼の開いた「羽黒洞」は現在
も湯島に在って、娘さんがその活動を引き継いでいる。
ちなみに、当店も付き合いのある日本橋の「不忍画廊」
もその直系に当るギャラリーで、よって木村の見出した
長谷川利行や斎藤真一といった大家の作品を、現在も展
示して売買する画廊である。それはさておき、木村は文
筆を得意とした人らしく、数々の著作も残しているのだ
が、その中の一冊「池の端界隈」という本の中に、これ
も今は亡き版画家・池田満寿夫との対談が載っていて、
これが今読み返しても滅法面白い。中でも木村の推す肉
筆浮世絵を、池田と論じ合うくだりは大変に興味深いの
で、少々長くなるがここに抜粋させて頂きたいと思う。
木村 歌麿や広重・北斎といった版画は、結局は版元の
芸術だと思う。「東海道五十三次」にしたって広重の芸
術ではなく、保永堂という出版元の芸術なんです。広重
は絵を描く、描いたものを彫師に渡す、彫師がそれを彫
る訳です。そうすると広重の線は埋没して彫師の鋭い線
になり、元々の線とは全く違ったものになってしまう。
だから極端な話、絵は下手でも彫師が上手ければ、鋭い
線でしっかり彫り起しちゃう。次には摺師が摺って、旦
那、いかがでしょうかと版元に持って行く。版元はそれ
を見て、ここの空の部分はもっと色を強くした方がいい
とか、この着物はもうちょっと茶色がかった方がいいと
か、絵描きとは関係なく版元が摺師に命令する。だから
写楽の絵も歌麿の絵も、蔦屋重三郎の芸術になる訳だ。
それを写楽がいいとか歌麿がいいとか言って、皆買って
いる。あなたの芸術はあなたが皆やるのだから別だけれ
ども、浮世絵は版元の芸術だから、絵師も彫師も摺師も
同等の人間、ギャラをもらっている職人に過ぎない。そ
のせいか、今も絵師本人の肉筆画より版画の方が高かっ
たりして、場合によっては4~5000万もするんだ。
池田 おそらくそれは、歴史的な意味もあるんでしょう
ね。ただ、物の価値感というものは、肉筆だから絶対高
くなければいけないとか、版画だから安くて当然じゃな
いかとか、むしろその考え方がおかしいと思いますね。
木村 だけれども、版画の方は量産される訳でしょう。
池田 量産されても、浮世絵版画というのはヨーロッパ
であれだけ認められて、日本と言えば浮世絵と言うぐら
い世界中に流布された訳ですね。だから浮世絵の価値感
というのは、肉筆よりもむしろ版画の方が、大衆にとっ
ても世界的に見てもオリジナルだったんじゃないかな。
木村 海外で、なぜ版画の方が先に知られるようになっ
たかと言うと、維新で開国になると同時に、横浜から瀬
戸物を外国へどんどん送った。その頃は新聞や週刊誌と
いった包み紙が無いものだから、それを浮世絵で包んで
送ったそうで、向うではそれが奪い合いになった訳だ。
つまり、別に瀬戸物が人気あった訳じゃなくて、包み紙
の方が目的だったんだね。その中に北斎漫画などもあっ
てドガがいたく感動したという話も残っているけど、要
は肉筆じゃ包み紙にならなかったというだけの話です。
大きすぎるからね。だから先に版画が値が出た。もし肉
筆を包み紙にしていたら、そっちが先に芽が出ますよ。
池田 僕は基本的に、浮世絵においては版画の方を絶対
に認めるというのは、肉筆と版画の機能的な違いという
よりも、作品としてあの時あの時代、今だってそうです
けれども、あれだけの版画を作った世界というのはない
ですよ。僕は、肉筆の浮世絵になぜ不満を持つかという
と、北斎なんかを見ると狩野派の影響がものすごく濃厚
な訳です。ところが版画だけは、比類のないオリジナリ
ティーがある。それは今言われたように版元の芸術だと
いう事、ある意味では当時の総合芸術としての文化、江
戸の英知と言ってもいい、それが全部、そこに共同作業
で詰め込まれているという事ですね。極端に言えば北斎
と歌麿というのは、おそらく江戸文化が創った最高のも
のだと思う訳です。ところが肉筆というのは、僕は文化
を創ったという感じがしない。これは画家の伝統という
ものがあって、狩野派に代表される色々な派閥がある。
北斎だって狩野派に反発はしてみても、やはり絵を描か
せると一つの伝統的なものを描いてしまう。確かに肉筆
ならではの凄みというものは、ものすごくあるんだけれ
ども、ただ現代人にアピールする場合、浮世絵版画は構
図といい色使いといい、あの当時としては信じられない
ような大胆さを持っている。僕は今でもそれを新しいと
思うし、本当に不思議でしょうがないんだけれど……。
羽黒洞さんは肉筆展に力を入れているんだけれども、僕
はそれを見ていつも思うのですが、北斎にしても歌麿に
しても、肉筆になるとそんなにスタイルの違いはない。
例えば美人画の場合、ほとんど全部が全身像でしょう。
それが版画になると、実に大胆な大首絵みたいなものが
出て来る。歌麿の大首絵なんか、やはり驚きですよね。
木村 あれは、蔦屋重三郎の要望に応えたんでしょう。
池田 応えたにしても、あの当時何百という浮世絵師が
居た中で歌麿が残ったという事は、それを見出した蔦屋
という人は、やはり凄かったんだと思う。版画が肉筆を
超える事だってあるんです。例えば現代の棟方志功にし
ても、版画はいいとして、肉筆はお買いになりますか。
木村 買わないね、私は。文化勲章もらってたけどね。
池田 あれの肉筆がいいと言う人も居るんですね。やは
り未だに版画よりも肉筆画を上位に置く風潮があって、
日本においても世界においても、一点物じゃないし所詮
版画じゃないかという考えを、何となくみんなが持って
いたりする。ただ日本の場合だけは例外で、版画が国際
的にも非常に高い評価を受けている。何故かと言うと、
やはり浮世絵が世界的に知られているからなんですね。
面白いので長々と抜粋してしまったが、上記の対談は
昭和55年と記録があるから西暦にして1980年、木
村東介79歳・池田満寿夫46歳の時のものである。年
譜を見ると池田は、その前年に芥川賞受賞作品の「エー
ゲ海に捧ぐ」を映画化してカンヌ映画祭に出品、同年に
10数年を過ごしたアメリカから帰国し、翌年はヴァイ
オリニストの佐藤陽子と電撃結婚といった具合で、版画
家としての範疇を超えた表現にも手を広げ、公私共に最
も華やかな時期にあった。しかし「版画家」としての自
負と真摯な希求は終生失わなかったようで、この対談で
も斯界屈指の傑物と謳われた木村東介を相手に、丁々発
止のユニークな論争を展開している。思えば、その当時
から35年ほどが経過した事になるが、今こうして池田
の発言を顧みた時、あらためてその斬新な炯眼に驚く。
ましてや、木村東介に代表される先人達の努力が大いに
実を結び、かえって肉筆浮世絵の方が注目される傾向さ
え感じられる現代にあって、上記の池田の見解は瞠目に
値する。今現在、この日和見の評論界において「肉筆な
んて大して面白くない、やはり浮世絵の真髄は版画だ」
と言い切れる学究や評家が、果してどれほど居るだろう
か。片や「肉筆こそ真実の浮世絵だ」と主張する木村、
片や「版画にこそ浮世絵のオリジナリティーがある」と
提唱する池田、その見解の是非は元より私如きが云々す
べきものではないにしても、しかし少なくとも私は、机
上でこね回された屁理屈ではない、ある確固とした事実
を知っている。それは他でもない「牧野木版」という事
実である。きっとその版表現に触れた後にこそ、人は両
者の是非を分つ、正しい軍配を上げる事になるだろう。
牧野さんは今までの数知れぬ展示会の中で、版画作品
の元になった肉筆原画を売った事は、おそらく一度も無
い筈である。貴重な一点物という謂れを付けて原画を高
値で売却したり、あるいは版画に肉筆で彩色して「手彩
色特別版」等と銘打ち、稀少部にプレミアムを付けて販
売したりというやり方は、業界ではかねてより行われて
来た商法だが、そのような時流に棹さすような行為は、
むろん牧野さんには無縁のものであったろう。何しろ牧
野さんにとっての原画とは、あくまでも版画制作におい
ての出発点に過ぎない。よってそれは版画へと昇華する
ために、解体され再構成されるという一連の過程で大幅
な変更が加えられ、数ヶ月の後に版画作品として完成さ
れる頃には、元の素描とは大きく異なるものとなってし
まう。故に牧野さんの場合、元より完成された「原画」
は存在しないのである。「手彩色」に関しては最早論外
で、そもそも版画家としての自負がそれを許さないだろ
う。たぶん牧野さんにとって「手彩色」とは、版画で彩
色する技術に欠けるが故の稚拙な「逃げ」に他ならず、
よって自らの制作においては、論の価値なき邪道としか
見なさない。あらためて牧野宗則という芸術家は、徹頭
徹尾「版画家」なのだと思う。そこに「肉筆」の入り込
む余地は無い。これからも版画家で在り続けるために、
牧野さんは版との困難な格闘を、生涯已めないだろう。
牧野宗則という作家の根幹にある、版画家としてのそ
んな揺るぎない自負の源こそ、前述した「江戸浮世絵木
版」にある。もう何度も書いて来た事だけれど、牧野さ
んは「彫り10年」「摺り10年」という言葉そのまま
に、15歳から35歳にわたる約20年の長きを、ひた
すら伝統木版技法の修得に費やした人である。ちなみに
最後に教えを受けた摺師は、既に高齢の域にあった職人
で、一家代々の世襲で5代目に当る摺師だったと言うか
ら、それを逆に初代までさかのぼれば、もう広重等の活
躍した江戸末期に行き着く事になる。つまり牧野さんに
とって広重や北斎、加えて当時の彫師や摺師、更には彼
らを統括する版元といった存在は、そう遠くない直系の
先人達であり、数台さかのぼっただけで自分とダイレク
トにつながってしまう、至極身近な同業者なのである。
そんな環境で修業を積む事によって牧野さんは、伝統木
版の生の魅力に存分に触れ得たと同時に、様々な制約か
ら来る浮世絵の限界に関しても、否応なく知る事となっ
たろう。だから牧野さんが、版画家としての独立に際し
てまず目指した事は、伝統木版の可能性を自由に追求す
るために、かつて有った一切の制約を排除する事であっ
た。分業の廃止然り、それに伴う墨線の廃止然り、摺度
数のアップ然り、その他諸々の大胆な革新、それはある
意味伝統への反逆であったかも知れないが、別な意味で
は新たなる伝統の創造でもあった。そして今、牧野さん
の版表現を虚心に見る時、この現代の浮世絵は何を語る
だろう。肉筆と版画──浮世絵の持つこの二つの側面の
内、正に「版画」の側面だけを牧野さんは究極まで推し
進めた事になるが、さてその目を見張るような成果を目
の当りにした時、人はどちらに軍配をあげるだろうか。
(15.12.23)