画廊通信 Vol.152 名もなき花の咲く道で
「♪土手のスカンポ、ジャワ更紗~」という童謡が、今でも妙に印象に残っているのは、何もその歌が格別好きだったという訳ではなく、子供の頃よく道端から引っこ抜いて、その茎をしゃぶっていたからだろう。タデ科の多年草で、赤味がかった茎は噛むと酸っぱい味がする。土手だろうが野原だろうがその辺に幾らでもごまんと生えていて、そんな雑草をしゃぶりながら遊んでいたという事は、要するに誰もが貧しい野生児だったのである。
就学前から小学校低学年にかけての頃、仙台市のとある町外れに住いがあって、両親が共稼ぎだったため祖母にみてもらいながら、私は日々近所の悪ガキ達と遊び呆けていた。その頃の子供は、だいたいが小さな地区毎に
10人前後の集団を作っていて、小学校5~6年生を筆
頭に下は2~3歳の年端もいかない幼児まで、相当に幅
広い年齢層で構成されていたため、自然年上は年下の面
倒をみる事になり、その結果下の子は上の子を兄弟のよ
うに慕って、まるで金魚のフンの如くにゾロゾロとくっ
付き回っていたものである。町外れだったため、付近に
は空地や野原がふんだんに在って、その向こうには青々
とした田んぼが彼方まで、見渡す限りに広がっていた。
今にして思えば、住いを中心とした直径数キロほどの僅
かな範囲が、子供の私にとっては生活の全てだったのだ
ろう。しかしそこは、限りなく豊かな世界でもあった。
何しろ半世紀も前の事だから、記憶の中でかなりの色
付けがされているにしても、季節の移り変りを肌で感じ
ながら、天真爛漫にして自由奔放、実にのびのびと生き
ていた事だけは確かである。小汚い子供ばかりで、年中
鼻をたらしてベロベロ舐め回すため、鼻の下が黄緑色の
粘液でベトベトになっていて、それをのべつ幕なしに前
腕で拭くものだから、袖が乾いた鼻汁でテカテカにコー
ティングされた、今ならば近寄り難いような見事に不潔
なガキは、その辺に幾らでもいた。遊びの9割は野外、
遊びとは言っても、そこいらを走り回ったり転げ回った
り、忍び込んだりもぐり込んだり、ぶち壊したり引っ掻
き回したり、登ったり飛び降りたりしているだけなのだ
が、それが途轍もなく面白くて、毎日が冒険の連続だっ
たような気がする。当時の写真が僅かに残っているが、
そのことごとくが貧しい。アパートの壁は薄汚れて道は
石ころだらけ、当然舗装なんて高級な処理はされている
訳がない。しかしその中に写っている子供の私は、今の
鬱屈の片鱗もなく、何と素直な喜びに溢れている事か。
何を言わずとも、その顔が全てを物語っているだろう。
私ほどの年齢の田舎者であれば、誰もが思い出の彼方
に持っている遠い日、時にして昭和40年前後になるだ
ろうか、いまだ地方では偉そうな100円札を見かけた
頃、それは貧しくも豊かな黄金(きん)の時代だった。
当時私の属していた一団は、広場の向こうに住んでい
た一人の上級生が仕切っていたが、確か小学校4~5年
生位、ちょっと赤毛の気のいいヤツで、その頃誰もが憧
れていた解剖セットを所有していたため、付近の子供達
の羨望の的であった。廃車になって捨て置かれたトラッ
クにもぐり込んで、カエルの解剖とやらを見せてもらっ
た記憶があるが、当然何一つ意味のない解剖なので、実
験台にされたアマガエルは、さぞや世の理不尽を儚んだ
事だろう。そうかと思えば、蛇に呑み込まれそうになっ
たカエルの哀れな悲鳴が、近くの野原から聞えて来たり
すると、それっとばかりにすっ飛んで行って、にっくき
蛇野郎を捕まえるや否や、情け容赦なく地面に叩き付け
て、助ける筈のカエルまで殺してしまったりしていたの
だから、子供というものも一体何を考えていたのやら。
近所の新居に引っ越して来て、この一団に加わる事に
なったある新入りが、何かで他の古株と喧嘩をして負け
てしまい、ギャーギャー泣き喚きながら家に帰るのを、
皆で送って行った事があった。そこでまた調子に乗って
しまったのだろう、私は事もあろうに「○○君にやられ
たんだよ」と、母親に親身なご注進をしてしまった。要
するに「チクった」のである。翌日、赤毛の大将が手下
を引き連れて、私の住いにやって来た。「ちょっと田ん
ぼに行こうぜ」と誘うのでノコノコ付いて行ったら、か
なり人里を離れた辺りまで来て、急に一発ボカンとやら
れた。更に少しの間、小突かれたり蹴っ飛ばされたりし
てから、「いいか、チクるのはワリーことだぞ。分った
な」「分った」、これにて一件落着と相成り、彼はいつ
もの優しい大将に戻って、私は「卑怯はいけない」とい
う人生の重要な教訓を、正に身を以て学んだのである。
それからしばらく経ったある日、大将は私に「怪獣図
鑑」を貸してくれた。悪い怪獣が火を噴く特殊構造の図
解だとか、そいつが悪くなる前の悲しい過去だとか、他
愛もない法螺話が事細かに書かれてあるのだが、当時の
子供達にとってそれは、バイブルの如く神聖な書物だっ
た。それを貸してくれるという事は「お前を無条件で信
用するぞ」という友愛の証しなのだが、よりによってそ
の貴重な本の1ページを、私が学業でルスにしている間
に、馬鹿な妹が無惨にも破ってくれたのである。おかげ
で面目丸つぶれ、補修を施そうにもセロテープをベタベ
タと貼る以外は何の方策も無く、幾日かを鬱々と過ごす
内に早くも返却の日がやって来て、大将上機嫌で私のア
パートにやって来た。私は恐くてドアを開けられず、郵
便受けから本だけそっと差し出すとまた奥に引っ込んで
しまうという始末、何とも情けない有様である。代りに
祖母が「妹がちょっと破っちゃって、ごめんなさいね」
と謝ってくれたのだが、大将、私を呼んでくれと言った
まま帰ろうとしない。万事窮す、ドアを開けて俯いたま
ま突っ立っている私に、大将は意外な事を言った。「ユ
ウちゃんワリーわけじゃねえよ。しょうがねえや、遊ぼ
うぜ」、こうして私は彼の言動を通して、「寛容」とい
うこれも人生の重要な精神を、実地に学んだ訳である。
さて、そんな大将に率いられた私達の一団は、いつの
頃からか隣町の一団と敵対していた。隣町のボスは、い
つもポケットに手を突っ込んでペッペッと唾を吐きなが
らのし歩く、見るからに悪そうなヤツで、たまに人のテ
リトリーに徒党を組んで入り込んで来ては、凄みをきか
せて行くのである。ある日そいつから呼び出しが来て、
皆で神社の境内に来いと言う。様子を見に行った斥候の
報告によると、どうやら上級生にも助っ人を頼んで、か
なりの人数で待ち構えているらしい。報告を聞き終えた
我らが大将の判断は、実に適確で素早かった。「俺らだ
けで行って来る。ゼッタイに付いて来んじゃねえぞ」、
それだけ言い置くと彼は、同年輩の仲間を数人引き連れ
て、サッサと行ってしまったのである。待つ事しばし、
帰還した勇士達は皆泥まみれの傷だらけ、あちらこちら
に青あざ・赤あざを作り、名誉の負傷でいよいよ小汚い
顔になっている。それでも夕暮れの風に颯爽と赤毛をな
びかせ、「なんてこたあねえや、今に見てやがれ」とう
そぶく大将、ガキのくせにいっぱしのサムライだった。
こんなよしなし事を、延々と書くつもりなど無かった
のだが、佐々木さんの画集を見ていたら、何だかその頃
の事が次から次へと思い出されて、止まらなくなってし
まった。絵というものは不思議なもので、遠い過去の出
来事を彷彿と甦らせるだけではなく、その時の風や光、
匂いや手触りまでを、ありありと現出させてしまうもの
らしい。野原で無数に咲いていたシロツメクサの香り、
アマガエルのヌメッとした柔らかな感触、山の小道に落
ちていた栗の実の固い歯ごたえ、田んぼにうずたかく積
んであったワラの匂い、佐々木さんの絵を見ているとそ
んな眠っていた記憶が、まるで昨日の事のようにイキイ
キと覚醒する。別に過去を描いている訳ではなく、現在
の生活空間を描いている筈なのに、そこからは遠い日の
豊かな記憶が、みずみずしく香り立つのは何故だろう。
たぶん佐々木さんの世界は、子供の眼差しで描かれて
いる。視点が低いというような事だけではなく、邪気の
ない真っ直ぐな澄み切った視線から、その世界は生み出
される。目の前の未知に向けられる驚きや喜び、慈しみ
や憧れ、かつては私達にもあったそんな純粋な感動が、
画面一杯に漲って見る者の心を打つ。だから佐々木さん
の描く「昨日」は、一気に私達の胸奥へ子供だった「遠
い日」を甦らせ、それはまたつい「昨日」のような鮮や
かな記憶を、イキイキと立ち上げるのではないか。そし
ていつか「遠い日」と「昨日」の境界は消えて、本来在
るべき温かな共生の世界へ、生きとし生けるものへの深
い感謝に満ちた世界へと、見る者の心は解き放たれる。
きっと佐々木さんは連れて行ってくれるだろう、かつて
誰もが無心に遊んだ夏の日の野原で、赤い茎を柔らかな
風に揺らしていた、あの懐かしいスカンポの咲く頃へ。
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以上は2006年の春、初めて「佐々木和展」を開催
するに当って書かせて頂いた、画廊通信からの抜粋であ
る。あれからちょうど10年の歳月が流れた。その間、
7回の個展を開催させて頂いたが、4回展を終えて僅か
3ヶ月後に、画家は帰らぬ人となった。「亡くなる日の
朝、急に『今日スケッチに行きたい』と言い始めて、ま
たいつでも行けるんだから、と止めたんです。それから
2時間後ぐらいでしょうか、和さんが私と目を合わせて
また何か言うの。えっ?なあに?って聞き返したんだけ
ど、そのまま動かなくなって亡くなったのよ」、後日奥
様からそんなお話を聞いて、死の直前まで絵を描く希望
を捨てず、奥様の目を見ながらこの世を去るなんて、と
ても佐々木さんらしい最後だなと思った。今回の案内状
に使わせて頂いた作品も、貴重な絶筆の一枚である。既
に体力の無くなっていた画家が、奥様の運転で埠頭まで
足を運び、現地でスケッチをされたものと言う。今はも
う使われていない小さな古い灯台と、幼い日から慣れ親
しんだ懐かしい港の風景、自分の生れ育った「横浜」を
描いて画家は旅立った、これもまた佐々木さんらしい。
私は今も、佐々木さんと初めてお会いした秋の日を、
正に昨日の事のように鮮明に思い出す。横浜とは思えな
いような山里のアトリエで、暖かい石油ストーブを挟ん
で、画家はとても爽やかに笑っていた。「千葉で個展を
した事はないんだけど、房総の海は釣りでよく行きまし
た。山口さんが美術誌で見た絵ね、あれはその時に釣っ
た魚を描いたものなんですよ。楽しく魚を釣って、絵を
描かせてもらい、おいしく戴いた上に、その絵を買って
もらう訳ですから、良い事尽くめです。アハハハハ」、
今の住いに越してから釣りも控えめになり、絵の題材に
も谷戸の風物が多くなったとのお話、幾つか見てみます
か?と佐々木さんは、奥から自作をゴソゴソ引っ張り出
して来て、目前に手際良く並べてくれた。「これは林道
にひっそりと咲いていた花、これは野道に踏ん張ってい
た雑草、こいつは近くの森に住んでいる鷹で、こちらは
雪の日に見た野ウサギの足跡、一度ウチの庭に飛び込ん
で来た事がありましてね、こんなにデカイんですよ」、
イキイキと話されていたあの声が、今も忘れられない。
残された作品を見ていると、私はいつもあの日の野原
へと連れ戻される。無心に遊んだ遠い日の道端で、名も
なき草が柔らかな風に揺れていた、今もその大気のここ
かしこから、佐々木さんの温かな声が聞えて来るから。
(16.04.06)