語りかけている (2020)   ガラス絵 / 0F
語りかけている (2020)   ガラス絵 / 0F

画廊通信 Vol.205            抽象の本意

 

 

 平澤さんのガラス絵は、過去にも二度ほど出品の機会を戴いたが、いずれも油彩作品と併行しての展示だったので、ガラス絵のみによる企画は今回が初めてとなる。しかも、その折は葉書よりも小さなミニチュアがメインだったのに対し、今回は0号やサムホールと云った油彩サイズの、十分な大きさを備えた作品群が一堂に並ぶ。振り返って、ガラス絵を手掛ける作家は少なくないが、その多くはタブローや版画を本分とする作家の、二義的な制作の範疇を出ないものであり、よってガラス絵ならではの独自性を追求した表現には、ほとんど出会う事がない。しかし、今回の出品作はそんな現況とは一線を画し、真っ向からガラス絵の可能性に挑んだものとして、

油彩や水彩と云った他のメディアと、同等の価値を持つ

表現に到っている。ならば平澤さんの場合、ガラス絵な

らではの独自性が何処に有るのかを考えてみると、まず

特筆すべきはその即興性だろう。そもそも油彩であれ水

彩であれ、平澤さんの作画には即興的な線やフォルムが

随所に飛び交うが、ガラス絵と云う特殊な制作工程のゆ

え、そこでは油彩のような長期に亘る試行錯誤とはまた

別種の、瞬時に湧出する詩的直感が求められるのだと思

う。そのためガラス絵の表現においては、更なる縦横な

即興性が際立つのではないだろうか。そしてもう一つ顕

著な特徴として、その鮮やかな色彩性が挙げられる。こ

れにしても、元々油彩作品にも認められる側面ではある

のだが、しかし、ここでは明らかにその用いられ方が違

って、ガラスと云う透過する支持体の特性を活かした、

より彩度の強い艶やかな色調へと歩を進めている。この

「即興性」と「色彩性」が十全に相俟った時、そこでは

或る変容が生起する。それを単簡に「抽象化」と言って

妥当かどうかは判断に迷う所だが、確かに平澤さんのガ

ラス絵の世界には、油彩以上に融通無碍と言っても過言

ではない、しなやかに解き放たれた抽象性が見られる。

先日府中のアトリエまで伺った際に、右図の作品を見て

「これは最早抽象画ですね」と思わず洩らしてしまった

のだが、平澤さんにこやかにおっしゃるには「それは花

のつもりなんですが…」、なるほどそう言われてみれば

咲き乱れる花の群生にも見えて来る。「自分としては、

抽象画を描いていると云う意識はないんです」と云う言

葉を聞きながら、そう言えば以前にも同じような会話を

した覚えがあったなあと、今更ながら思い出したのだっ

た。自戒を込めて言えば、私達は常々「抽象」「具象」

と云う言葉を何の気なしに口にするが、それはあまりに

も安易な用い方なのかも知れない。言うまでもなく「抽

象性が見られる」事と「抽象画である」事との間には、

大きな懸隔が有るに違いないのだから。今回のガラス絵

を語るに当たって、避けては通れないこの「抽象」と云

う言葉を、今あらためて考えてみるのも一興かと思う。

 

 実は美術史を顧みた時、抽象絵画の定義は明確ではな

い。これはいわゆる「抽象画家」と呼ばれる一群の画家

達の、抽象表現に到った道程や思考がそれぞれに異なる

からで、その開祖と言われるカンディンスキーとモンド

リアンを比較してみても、そこに到る考え方はまるで違

う。他にもミロ・マレーヴィチと云った先駆的な画家、

或いは抽象画家とは言えないにせよ、限りなく抽象に接

近したピカソやクレーと云った面々、それらの抽象表現

をざっと見渡してみても、そこに「具象的ではない」と

云う事以外の共通項は見出し難い。つまり、見れば誰も

がそれと分かる「リンゴ」や「花」がそこには描かれて

ないと云う事、共通している点はそれだけなのだ。なら

ば逆に、この「具象的ではない」と云う共通項こそが唯

一の定義であると考えても、あながち誤謬とは言えない

のかも知れない。事実、カンディンスキーも「非具象」

と云う言葉を、好んで用いたと言うのだから。ちなみに

美術史家のE・ゴンブリッチは、前世紀初頭に起こった

表現主義の動向に抽象美術の萌芽を見て、その思考過程

を次のように記している。以下は「美術の物語」から。

 

 表現主義は、絵画で大切なのは自然の模倣ではなく、

 選び取った色と線による感情の表現だと主張する。も

 しそうなら、全ての主題を放棄し、色合いと形の効果

 だけを頼りとする事によって、絵画は更に純粋なもの

 になるのではないか、という考えが出て来て当然であ

 る。言葉がなくてもあんなに表情豊かな音楽の例があ

 る。ならば絵画でも、と、純粋な視覚的音楽を夢見る

 画家や批評家が出て来ても、決しておかしくはない。

 

 こうして、いわゆる「抽象画」が誕生する。つまり、

通常用いられる「抽象」と云う言葉の意味は、具体的な

主題(具象)を離れた「非具象」の謂に他ならない。た

だ、この非具象と云う言葉もかなり曖昧で、例えば様々

な記号で埋め尽くされたようなクレーの抽象表現には、

明らかに樹や人と分かるような具象的フォルムが散見さ

れるし、反対にモランディの静物画などを見ていると、

瓶や水差しと云った具象を描きつつも、その描き方は限

りなく非具象的であり、むしろ抽象画に近いような印象

さえ受ける。斯様に「非具象」とは言ってもその範囲は

相当に広く、単純に一括りには出来ない側面もあるが、

あまり細分化しても却って話が複雑になるので、ここで

はそのまま「非具象」と云う言葉を使わせて頂きたい。

と云う訳で、通常に言う「抽象」が「非具象」の謂であ

ると判明した今、次に考えるべきは「抽象」と云う言葉

が内包する本来の意義だろう。さて「抽象」とは何か。

 

 事物や表象の或る要素や性質に着目し、それを抜き出

して(抽き出して)把握する思考形式──複数の辞書に

当たってみたのだが、それらをまとめると「抽象」はこ

んな語釈になるだろうか。この定義を美術表現に当ては

めてみると、抽象とは即ち「抽出された形象」である。

例えば、目の前に一輪の薔薇が有る。これを如何なる主

観も加えずに唯々正確に写し取れば、かつての図鑑を飾

った学術的な細密画となる。これを「芸術表現」と言え

ないのは、言うまでもなく薔薇と云う対象から、何物も

抽出していないからだ。そう考えると、未だ美術シーン

で隆盛を極める写実派の絵画に、何故こうも詰まらない

ものが多いかが分かる。そして西洋の古典派が、同じ写

実を希求していながらも、未だ鮮やかな魅力を放つその

所以が分かる。現代の写実派が、写真をただ正確に複製

し、対象の細密的な再現を一義とするのに対し、いにし

えの画家達はその多くが、注文に応じた自由度の少ない

制作であったにも拘わらず、それでも目前の対象から、

作家固有の心象を抽き出している。正にこの「抽出」と

云う作業が、現代の写実作家の多くに欠如しているので

はないだろうか。写真の画像と寸分違わずに描き出され

た一輪の薔薇、確かにそれは、一見目を見張るような驚

きを人にもたらすかも知れない。しかしその先には何も

ない、そこには抽出された何物も見当たらないからだ。

思うに「抽出」と云う作業を経ない絵画の何処に、それ

を描いた画家の存在する意義が有るのだろう。時の風雪

を越えて現存する作品の随所に、私達は幾多の薔薇を見

出す事が出来るが、そこには驚くほど多様な薔薇が描き

出されている。作家の数だけ異なる抽出が有り、よって

そこには抽出された数だけ異なる形象が顕現する、それ

こそが取りも直さず「芸術表現」の醍醐味ではないだろ

うか。結句「抽出」とは「表現」の異名に他ならない。

 

 本来あらゆる美術は抽象的である──これは英国の評

家ハーバート・リードの言葉だが、上記の如くに考えを

進めれば、当然そのような結論に到るだろう。これは一

見極論にも思えるが、しかしながら、やはり正論だと思

う。固有の形象を抽出する作業を「抽象化」と呼ぶので

あれば、そもそも美術表現とは、抽象化の行為そのもの

だろうから。話を敷衍して美術史を更にさかのぼり、美

術が発生した原点を考えてみても、それは決して曲論で

はない事が分かる。小林秀雄は斯様な原初の美術に関し

て、このように述べている。以下は「近代絵画」から。

 

 芸術の発生を、模倣衝動や遊戯本能から説明する事を

 断念するなら、つまり芸術というものを、もっと意識

 的な真面目な強力な意欲による人間の営みと考えるな

 ら、美術史上の資料が、まさしく語っている通り、人

 間の最初の芸術意欲は、抽象を目指していた事、根源

 的な芸術活動は、自然の再現とは何んのかかわりもな

 い、純粋な抽象への希求であった事を認めるべきだ。

 (中略)私達がこの断定に躊躇するのは、私達が彼等

 の感情を忘れ果てているからである。私達が抽象的な

 幾何学的な形式を、思考と計算との産物とひたすら考

 えるのに、慣れてしまっているからだ。彼等の創造し

 た抽象的様式は、私達の言うような知性の介入による

 のではない。純粋に本能的な創造力の産物であった。

 

 前々頁に「それを単簡に『抽象化』と言って妥当かど

うかは判断に迷う所だが」と書いたが、こうして考察を

進めてみた今、判断に迷う必要などなかったのだと思え

る。平澤さんは正に「本来の意味での」抽象化を、制作

の中で十全に為しているからだ。しかもそれを、小林秀

雄の言葉を借りれば「思考と計算との産物」ではなく、

あくまでも「純粋に本能的な創造力の産物」として。今

私は、身近に数点のガラス絵を見ながら、こうして筆を

進めている訳だが、ここに見られる抽象化は、奔放とも

言えるほどに自在だ。縦横無尽と言うのか、或いは天衣

無縫とも言うのか、即興的に跳躍する感性の舞踏がここ

には在る。もちろん即興的とは言え、そこには意識的に

しろ無意識的にしろ、画家特有の作為はあるのだろうけ

れど、しかし、それは「思考や計算」と云った知性によ

るものではなく、あくまでも感性の領域から湧出するも

のだ。私達の思考性の常として、何故かしら「知性」は

「感性」に勝るような感覚が有り、それが芸術にもその

まま適用されてしまう事から、例えば「知性的な方法論

に基づく制作」等と言われると、何処となく高尚なもの

に思えてしまうが、それはどちらかと言えば「学術」に

おける話であって、芸術における知性の行き過ぎは、却

って感性の飛躍を鈍らせるだろう。優れた詩的表現は時

を経てもその鮮度を失わないが、知的計算による表現は

その時代を経れば、忽ちの内に古びてしまう所以が其処

にある。とまれ、平澤さんの拠り所は常に「感性」の領

域に在り、それはこの全てが機能化・合理化された社会

を生きる私達には、如何にも不確かな寄る辺なき領野に

見えるかも知れないが、本来芸術家の条件とは、徹して

其処に留まる事にこそ有るだろう。平澤重信と云う画家

が、長年に亘って展開して来た独創的な詩的時空は、実

はそのような強靭なスタンスゆえのものであり、其処に

やわなロマンティシズムの入り込む余地は無い。小林秀

雄の言う「知性の介入によるのではない、純粋に本能的

な創造力」とは、正にそんな横溢する感性への讃美だ。

 

 ガラスと云う透過体の向こうに、自在な即興と色彩の

世界が広がる。ここに人は軽やかに乱舞する、生きた抽

象の地平を見出すだろう。そしてその輝きはいつまでも

失せる事がない、万華鏡の奥に息づく別次元のように。

 

                     (20.06.22)