画廊通信 Vol.198 謎めく花のように
文の末尾に(笑)と付ける表記を、メール等の文中によく見かけるけれど、あれはいつ頃から使われ出したものだろう。あれはたぶん(笑)と付記する事で「これはジョークですよ」と注釈を加えたり、「笑っちゃいますよね」と同意を求めたり、或いは「我ながら呆れてしまうのですが」と云った自己卑下(近年は自虐と言うらしいが)を表したりと、時々に色々なニュアンスを追加していると思われるが、要するに「ここは笑う箇所です」と、書き手自身が笑いを指定している事に関しては、共通した表記と言える。これが例えば文学作品で使われたとしたら、それだけで即座に失格だろう。これは当然の道理で、未だかつて涙を誘うような場面で(悲)などと
付記された事例は無く、同様に気の利いた諧謔に(笑)
などと付記された事例も無い。言うまでもなく(悲)な
どと書かずに悲哀を表すのが文学であり(笑)などと書
かずともユーモアを醸すのが表現というものだからだ。
それをいちいち「ここで悲しんで下さい」「ここで笑っ
て下さい」等と指示された日には、読み手は自らの読解
力を侮られたようにしか思えないだろう。ただ、このよ
うな過剰とも言える送り手からの感情指示は、見回せば
テレビ等のメディアにおいても、いつの間に市民権を得
たものか随所に散見される。一例を挙げるに留めるが、
バラエティ番組の再現ドラマ等において、視聴者と共に
それを観るゲストタレントの顔が、画面の端に小さな丸
枠で映し出され、ドラマが感動的なシーンに差し掛かる
と、彼らの感極まって落涙する顔も同時に放映される、
こんな場面は始終目にされるのではないだろうか。これ
も何を意味するのかと言えば、やはり過剰な感情指示の
為せるわざだろう。曰く「ここで泣いて下さい」「ここ
で感動して下さい」、こちらは理解力も感受性も備えた
立派な大人なんだ、子供じゃあるまいし懇切丁寧に指示
されずとも解る、余計なお世話としか言いようがない。
何やら意固地な老人めいて来たので、この辺りでやめて
おくが、御多分に洩れずこの傾向は、悲しいかな近年の
美術界においても見られ、その最も顕著な例は美術館の
音声ガイドだろう。先日は久々に東京都美術館まで行っ
て来たが、やはり到る所にヘッドフォン族が居て、人気
芸能人の親切な解説を聴きながら、神妙な顔で絵の前に
佇んでいる。「この絵はここが素晴らしいのです」「こ
の絵にはこんなエピソードが有るのです」、常時こんな
絵の評釈めいたものを耳元で教示されては、まるで絵を
耳で見ているようなもので、結局その人の目には何も映
らないと云う羽目になる。昨今美術館も利潤追求を余儀
なくされ、来客を増やすためには無益な理念など捨て去
り、こんな有害機器も推奨しなければならないのだろう
が、これもまた過剰な心理操作傾向への見事な追従例と
言えるだろう。いや、追従と言うよりは、感じ方を過剰
に指示し、強要し、結果的に受け手の心理を巧妙に操作
している張本人は、寧ろ彼等自身なのだ。「考え方」は
誰かに教わる事が出来る、しかし「感じ方」は誰に教わ
る事も出来ない、それは徹頭徹尾、自分自身で感性を練
磨しゆく他ない。これは言うまでもない大原則だが、上
述の如く時代の趨勢は、いつの間にその原則を意識的・
無意識的に歪め、受け手の感性を操作する傾向にある。
この現象を総括的に論ずる事は、最早社会学の領域だろ
うから控えるとして、ここでは上例のみに論点を絞り、
そこから現代の「感性」を廻る状況を考えて行きたい。
再度(笑)について。この表記の要因を辿れば、まず
は書き手側における、文章力の著しい低下が挙げられる
だろう。つまり、文章表現によって笑いを醸し出せない
から、わざわざ文末に(笑)と提示する訳だが、これは
メール等で話し言葉が多用されるようになり、そのため
書き言葉が、急速に用いられなくなった故と思われる。
「文章」とは即ち「書き言葉」である。書き言葉を使わ
ないと云う事は、文章が書けないと云う事態を招き、そ
れは同時に、文章が読めないと云う事態をも引き起す、
文章力の低下とは、読解力の低下に他ならないからだ。
こうして(笑)の表記は、書き手側だけではなく、読み
手側にとっても不可欠となる。極言すれば(笑)と断っ
てくれないと、何処で笑っていいのか解らないと云うよ
うな事態が、疾うに予測の段階を超えて到来しているの
かも知れない。これはまさしく言語表現の危機であり、
このまま放置すれば、いずれは思考論理の崩壊へと繋が
るだろう。言うまでもなく、思考もまた言語=書き言葉
によって為されるからだ。前頁に「過剰な心理操作」と
書いたが、これは第三者による操作と云った意識的なも
のではなく、軽い日常言語で何の思慮もなく戯れている
内に、自らがいつしか無意識的に引き起した、言語能力
の劣化による現象と捉えた方が、より妥当なのだろう。
考えてみれば(笑)の例だけに非ず、前述したテレビ
の事例も、或いは美術館の事例も、当初は「感情指示」
「心理操作」と云ったような意義が有った訳ではなく、
単に「ここが感動のポイントです」と見る人に知らせる
だけの、安易なお節介に過ぎなかったのかも知れない。
ただ、そんな過剰サービスに慣れてしまう事によって、
見る者の感受能力は知らず知らずの内に劣化し、やがて
は簡単に他者の指示を受け入れてしまう、付和雷同の曇
れる感性へと零落する。そうなったら占めたもので、マ
スコミや企業はそんな人々を自在に操作し、感性の欠落
にとことんまで付け込むのだ。現在あらゆる局面におい
て、時代はそのような趨勢にある。美術もまた然りだ。
ここに、一人の若い画家を想像してみよう。彼が、最
も鋭敏な感受性に溢れた思春期には、既に社会は過剰に
IT化され、更なる進化に各社がしのぎを削っていた。
そんな時勢を呼吸して育ったから、例えば彼は何処かに
向う時、自分で道順を考えた事がない。何かを買おうと
思った時も誰かの意見に頼り、何かを調べる時も誰かの
知識を鵜呑みにし、何かを考える時も誰かの思考を借用
した。何しろ端末機器にアクセスすれば、有りと有らゆ
る情報が入手出来たので、選択も判断も探索も考察も、
自らの知能をほとんど必要としなかった。そしていつ頃
からか絵が好きになり、彼は美術大学へと進学する。そ
の頃には、留まる所を知らないテクノロジーによって、
世界の有らゆる情報がビジュアライズされ、周囲は無数
の画像や動画で溢れていたし、同時に古今東西の有らゆ
る画業や画法を、瞬時に入手して利用出来たから、自ら
の感性で暗中を模索すると云う、かつての非効率な進路
を歩まずに済んだ。世は折しも若手志向の時代に入り、
ギャラリストはこぞって美大に活路を求め、才能ある学
生を青田買いしていたので、彼にも幾つかのギャラリー
からオファーが来て、前途洋々たる未来が約束される。
もちろん作風は、今を時めく写実で行こう、モデルは上
品で可愛い女の子だ、まずは綺麗な写真を撮ろう……、
こうしてデビューした若き新鋭は、さてどんな絵を描く
のだろう。言い換えれば、自分で考え、自分で感じる、
この当り前の手順をふむ事なく成長した人間は、一体ど
んな表現をする事になるのか。また、同様の環境で成長
した若い人々は、彼の絵をどのように見るのだろうか。
上記に描いた若者は、あくまでも一つの典型である。
よって寸分違わず、その通りの人間が居る訳ではない。
しかし、典型が或る顕著な特徴を体現するのであれば、
それは時代の傾向を包括的に描き出す。その見地から考
えてみた時、おそらく彼は「美しい」絵を描くだろう。
この場合の「美しい」とは、むろんビジュアル的に美し
いと云う意味だ。元来内的な美は、彼の基準には無い。
全てが過剰に与えられ、懇切にお膳立てされた世にあっ
て、懊悩・葛藤・逡巡・焦燥と云った煩悩は、むしろ美
的基準に反するものだ。従って、描かれた人物像は自然
無表情になり、そこにはマネキンのような美女が出現す
る。一方、或る特定の感情が描かれる事もあるだろう。
その時は、明確にその感情が指定されるに違いない。憂
い、憧れ、悲しみ、安らぎ、そこにはそれら特定された
感情が、明らかにそれと分るように描き出される。正に
感情は、見る人に指示されるのだ。曰く「この人は憂い
に沈んでいます」「この人はとても安らいでいます」、
絵はそんな親切なメッセージを、あまねく見る人に伝え
続ける。何しろそれは、誰が見ても美しい魅力を放つも
のであったから、早速美術誌が掲載し、マスコミが取り
上げて放映し、それを見た人々の賞讃が更なる賞讃を呼
び、人心はいつしか何者かに操作され、やがて美術館に
は長蛇の列が出来る──こんな構図を、何処かで目にさ
れた事はないだろうか。もし機会があれば、書店に並ぶ
美術誌を、少しでもめくってみて欲しい。上記を偏った
見解と言われればそれまでだが、あながち謬見とばかり
は言えない事を、きっとご理解頂ける筈だと思うから。
世に名画と言われる人物像は、概して複雑な情感をそ
の表情に宿している。若しくは、そのように描かれてい
る。むろん「これは〇〇の感情です」と云うような指示
は一切発しないので、それは永遠の沈黙に静止したまま
だが、感性の良く磨かれた人が向き合えば、そこからは
様々な情感が、尽きる事なく滲み出す。それは現代に流
行する底の浅い人物像とは、懸け離れて異なるものだ。
さて満を持した形となったが、この辺りで舟山さんに
ご登場頂こう。延々と要らぬ長広舌、平にご容赦頂く他
ないが、それもこれも舟山さんの描く人物像が、今を時
めく写実美人画とは如何に異なり、然りながら人物画の
本道に如何に則ったものであるかを、ひとえにご理解頂
きたかったが故だ。前段までを全てアンチテーゼとすれ
ば、それだけで「舟山一男」と云う作家像が浮上する、
そのように書いたつもりだが、如何せん長過ぎた。以降
本題に専念し作家論をぶち上げる事も可能だが、私の頭
では更に3~4日は要するだろうし、第一紙面も残り少
ないので、ここでは案内状の作品のみに話を絞りたい。
「白いペンダント」と題されたこの新作が届いた時、一
目見てこの絵を案内状に使いたいと思った。極めて強い
視線で、こちらを見据える少女像である。ここには如何
なる感情の指示もない代りに、かつての優れた人物像が
共通して宿す、複雑な情感が描き出されている。只の美
しさではない、何か妖しい程の情念を津々と放ちつつ、
それはあたかも謎めく花のように、不可思議な魅惑を湛
えて尽きない。ある意味舟山さんの芸術は、表情の芸術
と言っても過言ではない。僅かな表情の変化だけで、こ
れだけの豊かな情感を表し得る作家は、極めて稀ではな
いだろうか。事実、その多様なヴァリエーションを語ろ
うと試みても、到底言葉が追い付かない。よって直接に
絵を語る事は諦めて、少しでもそれに相応しい暗示を、
乏しい直感から絞り出す事になる。今回の「月に目覚め
る者へ」という表題も、それに付随する文面も、この謎
めく永遠の少女に、延いては今回出品される人物画の全
てに、心からの敬意と共に捧げたものだ。果して相応し
い暗示に成り得たかどうかは、心もとないのだけれど。
かつて(笑)と云う表記は無かった。丸枠に映るゲス
トの顔も、煩わしいヘッドフォンも無かった。自分で考
え、自分で感じると云う当り前の所為の中に、人は信じ
るに足る何かを見出した。舟山さんの領域もまたそこに
在る。少女は見る者の心奥でこそ、目覚めるのである。
(19.11.23)