画廊通信 Vol.217 この人を見よ
突然の逝去から1年余、ゆうさんのポートレイトをデスク脇に貼り出したまま、未だ剥がせないでいる。通常はファンに頼まれても「俺、写真は嫌いだから」と、はっきり断っておられたものだが、確かこの時は長年のファンからの要望に、珍しく応じられたのだった。画廊のテーブルに両肘を付いて、ゆうさんは微笑むともなくこちらを見ている。真っ白いバンダナに真っ白い口髭、何の生地かは知らないけれど、淡い藍染めのシャツをラフに着こなして、少々はにかんだようにも見える表情の奥
で、たぶん「しょうがねえなあ」と思っている、そんな
画家の声が、今にも聞こえて来そうな一枚だ。写真と向
き合っていると、あらためてゆうさんは大きな存在だっ
たなあと思う。私達の主観においては元より、現代美術
史上の客観的な見地においても、わたなべゆうと云う画
家は極めて大きな存在であった。尤も、その優れた画業
が正しく検証され、芸術家としての位置付けが定まるま
でには、まだまだ時間が掛かる事だろう。画家の活動が
生きた進行形である間は、命運を懸けて作品の紹介に努
める画廊と、それを身銭を切って求める、つまりは身を
削って共感を表する見客が、その時代における評価を具
現し形成する。即ち、正に美術シーンの現場・渦中に身
を置く当事者の人々が、或る稀有の卓絶した才能を、先
見の眼を以て認知してゆく訳だ。対して画家の死後、完
了形となった画業を検証するのは、研究者・学芸員・評
論家と云った人達であり、つまりは生前画家の活動する
現場には居合わせなかった、第三者の人々なのである。
これが海外であれば、学芸員も評論家も進行する現場に
軸足を置いて、積極的に同時代の芸術家を評価しゆく構
図も見受けられるが、残念ながら現在の日本において、
そこまでの冒険に身を挺する学究は居ない。今に始まっ
た事ではないが、評価を先駆するのは常に民間・在野で
あり、逆に最も遅れて参入するのが、いわゆる専門家と
呼ばれる徒輩なのである。そう考えれば、まだまだ時間
が掛かる云々と上述した所以を、ご理解頂けるだろうと
思う。しかし、どんなに時間が掛かったとしても、ゆう
さんの画業が歳月の中に消え去る事は、決してないだろ
う。何故なら、残された幾多の作品群が、自らの風化を
許さないからだ。換言すれば、まるで時間による風化を
拒絶するかの如く、作品が否応の無いエナジーを放つか
らだ。このダイレクトに響き到る圧倒的な強度には、極
めて反応の鈍い固陋の専門家諸氏でさえ、いずれは反応
せざるを得なくなるに違いない、ちょうど四半世紀前、
全くの一匹狼であった或る新人に、当代の名だたる審査
員連が、かの安井賞を授与せざるを得なかったように。
来歴を見ると、ゆうさんは1995年に第38回安井
賞を受賞している。同賞は40回を以てその輝かしい歴
史を閉じる事になるので、ゆうさんの受賞はかなりの終
盤になるが、奇しくも同年は、千住博がヴェネツィア・
ビエンナーレにおいて優秀賞を受賞し、広く世間を賑わ
せた年でもあった。当時の美術シーンを振り返ってみる
と、同じ昭和20年代生まれの作家では、一世を風靡し
た天才・有元利夫は既に亡く、代わって遠藤彰子・小林
裕児・智内兄助・磯江毅・杉本博司・川俣正等々の作家
が、それぞれの分野で意欲的な活動を展開していたが、
その一方で、上記の千住博を始めとする一世代下(昭和
30年代)の作家達が、にわかに台頭して来ていた。ザ
ッと列挙すれば、奈良美智・村上隆・宮島達男・福田美
蘭・小沢剛と云った面々である。言うまでもなく奈良・
村上の両名は、今をときめくサブカルチャー的なトレン
ドの紛れもない嚆矢であり、残る3名はいずれもコンセ
プチュアル・アートの代表格として、現代美術界を牽引
して来た存在だ。ちなみに宮島・小沢の両名は、かつて
千葉市美術館で大規模な回顧展が催され、福田も今秋に
同館の個展が予定されているので、ここ千葉においても
馴染みの深い作家と言える。こうして顧みると1990
年代と云う時代は、現在の美術シーンをリードする作家
達がその頭角を現わした年代であり、言わば新たなトレ
ンドへのターニングポイントとなった時代だった事が分
かる。ゆうさんの登場は、そんな時世の只中であった。
周知のようにこの国には、公募展を運営する「美術団
体」と云う組織形態が有って、それがプロ・アマチュア
の区別を問わず、長らく制作発表の舞台となって来た側
面がある。今でこそ、その勢力も先細りの感があるが、
ゆうさんのデビュー当時は、まだまだ絶大な影響力を誇
っていた時代であった。その影響は「画壇の芥川賞」と
も謳われた、天下の安井賞にまで及んでいたようで、輝
かしい栄誉に浴した受賞者の多くが、何らかの団体に籍
を置く者達であったと云う事実からも、その影響力の大
きさが窺える。そんな状況下、何の後ろ盾もない孤独な
アウトサイダーが、各団体の強力な推薦を受けたノミネ
ート作家連を尻目に、突如として賞をさらった快挙は、
正に前例のない事件だったに違いない。さて、ゆうさん
の作品の何が、審査員をそんな稀有の選考へと駆り立て
たのか。思うにそれは、作品の発する「力」のゆえとし
か言いようがない。並み居る団体が各所属作家をどんな
に推薦しようと、そんなものは軽く吹き飛ばすような力
を、誰もが否応無く選ばざるを得ない圧倒的な力を、ゆ
うさんの作品は放っていたのだ。そうでなければ、どう
して学閥とも組織とも無縁の新人が、受賞の快挙を成し
遂げられようか。当時の美術界に、ゆうさんの及ぼした
この「衝撃」の意味を、この際は改めて考えてみたい。
まずは同じ1995年、美術界にもう一つの快挙を齎
した日本画家・千住博の場合を見てみよう。ヴェネツィ
ア・ビエンナーレにおける受賞は前述したが、この時の
出品作品が、今では広く知られるものとなった「ウォー
ターフォール」である。あの滝の流れ落ちる絵は、多か
れ少なかれ、誰もが何処かで目にしているのではないだ
ろうか。この絵の眼目は、滝の絵を描いたと言うよりは
「絵具を滝にして描いた」ところに有る。つまり支持体
を立てて、上から絵具を掛け流す事によって描かれた作
品なのだ。これに関しては、アメリカの抽象画家モーリ
ス・ルイス等が、既に似たような制作をしているので、
千住一人の発案とは言えないにせよ、これを抽象画の技
法としてではなく、具象的に滝の動的な表現として用い
た点に、且つはそれによって見事に日本的情緒を表し得
た点に、当時の審査員は斬新性を見出し評価を与えたの
だろう。以降、飽きもせず滝ばかり描くようになるとは
思わなかったので、確かに当時千住の登場は、旧態依然
の日本画界に新風を吹き込むかのように見えたものだ。
それはさて措き、次はアニメポップの元祖・村上隆に
話を進めたい。村上は芸大日本画科を卒業したのち、同
大学院で博士課程も修了したエリートで、当初は抽象表
現を主としていたが、アメリカ等の美術シーンを見聞す
る中で、日本のサブカルチャーが広く浸透している事に
着眼し、その最もたる表徴としての「アニメ」を、戦略
的に表現手法とするに到った。更には、その意義を「ス
ーパー・フラット」なるキャッチフレーズの下に理論化
し、自らの一見アニメ的な表現を、実は浮世絵等の伝統
から連綿と継承された血統に他ならないと位置づけた、
一種牽強付会とも言えるアイディアがまんまと成功し、
一挙に国際的な注目を集める事となった。以降の時流に
乗った華々しい活躍は、最早説明の必要もないだろう。
さて、以上の2作家に共通するものを考えた時、作風
は全く異なるものでありながら、両者共に作品自体より
は、その「手法」が評価へと繋がっている点が顕著だ。
即ち、千住なら絵具を滝にして描いた手法が、村上なら
アニメを表現の武器に用いた手法が。加えて言えば、先
述した小沢や福田と云った面々は、コンセプチュアル・
アートを表現分野とする事から、そもそも概念=言葉と
云う手法がなければ成立しない領域に、身を置いて来た
作家だ。これら純粋な視覚表現よりは、方法論の知的な
遊戯が趨勢になりかけていた時代に、突如荒々しい殴り
込みをかけるが如くに、ゆうさんは登場した訳である。
美術とは、まずは視覚表現である事──この至極当然
の原則を、当時ゆうさんの芸術に向き合った人は、無言
の内に思い知らされたであろう。現在もまた同じだ。相
も変わらず観念の遊戯ばかりが跋扈し、本物の表現に出
会う事は、極めて稀であるのみならず、近年は若手作家
をもてはやす事が流行となって、結果「アート」と云う
便利な符丁の下に、単なる遊びに過ぎないものまでが、
軽佻に美術の名を騙って恥じない。そう考えると、前世
紀末よりもなお、状況はあらぬ方向へと傾きつつあるの
かも知れない。思えば約30年に亘って、ゆうさんはそ
んな美術シーンを駆け抜けた。その間、制作には一切の
コンセプトを持ち込まず、表現から厳しく言葉を排し、
よって作品にもタイトルを付けず、自ら解説を施す事も
なく、徹して純粋な視覚表現を貫いた。それでもなお、
いや、だからこそ、コンセプトの依拠など有らずとも、
人は作品からあの原初の声を聞き、否応の無い直截の響
きを受け取ったのだろう、本物とはそのようなものだ。
今回の案内状にも記した通り、ゆうさんはしばしば、
自らの制作を農耕に例えて来た。極言すれば、ゆうさん
にとって「描く」とは「耕す」事だ。数多の画家が小賢
しい理屈を振りかざし、余計な観念をこねくり回してい
る間に、ゆうさんは独り汗をかいて、ひたすらに精神の
農場を耕し、魂の種子を植える。やがて豊穣の果実が農
場を潤す頃、それらはヤワなコンセプトなどは問題にも
ならない、強靭な力を孕んで見る者を打つ、それを目の
当たりにした時、私達は「表現」という行為の本質を知
るのである。詰まるところ表現とは、精神を物質化する
行為である事、ならばその結果としての作品は、何より
もまずは物質である事、その血が通い、体温を持った、
生きた「物」としての手触りを、ゆうさんの芸術は濃厚
に体現している。それは、マチエールと云う言葉だけで
は足りない、もっとその内奥までをも濃密に含むもの、
切れば血が噴き出すような、言わば「生命の手触り」な
のである。こうしたリアルな身体感覚こそが、押し並べ
て他作家に大きく欠落し、逆にゆうさんが濃厚に体現す
るものであった。この忘れられていた芸術の「肉体性」
を、ゆうさんは圧倒的な原初のパワーを武器に、再び美
術シーンに持ち込んだのだと言える。こうして私達は、
美術における肉体性の、豪快な復活劇を目にして来た訳
だが、言わば頭脳だけが徒らに肥大化された脆弱なトレ
ンドに、真っ向から敢然と異議を唱えて、血の通った身
体をイキイキと復権させた、それこそが画家「わたなべ
ゆう」の世に齎した、比類なき衝撃だったのだろう。思
えばその前で、賢しらなコンセプトの如何に無力だった
事か、そんなものは瞬時に吹き飛ばすような底力を湛え
て、残された作品は現在も、ただ黙々と息づいている。
無力な画廊が何を言ったところで、誰にも届かないだ
ろうが、それでも今は言おう、「この人を見よ」と。こ
の人が残した刻印を、この人が育んだ生命を、この人が
実らせた魂魄を、唯ひたすらに見よと。いずれその画業
は、必ずや歴史にその足跡を刻む、そしていつの時代も
幾多の干涸びた人心に、豊かな息吹を齎す事になる。な
らば今、私達の言うべき事は一つだ──この人を見よ。
(21.06.16)