号泣の河 -部分-            Mixed media / 38x61cm
号泣の河 -部分-            Mixed media / 38x61cm

画廊通信 Vol.201            隠された名前

 

 

 前回の第4回展において──と云う事は3年ほど前の話になるが、展示作品の中に「地獄の嵐」と云うタイトルの絵があった。60cm角の比較的大きな作品で、黄褐色に煙る正方形の宙空に、一陣の烈風が渦巻いて荒れ狂う。いつもの静謐な作風とは異なって、作家の激情がそのまま画面に叩き付けられたかのような、動的な心象に満ちた作品だった。実はこの時、会期中に見えられたお客様の中に「このタイトルじゃなかったらなあ……」と、呟いていた方があった。往々にしてこのような方は

「言っているだけ」なので、ならばもし「天上の風」と

云うタイトルだったら購入されたかと云えば、やはり買

わない事に変わりは無いだろうから、そんな発言に重き

を置くつもりは毛頭無いのだが、ただ、これから生涯を

共にする絵を購入するにおいて、しかも30数万円と云

う決して安くはない金額を、その絵と引き換える決断を

するにおいて、たぶん「地獄の嵐」と云うタイトルは、

その人に一抹の躊躇を及ぼす事は有り得ると思う。私な

どは根が単純な故か、判断基準は絵画表現そのものにし

か置いてないので、それが単に良き絵でさえあれば、た

とえ「地獄に道連れ」と云ったようなタイトルでも、お

そらくは買ってしまうだろうと思うが、もちろんそうで

はない人だって居る。と言うよりは、そうではない人の

方が多いのかも知れない。やはり思考が言葉によって為

される以上、私達が言葉から受ける影響は、自らの思う

以上に大きいと思われる。ならば一枚の絵を購入するに

当って、出来ればそのタイトルは、悪しきものよりは良

き印象をもたらすものであって欲しい、そう考えるのは

至極当然の道理だろう。よって商売上の都合を考えた場

合、作品の魅力を更に高めるようなタイトルを、或いは

そこまで望まずともせめて無難なタイトルを、と願うの

が、画廊としての偽らざる本音だ。そして言うまでもな

い事だが、そんな事情を最もよく知る者は、長く制作に

携わって多くのタイトルを作品に冠し、数多い展示会を

経験して来た画家自身なのである。それにも拘らず、あ

えて好ましからざる印象を齎すようなタイトルを、画家

は自らの作品に付与した訳だ。それは何も「地獄の嵐」

に限った事ではなく、実際本宮さんの作品を顧みると、

そのような一見「負」の印象を与えるような命名が散見

される。ここでその一々を挙げる余地は無いが、ちなみ

に今回の新作に目を向ければ、出品作品の中核を成すと

思われる「河」の連作に、作家はそれぞれ次のようなタ

イトルを冠している──「忘却の河」「号泣の河」「業

火の河」「悲嘆の河」「憎悪の河」。最初の「忘却」は

正負の両面を含むとしても、以降の4タイトルは、明ら

かに負のイメージを与えるものだ。このような命名に関

して、作家に直接その真意を伺おうと思った事もあった

が、しかし絵画で全てを語るが故に、言説には努めて寡

黙な本宮さんの事だ、決して饒舌な答えは返って来ない

だろうと思い直した。しかも、自分で自分の意識を分析

し、説明すると云う行為は、場合によっては難しいもの

だ。となれば、頼りない頭を絞りつつも、自分で考える

他はない。そんな訳で、以降は全て勝手な私見である。

 

 まず頭に留め置くべきは、表現と云う行為は「肯定」

を土台として成立する事だ。当然の事だが、否定すべき

ものを画家は描かない。或る画家がリンゴを描く時、彼

はそのリンゴを肯定している。もし何らかの理由で彼が

リンゴを嫌うのなら、初めからリンゴをモチーフにはし

ない。むろん一方では「欺瞞を暴露する」「戦禍を告発

する」等々、或る目的を持って表現が成される事も有る

から、その時はあえて否定すべき物事も描かれる事にな

る。しかし、表現がそれ自体を目的とするのではなく、

何らかの思惟を提示するための手段として用いられる場

合、それは最早「純粋視覚芸術」とは言えないだろう。

よって、ここではそれは論外としたい。今、問題とする

のは、あくまでも純粋な視覚表現としての絵画である。 

 次に考えるべき事──いや、これに関しては既に答え

が出ているので、考えるまでもない、単に「確認」と言

った方が妥当なのだが。設問はこうだ、ならば本宮さん

の絵画は「純粋視覚芸術」かどうか。本宮健史と云う画

家を知った当初から、その作品には聖書や神話から取ら

れたタイトルが多く付けられていたので、私はご本人に

お会いするまでは、画家をクリスチャンと信じて疑わな

かった。しかしお話を聞いてみると、自身の根底にある

普遍的な「祈り」の象徴として、必然的に宗教や神話か

らの引用が多くなるが、特に聖書や神話だけにこだわっ

ている訳ではないとの由、しかも真っさらな画面を前に

した時、そこに何が描かれる事になるのかは自身全くの

未知数であり、よって作品にタイトルを付けるのは、最

終的な段階に入ってからが多い、とのお話だった。つま

り本宮さんの芸術は、何らかの宗教的思想や神話的理念

を表現するものではなく、じっくりと長い時間をかけて

自己との対話を重ねゆく内に、もしや本人でも自覚し得

ないような意識の深層から浮上したものであり、それが

結果的に、画家の人間性を色濃く反映した「祈り」の諸

相を帯びるのである。そう考えた時、本宮さんの絵画が

純粋な視覚芸術である事は、最早論を俟たないだろう。

 以上から結論出来るのは、本宮さんの芸術が純粋な視

覚表現であるのなら、それはやはり「肯定」を土台とし

ていると云う事実だ。その作品に冠されたタイトルが、

どんなに「負」の印象を与えようと、或いはそれがどん

なに否定的な意義を孕もうと、そこに描かれた世界その

ものを、作者は間違いなく肯定している。だからこそ、

そこには信ずるに足る何物かが宿り、見る者の心奥にま

で響き到るのだと思う。さて、問題はここからだ。それ

なのに何故、作者はその全幅の肯定に対し、あえて否定

的なタイトルをぶつけ、負の印象を齎そうとするのか。

 

 以下も前回展の話になるが、展示作品の中に「顔立ち

─厚顔」と云う絵が在った。40cm角、これも黄褐色

に染まる空間に、顔と思しき楕円形のフォルムが、茫漠

と浮かび上がる。顔には目も鼻も口も無く、代わりに無

数の線が縦横に走っている。「線」と言うよりは「傷」

と言うべきか、それが何を表すのかは知らない。ただ、

タイトルの「厚顔」と云う言葉が、どうしてもそこに負

のイメージを付加する。幸いこの作品は、そんなイメー

ジなど物ともしない慧眼のご婦人が「元々顔の絵が好き

なの。それに色がとても自然でいいわね」と、にこやか

に買い上げてくれたのだったが、会期中毎日のようにそ

の絵を目にする内に、ふと思った事があった──これは

自画像ではないだろうか──そう考えた時、今までの疑

問が緩やかに氷解するように思えたのである。加えてこ

の年の秋、或るお客様から連絡が入り、20年ほど前の

本宮作品を、思いがけなく拝見する機会を得た。横顔の

胸像をシルエットのように描いた秀作だったが、裏を見

ると「うそつき」と書き込んである。やはり負の印象を

醸し出す命名だったが、これもおそらくは自画像であっ

たろう。以上の2例は、作家は決して否定的な意義を作

品に託したのではなく、むしろ画家自身の人格を所以と

するものであった事の、明らかな証左となる。一見否定

的な命名の原因は、その人間性にあったのではないか。

 思えば現代は、自己陶酔的な多々の自撮り画像を、臆

面もなくウェブ上に曝け出して恥じない、ナルシシズム

全盛の時代である。よってそこでは、大っぴらな自己の

肯定こそが良しとされる。そんな時代を生きる今の若者

には、分かりにくい感覚かもしれないが、かつては賢明

の人ほど己を隠したものである。換言すれば、己を喧伝

するような人は愚昧の徒と見られた。こんな事を書いて

いると、年齢を感じて思わず溜息が出るが、きっと本宮

さんの精神的な土壌も、やはり私達の世代に属するのだ

と思う。だから自画像に、ナルシスティックな命名など

とても出来ない、故に「厚顔」「うそつき」と云った、

一見は負の印象を宿す命名となる、そのように考えては

どうだろう。同様な図式を他の作品にも敷衍すれば、先

述した「地獄の嵐」も、決して荒れ狂う地獄の竜巻を、

直接に表現したものではなかったのではないか。その本

質は、負のイメージを宿した命名の陰に、必ずや潜んで

いるに違いない。自己を標榜する事への韜晦、声高な主

張に対する含羞、そんな本宮さんの人柄に思いを寄せた

時、一見は否定的と思えた負のタイトルも、確かな肯定

へと変換される。私は本宮作品のタイトルを、韜晦と含

羞ゆえの示唆と見たい。ならば示唆の指し示すだろうそ

の向こうにこそ、隠されていた本当の名前が有る筈だ。

 

 もう一つだけ、以前の事を記しておきたい。これは第

3回展における話だから、もう7年ほど前の事になる。

この折に、一艘の小舟を描いた作品が出品された。暗澹

と澱んだ海原を越えて、今しも波打ち際へ密やかに打ち

寄せた小舟、その積荷は「炎」だ。舟いっぱいに炎々と

燃え盛る焔が、闇夜の大気を熱く焦がすかのように、真

っ赤に滾って狂い咲いている。作家はこの絵に「カロン

テ」と云うタイトルを付けていた。調べてみると、ギリ

シャ神話を舞台に、冥界の河で舟を操る渡し守の名前ら

しい。さて、舟の上で燃えているものは何だろう、と推

し量れば、それは何やら不吉な様相を帯びるのだが、こ

の時もそんなイメージなど物ともしない慧眼の紳士が、

一暼のもとに買い上げてくれた。この折に作品から受け

た感慨を、当時私はこのように書き記している。「自分

は光明を求めるよりも、むしろ闇に迷いながら、手探り

で歩き続けるしかない、そのように画家は話していた。

しかし、私はあの『カロンテ』を見て思うのである。光

など求めずとも、ここに光はあるではないか。もう疾う

に赤々と燎火を掲げているではないか。憤怒を燃やし、

情念を燃やし、やがて悲嘆も絶望も悉くを焼き付くし、

いつしかそれは暗闇を照らす灯火となる。闇夜の舟、貴

方こそが光だ。星なき暗雲の下、暗黒の海洋を越えて、

それは今、暗い心のみぎわに辿り着いた。もうここに失

意はない。あらゆる悪しきものを燃やし尽くすため、荒

ぶる神は真っ赤に燃え滾っている」。顧みれば、これは

私なりの勝手な解釈であったろう。しかし、今あらため

て読み返してみた時、私にはこれが間違った解釈であっ

たとはとても思えない。一見絵の中では、負のイメージ

が激しく燃え盛るように見えた。然りながら、その示唆

する含意を凝視すれば、確かな正のエネルギーが赤々と

焔を上げていた。言うなれば負のイメージが燃えていた

のではない、負のイメージこそを燃やして、炎は紛う方

なき正のイメージへと、自らを転換していたのである。

 それが如何に負の印象を齎そうと、絵が十全に描かれ

てさえいれば、その絵は自らに力を宿す。絵の力とは即

ち肯定であり、肯定は必ずや希望を孕む。たとえそれが

絶望を描いたものだとしても、それは力となり、肯定さ

れ、一条の希望を導くだろう。ここに負の住処は無い。

 

 最後に。「号泣の河」「業火の河」「悲嘆の河」「憎

悪の河」──繰り返すが、これらは今回の出品作である

「河」の連作に、作者の冠したタイトルである。蛇足な

がらそれらを、私ならこう読む。「号泣の河を渡って」

「業火の河を抜けて」「悲嘆の河を過ぎて」「憎悪の河

を越えて」──きっと光なき河を出た向こうには、豊か

なる祈りの大河が広がるだろう。ここには希望がある。

 

                     (20.02.23)