画廊通信 Vol.187 富士を巡って
もう20年近く前の刊行になるが、藤原新也に「俗界富士」という写真集があって、それがかつてない斬新な意図で編集されたものだった。以下は同書の序文から。
富士を写真に収める事に到っては、既に「富士写真」
と呼べる一つの分野が確立しているかのように、多くの
人々がそれに向ってレンズを向け、その結果無限と言え
るほどの「絵葉書的富士」が世の中に配布されている。
しかし私が選んだ撮影の方法は、多くの「富士写真家」
がこの世の現実と切り離した桃源として、富士にレンズ
を向けるという捕え方と異なって、逆に俗世間の真っ只
中において富士を見つめようとするものだった。ちょう
どチベットの人々が仏塔に触れる事なくその周りを巡る
ように、私は富士という山を遠望し、その周りに広がる
人いきれのむんむんと漂う「塵界」「俗界」の中を、巡
ったのである。そこから眺められる富士は、ちょうど泥
沼をくぐり抜けながら、その穢れによってこそ洗い清め
られたかの風情のある蓮華の花に似ている。その蓮華の
花のように、私にとって富士が最も神聖に美しく見える
場所は、俗世間の真っ只中に他ならなかったのである。
写真集ではそんなコンセプトの通り、商店街や人家・
道路等々、市井の雑然とした風物を前景に配し、時には
工事現場や工場といったおよそ似つかわしくない光景を
中心に置いて、その遥か遠方に美しい富士が垣間見える
という作品が、いわゆる「ネイチャーフォト」の通俗的
な定型を覆すかの如く、縦横自在に展開されてゆく。し
かしページを繰って行く内に、その一貫した意図の下に
在る筈の世界が、徐々に変調を来たし推移して行くのが
分る。当初はまさしく塵界の只中であったその舞台が、
次第に人工的な街中から緑豊かな農村へと場を移し、そ
れに伴って前景を占めていた巷間の夾雑物が消え去り、
替って樹木や畑地へと主役の座を譲るのである。やがて
画面からは人間の痕跡が遠のき、遂には原生林や樹林と
いった大自然の彼方に、富士が雄大に横たわる風景に到
って、写真集は静かに閉じられる。さて「俗界から富士
を見る」と自ら標榜しながら、最後には反対に、俗界を
離れた境地で終るという写真家の変容は、一体何を意味
するのだろう。むろん実際の撮影が、写真集に掲載され
た順に為されたとは考えにくい。それはあくまでも、編
集の産物に違いない。ただ、俗界を離れた大自然を撮影
したという事実は、間違いなくここに刻印されている。
思うのだが、おそらく写真家は俗界からの富士を撮り続
ける内に、我知らず富士そのものの霊性へと、心眼が移
行したのではあるまいか。如何なるコンセプトで撮影し
たにせよ、それは所詮人間の卑小な思考に過ぎず、富士
はそんなものには微動だにしない、遥かに巨大な存在で
あったという事だ。そのような人界を超えて存在する、
天然の悠揚迫らぬ不可思議の実在を、図らずも「俗界富
士」は、見事に露呈してしまったと言えないだろうか。
何故こんな話から始めたのかと言えば、上記の写真家
の富士に対する視点が、全く時代は異なるけれど、あの
「冨嶽三十六景」を著した北斎の視点に、近似している
からである。藤原新也の言葉を借りれば、北斎の富士も
また「俗界富士」である。あらためてその全容を俯瞰す
ると、現存する全四十六図中のほとんどは、前景に市井
を生きる人々の様々な営みを配した構図であり、肝心の
富士はその彼方に、僅かに臨むという光景が大半を占め
る。藤原が「富士という山を遠望し、その周りに広がる
『塵界』『俗界』の中を巡った」と語るように、北斎も
また漁師や農民・職人・旅人等々、庶民の生き生きとし
た姿を前景に描き出して、正しく俗界から富士を遠望す
るのである。もしや藤原は、この北斎の視点をヒントに
したのではないかと思われるほど、両者の視線は共通し
て響き合う。ただ、藤原の視点の推移と同じように、北
斎の富嶽景にもまた、明らかに視点の異なる風景が混在
する。人里を離れた大自然の図が5~6点ほど、内2点
は正に富士そのものを描いた図である。言わずと知れた
「凱風快晴」「山下白雨」の2点がそれだが、やはりい
にしえの北斎も富士を描き続ける内に、いつしか俗界を
超えた富士の霊性に、我知らず打たれたのではないか。
四十六図のそれぞれが、どの順序で制作・出版されたか
については諸説あるとの事、加えて北斎がどの程度まで
実際の風景に取材したかは定かではないので、今となっ
ては北斎の内奥は知る由もないが、富士という大自然そ
のものに対峙した作品を残し、それがいずれも歴史に残
る傑作であったという事実は、北斎が富士に寄せたであ
ろう真摯な感動を語って余り有る。おそらく富士という
山は、如何なる人心をもそのような深い敬仰へと導く、
大いなる象徴を孕んだ存在なのだろう。この辺りでやっ
と牧野さんの話に到るが、生涯のライフワークとして版
画家の総力を注ぎ、多様なヴァリエーションで描き出さ
れる牧野さんの富士は、北斎が俗界を超えた境地を描い
た、正にその地点を起点として、大自然の霊性を高らか
に謳いあげたものと言える。よって同じ伝統木版を基盤
としつつも、牧野さんの富士シリーズは、北斎の富嶽景
全体を継承するものではない。その中で、富士そのもの
と対峙した上述の2点を起点として、そこから始まるも
のなのである。参考までに、ある学芸員の論説を挙げて
おきたい。以下は、山梨の春仙美術館の個展(2000
年)に際して寄せられた、図録解説からの抜粋である。
人間に対する眼差しは、浮世絵が永く主題としてきた
最も重要なテーマである。最近作において、牧野は純粋
に自然と接する事を願い、自然を破壊する現代の人間の
存在を憂い、人間の手が加えられていない自然の美しさ
と対峙する事を望んでいるようである。しかし、かつて
島原に赴き取材する牧野をみて「風景といえども、人間
の情念や暮らしを無視されない牧野先生の視線と哲学に
は、多くを教えられた」という同行者の言葉が示すよう
に、自然と共生する人間の存在意義が、作品中の隠れた
メッセージとして、牧野自身が意識するしないにかかわ
らずある事を指摘したいのである。そしてこの視点すら
作品から失われてしまったとすれば、彼の作品から浮世
絵の伝統が消えてしまう事になると言わざるをえない。
さて、この解説者が少々傲岸な物言いで「人間への視
点が失われてしまえば、彼の作品から浮世絵の伝統が消
えてしまう事になる」と断言したこの時点から20年弱
を経た今、牧野木版から伝統は消え失せてしまっただろ
うか。あれこれと理屈をこねる前に、今回の案内状に掲
載した新作をご覧頂ければ、その答えは一目瞭然ではな
いかと思う。人間への視点がなければ浮世絵に非ず、と
いった旧態依然の価値観こそが、伝統を伝統の枠内に縛
り付け、やがては伝統自体の消失を招くのではないか。
「この視点すら作品から失われてしまったとすれば」と
この筆者は書くが、前述のように牧野さんの視点は、端
から人界には無い。俗界を離れた大自然への眼差しこそ
が牧野芸術の根幹であり、北斎が僅かに足を踏み入れた
天然の神性にこそ、牧野木版は立脚点を置くのだから。
顧みればこの視点は、北斎のみならず後続の広重にも見
られない、つまりはかつて伝統風景木版が深く入り込む
事のついぞ無かった、牧野さん独自の視点なのである。
斯様に閉じた伝統を守るよりは、積極的に伝統を未来へ
と拓き、生き生きとした新たな息吹を蘇らせる事、それ
が牧野さんの伝統への態度であって、この伝統木版界に
は無かった新しいスタンスに立たない限り、上記の如く
およそ見当違いな論説を書く仕儀に到る。「この視点す
ら」と筆者が書いた、その旧い視点を守る者の中に、現
に生きた伝統を拓き得た者が一人として居るだろうか。
衰退する伝統を蘇生させるには、むしろ伝統に闘いを挑
み、伝統を超えてゆく力が必要とされる。それを現在成
し得る者は、紛れもなく牧野さんを措いて他に居ない。
1989年(平成元年)、牧野さんは富士を描いた大
作「光明」を発表する。それまでにも富士に取材した作
品は有ったが、80年代を象徴する「有明シリーズ」か
ら「富士シリーズ」へ移行する嚆矢として、初めて或る
意識を持って取り組まれた作品であったと思う。それは
「意識」と言うよりは、伝統木版作家としての「宣言」
だったのかも知れない。思えば北斎が「冨嶽三十六景」
及び「富嶽百景」を上梓し、続いて広重が「不二三十六
景」と「冨士三十六景」を刊行した、この浮世絵史に燦
然と輝く金字塔を成した主題は、その末裔として伝統木
版に携わり、新しい歴史を拓こうとする者であれば、い
ずれは向き合わねばならない大きな関門であったろう。
その時、道は2本あった筈だ。一つは避けて通る道、一
つは新たに挑む道、牧野さんは挑戦する道を選んだ。同
じ富士をテーマとして、北斎も広重も成し得なかった、
現代の富嶽を打ち立てる事、平成元年の「光明」は正に
その決意を表明した、高らかな宣言であったと言える。
大胆にも「凱風快晴」とほぼ同じ構図を取り、のみなら
ず、いわゆる「赤富士」という同じテーマの下に描かれ
たこの作品は、北斎へのオマージュと言うよりは、真っ
向から北斎という存在に挑んだが故の、斬新な現代の息
吹に溢れている。山頂を折からの暁光に赤く染め、緩や
かな裾野を何処までも広げながら、天空へ雄大にその影
を落す、それは新たな時代の幕開けを、讃えるが如くに
屹立する、大いなる荘厳の峰だ。それから30年、正に
平成という時代と共に歩むかのように、牧野さんは富士
を自らのライフワークとして、一作毎に更なる進化・発
展を遂げて来た。特にこの10年は、小品を除いた作品
の全てを、富士というテーマに絞られている。そして本
年、折しも平成年間の掉尾を飾る作品となったのが、今
回の案内状に掲載した「霊峰讃歌」である。顧みれば上
述の「光明」から始めて、富士シリーズは20作を超え
た。一見すれば明らかなように、この作品は時代の幕開
けを飾った「光明」と、全く同じ構図を取っている。お
そらく牧野さんは平成富嶽景30年の帰結として、且つ
は更なる新時代の幕開けとして、再びかつての北斎の構
図を選ばれたのだろう。思えばこの30年後の富士は、
あの「凱風快晴」から数えれば、凡そ190年後の富士
となる。天の北斎翁、自らが開いた富嶽景の思いも寄ら
ぬ発展を、今頃どんな感慨で眺めておられるだろうか。
過日、故あって富士河口湖町まで足を運んだ。往路の
富士は雲に覆われ、無念にもその麗容は隠れていたが、
用を済ませて早くも陽の傾きかけた帰路、車窓の正面に
巨大な山影が浮び上がった。晩秋の靄に茫漠と煙る逆光
の中で、中腹に帯状の薄雲を長く棚引かせ、緩やかに傾
斜する裾野の端を、柔らかな大気に溶け込ませている。
不意に「霊峰讃歌」が脳裏に浮んだ。奇しくも同じ構図
である。ただ、作品の豊潤な色彩とは異なり、実際は全
てが灰色に霞む、無彩色の光景ではあったが。しかし、
いつしか目前の光景と作品が重なるに連れて、棚引く霞
は絵の如く薄紫に染まり、山麓は燃えるような錦繍に、
燦爛と彩られるように思えた。折しも車内に流れる管弦
楽を眼下に、それは彼方に煙る威容を天空に落しつつ、
妙なる霊性への讃歌を、雄大な沈黙の中に奏でていた。
(18.12.21)