ノイバラ(2023)   鉛筆 / 13.1x11.6cm
ノイバラ(2023)   鉛筆 / 13.1x11.6cm

画廊通信 Vol.244        セカンド・クライシス

 

 

 ルネッサンス以降、美術史は少なくとも、2度の大きな危機に見舞われている。最初の危機は「写真」の登場である。その新たな光学・化学技術のおかげで、美術は「絵画の消滅」という危機を迎えた。何しろ写真の場合は、現実をそのまま「写す」事によって、絵画を凌ぐ写実性を獲得してしまった訳だから、その驚異的な技術を前にして、絵を「描く」事の意味が改めて問われる事になったのは、至極当然の成り行きであった。もっとも写真の前身である「カメラ・オブスクーラ」を、フェルメ

ールに代表される一部の画家が利用していた事は、ほぼ

確実だろうと言われているから、写真の登場する以前か

らそれに準ずる「画像」の存在は、画家の間では多かれ

少なかれ知られていたものと思われる。それどころか近

年は、更に大胆な説も登場して論議を巻き起こした。以

下は、デイヴィッド・ホックニー「秘密の知識」から。

 

 光学機器を使った画家もいれば使わなかった画家もい

 るのは明らかにしても、1500年以降はレンズと鏡

 を用いた映写に特有な色調、陰影、彩りの影響を受け

 ていない画家はほとんど見あたらない。光学機器を直

 接に用いなかった画家としてはブリューゲル、ボッシ

 ュ、グリューネヴァルトの名が思い浮かぶ。しかし彼

 らも光学機器を使った絵を見てはいたろうし、映写さ

 れた像そのものも目にしていたかもしれず、徒弟は作

 品の模写に光学効果を利用したこともあったろう。こ

 こでもう一度、光学機器が絵を描くのではないと強調

 しておこう。素描と絵画は人の手によって作られる。

 私が言いたいのは、フェルメールによるカメラ・オブ

 スクーラ使用が証拠立てられた17世紀より遥か以前

 に、画家は道具を持っており、それまで美術史に知ら

 れていなかった方法でそれを用いたという事である。

 

 という訳で、ホックニーの画家ならではの詳細を極め

た研究によると、ファン・エイク、ダ・ヴィンチ、デュ

ーラー、ジョルジョーネ、カラヴァッジョ、ベラスケス、

レンブラントといった、古典絵画史に君臨する巨匠達の

悉くが、カメラ・オブスクーラを始めとした何らかの光

学機器を用いていたと言うのだから、これは美術史を覆

すような驚くべき新説であり、激しい論議を呼んだのも

当然の経緯と思われるが、もしそれが事実であったとし

ても(たぶん事実だろう)当人の強調した通り、画家は

それをあくまでも道具・補助機器として用いたのであっ

て、光学機器自体が絵を描いた訳ではなかった、言うま

でもない事だけれど。それが、時代を下って19世紀に

入り写真が登場するに及んで、光学機器は「感光」とい

う化学現象を用いて、機器自体が写像を定着させる事に

成功した。むろんそれを操作するのは人に違いないが、

その工程では「描画」という作業が無用となり、故に絵

画どころか、画家の存在意義さえもが問われるに到った

訳である。この甚大な危機を、当時の画家達は画期的な

理念の転換で切り抜け、それが結果的に、近代絵画とい

う新しい流れを形成する嚆矢となった。つまり彼らは、

それまでの常識であり自明の理であった「写実」という

理念から敢えて離れ、代わりに写真には出来ない表現へ

と、その矛先を大胆に転じたのである。この転換によっ

て絵画は、正に「絵画にしか出来ない事」を追求する表

現形態となって今日にまで到る、印象主義・象徴主義・

キュビスム・抽象主義等々、全てその成果と言えるだろ

う。こうして画家達は最初の大きな危機を乗り越え、美

術は「絵画の消滅」を回避し得た訳だが、ついでながら

このような美術史を顧みた時、近年の根強い写真的絵画

の流行が、如何に奇妙な現象であるかがご理解頂ける事

と思う、何しろ先人達が断腸の思いで写実を捨てて、せ

っかく絵画にしか出来ない表現を獲得したのに、それを

自ら最初の危機に流れを戻し、のみならず却って写真を

崇め奉り、如何にそれを上手く真似るかを至上課題とし

ている訳だから。さておき、この辺りで第2の危機へと

話を進めたい。実を言うとそれは、美術史上における過

去の出来事ではなく、正に今、私達を直撃してその渦中

へと陥れている、現在進行形のクライシスなのである。

 

 第2の危機、それは「AI」の登場である。この驚異

的な電脳テクノロジーのおかげで、美術は今や「画家の

消滅」という危機を迎えるに到った。最近にわかに話題

となって世を騒がせている「チャットGPT」等は、正

にその最先端の技術と言えるものだろうが、これはご存

知のように、画家ではなくAI(人工知能)に創作をさ

せるプログラムである。むろんそれを操作するのは作家

なのだが、描画を必要としない事から画家も必要とされ

ず、逆に言えばたとえ絵が描けなくても、誰もが画家を

名乗る事が可能となった、それが「画家の消滅」と申し

上げた所以である。上に「操作」と記したが、正確には

「指令」と言うべきか、つまり作画ソフトを操作して絵

を描かせるのはAIなのだから、人間の役目はただAI

に指示を出すだけ、このまま進化すればその指示だって

AI自身が判断して下すようになるのは時間の問題だろ

うから、そうなると「画家の消滅」どころか美術界にお

ける「人間の消滅」も、最早SFの夢物語と笑い飛ばす

事は出来まい。ただし、ここで問題となるのは「作者は

誰か」という事だ。喩えるなら、料理の作れないレスト

ランのオーナーが居たとして、その店のシェフが彼の指

示の下に、新たなメニューを考案して作ったとしよう、

さてその料理の作者は誰か、という問題である。これを

絵画の制作に当て嵌めれば、オーナーは作家、シェフは

AIとなり、ついでに言えば食材は電脳ネットワーク内

のデータ、レシピはそれを処理するアルゴリズムという

事になろうか。つまり、シェフが様々な食材を用いてレ

シピを考えるように、AIは膨大なデータ=情報を用い

て、それを高度のアルゴリズム=処理法で組成するので

ある。この時「作者は誰か」という問題は、未だ甲論乙

駁して解決には到らないようだが、私自身はそのように

問う前に、絵画制作において画家=人間が疾うに消滅し

ているのなら、そもそも作者は居ないのだと考えたい。

この問題を論じていたら、それだけで紙面が尽きてしま

うので、この辺りでそろそろ切り上げる事にするが、一

つ確実に言える事は、コンピューターの機能が「情報処

理」である限り、AIもその範疇を出ないという事だ。

即ち、AIは自ら創造する事は出来ない、たとえそれが

創造した作品に見えても、実は極めて膨大な情報の複雑

高度な処理によって、創作に「見せている」に過ぎない

のである。現在でもその擬似形状は見事であるから、近

い内にそれは、優れたアーティストによる作品と見紛う

ようなレベルまで、更に言えば数多の二流作家を遥かに

凌ぐレベルにまで、間違いなく到達するだろう。しかし

それは、限りなく「それっぽい」所にまで近接はするに

しても、決して「それそのもの」には到らない、それが

AIの限界なのだと思う。よって作家性よりは経済性を

一義とするコマーシャリズムの世界では、近々AIが市

場を席巻する時代が来ると思われるが、芸術の世界では

遅かれ早かれ、その化けの皮の剝がれる時点が到来する

だろう、芸術の意義がこの世から抹消されない限りは。

 

 さて、こんな話を長々と開陳する事になった契機は、

先日届いた河内さんの新作画像を拝見しつつ、この先A

Iが如何なる進化を遂げたにせよ、やはりこんな絵は描

けないだろうと、改めて思ったからである。何故なら、

河内さんの描き出す世界は、全く関連のないモチーフを

自在に組み合わせる事によって、思いも寄らぬ不思議な

イメージを生起させるという、いわゆる「コラージュ」

の方法論に基づいたものなので、畢竟そんな理論では説

明の付かない状況こそ、AIの最も苦手とする領域であ

るからだ。むろん、無尽蔵のデータから適当なモチーフ

を選択して組み合わせる位は容易に出来る筈だから、そ

れ「らしい」画像は幾らでも可能だろうけれど、それで

一流のコラージュ作品が生み出せると考えるのは、例す

れば世界中の有りと有る食材を適当に混ぜ合わせれば、

いずれ一級の料理が仕上がるだろうと考えるに等しい。

 右に掲載した作品は、今回出品される新作の中で、最

もシンプルと言える一作だが、この作品について少々考

えてみると、花と動物の構成を案出するまでは、AIで

も充分に可能だろう。しかし、無数に存在する植物の中

からノイバラという小花を選択し、そこにあろう事か象

の巨体を乗せるという離れ技は、やはりAIには考え付

かないのではないか。のみならず、その象が何を思った

かは知らないが、花弁の上で雄蕊を無慈悲にも蹴り飛ば

し、哀れな雄蕊は為す術もなく宙を漂う、という通常の

理解を軽やかに超える構図は、正に河内良介という芸術

家ならではの発想であり、機知であり、換言するならそ

れは、徹底してコラージュの方法論を追求して来た作家

だからこその、自在なイメージの飛翔と言えるだろう。

斯くの如く、最もシンプルな作品でさえAIの機能を遥

かに超える訳だから、他作品に関しては最早言わずもが

なである。この「条理を外れる」という事、それは即ち

知性の領域を外れる事であるから、AIが知性の無限の

延長である事を顧みる時、そもそもそれは不可能と言わ

ざるを得ない。所詮「条理を外れる=不条理」とは感性

の機能であり、思えばAIに決定的に欠落する領域こそ

が、正にこの「感性」なのである。言うまでもない事だ

が、全てをアルゴリズムの計算処理が差配するAIには

「感性」が無い。よって、感性を土壌とする「直感」も

無ければ、直感を出発点としたイメージの飛翔も無い、

ならばそこに感性の表出である「芸術」の発祥も理論的

に有り得ず、もしそれが有り得たらそれこそ不条理と言

う他ない。ただ前頁にも記したように、自らが無尽蔵の

膨大なデータを内蔵する事から、それを元に擬似的なア

ート作品をAIは幾らでも量産し得るだろうし、また、

それをアートと履き違えて賞讃する人々も急増するに違

いない。そう考えれば、やはり現在の美術シーンが第2

の危機に瀕している事は、疑い得ない事実なのだ。とし

たら、それを乗り越える打開策を、現代の画家は見出さ

なければならない。思うにその答えとは、既に河内さん

がその作品の中で、縦横に実践されて来た事に尽きるだ

ろう。即ち「AIには出来ない」表現を希求する事、先

述したかつての危機に、当時の画家が「写真には出来な

い」表現を求めて、新たな美術史を切り拓いたように。

 

 今回の河内さんの新作は、そのほとんどが「植物」を

モチーフとしたものだ。植物を描いた表現は数多いので

珍しいものではないが、しかし考えてみると、植物表現

は常に色彩表現と一体になって来た、そこに河内さんは

モノクロームの挑戦を仕掛けた訳である。色の無い花、

色の無い草木、しかしながらそれらが如何に変化に富ん

だ魅力を放つか、それは実物を見に来て頂く他ない。逆

に言えば私達は、色の無い画面から無限のイメージを汲

み取る事が可能だ。そう、私達は「感じる」心を持って

いる。これはAIには決して持ち得ない私達の特権であ

り、これが在って初めて「絵画=芸術」という場も形成

される。河内さんの描く特異な植物園を散策する人は、

画家と見者のそんな天与の特権が、活き活きと交感し躍

動し、響き合う様に、改めて驚嘆を新たにするだろう。

 

                     (23.07.07)