夜の帳が下りる頃   Mixed media / 4F
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画廊通信 Vol.249          美醜を超えるもの

 

 

 第18回舟山一男展──今年の新作群は、舟山さんの世界を「サーカスをテーマとしたメルヘン」と捉えて来た方々には、少なからぬ驚愕と困惑を齎す事になるかも知れない。確かに道化師・軽業師・踊り娘・楽師等々、描かれたモチーフの大方は、通常の如くサーカス小屋を舞台としてはいるのだが、今回の新作が一様に孕む或る

種ダークなイメージは、メルヘンの甘美な幻想とは程遠

いものだ。或る者は強く深い鬱屈を、噛み締めるように

顔容の奥に潜め、或る者は様々に去来するであろう想い

を、奇妙に歪む仮面の中に閉ざし、また或る者からは拭

えども消えない懊悩が、背後の暗澹と澱む闇へと溶け出

す。尤も今回のような一種強烈なイメージは、今までに

も諸処に垣間見られたもので、それはおそらく、画家ご

本人がその現れを抑えようとしても、自ずから滲み出て

しまったものであったろう。以前にもこの場に何度か記

した事だが、私自身の舟山さんとの出会いも、幻想が柔

らかに揺蕩うような印象よりは、不穏な沈黙の中から危

うい魅惑が津々と滲み出すかのような、極めてインパク

トの強いものであった。20年を遡った以前、都内の或

るギャラリーで拝見した個展が、忘れもしない舟山さん

との出会いだったが、未だにその光景は脳裏に有り有り

と焼き付いて消えない。以下は、当時の画廊通信から。

 

 舟山一男という作家は、もちろん以前から美術誌等で

 知ってはいたが、個展をじっくりと見る事が出来たの

 は、京橋のギャラリー椿における展示が初めてであっ

 た。2003年、初秋の事である。京橋・銀座界隈を

 巡る方ならご存じの事と思うが、ギャラリー椿は個性

 派の若手・中堅作家を取り扱う著名な画廊で、舟山さ

 んはその中でも筆頭の作家である。現在のギャラリー

 は、画廊の林立する近隣でも、群を抜いて明るく広い

 スペースを誇っているが、当時は現在の場所から道を

 一本隔てた地下にあって、今程の広さはないものの、

 地下ならではのユニークな雰囲気を持った画廊であっ

 た。初めての舟山一男展、階段を降りてガラス扉を開

 け、照明を落とした仄暗い画廊に足を踏み入れた瞬間

 から、そこには或る種独特の静けさが漂い、深い透明

 度を湛えた空気が、訪れる人を森閑と包む。作品は概

 ねが0号から10号以下の小品、しかしその存在感は

 凡百の20号・30号を遥かに凌ぐ。こんな時は改め

 て、団体展に有りがちな100号や200号という無

 意味な大作風潮の愚昧を思う、言わずもがなではある

 が、優れた小品は愚かな超大作に勝るのだから。さて

 おき、ひっそりと寡黙な佇まいを見せる舟山さんの作

 品群は、一度見たら忘れられないような強い存在感を

 持って、深々と見る者の内奥に浸潤する。一貫してサ

 ーカスをテーマとされているので、アルルカンを始め

 とした人物像が多かったが、それにしても描かれた物

 言わぬ男女は、何と不可思議な表情を湛えて、小さな

 窓からこちらを見据えていた事か。愛憎・恋慕・憧憬

 ・夢想・希望・絶望・寂寥・孤独、人生の有りと有る

 哀歓を憂愁の相貌に秘めて、時を止められたそれぞれ

 の窓の中、彼らは哀しきパントマイムを果てもなく演

 じていた。ただ美しい人物像は幾らでも有るが、美醜

 共に織り交ぜてなお美しい人物像は、そう有るもので

 はない。舟山さんの描く人物は、人間の美醜両面を孕

 みながら、だからこそ真の美しさをそこはかとなく醸

 し出す、深い情趣を潜在している。人物のみに非ず、

 風景にそして静物に、全ての作品の奥底に潜む深く透

 徹した眼差し……。けだし舟山さんは、現世のあらゆ

 る哀歓を密やかに綴る、澄んだ目を持つ詩人である。

 

 過日、案内状の紹介文が一向に纏まらず思い倦ねてい

た時、ふと「美醜を超えた魅惑を滲ませて」云々という

文言が浮かび、我が意を得たりとばかりに早速文中に用

いたのだったが、何の事はない、20年も前に同じよう

な台詞を書いているではないか、つまりはこの20年、

何の進歩も無かった模様である。それはそうとして、上

述の「美醜共に織り交ぜて」云々という台詞に関して、

その意味する所を、当時の私は詳細に記してはいないの

だが、後年の画廊通信上に、その解説をしている部分が

有ったので、ついでながらこの場に引用しておきたい。

 

 思えば現在、美術市場はただ美しいだけの人物像のオ

 ンパレードである。綺麗なお姉様を綺麗に描いただけ

 の美人画が、あちらでもこちらでも良く売れている模

 様だが、私は正直言ってそのような安直な写実画には

 全く興味がない。一枚の絵に出来る事は何か──とい

 う厳しい問いを、そのような作家は自らに突き付けて

 いないからである。人物を描くに当たって、絵画にし

 か出来ない事は何か、そう自らに問いかけた時、画家

 は自ずから皮膚の下に潜む人間の精神という存在を、

 凝視せざるを得なくなるだろう。そして、美しいだけ

 の精神など有り得ない事を知るだろう。良心があれば

 必ず邪心がある、愛情の影には必ず嫉妬がある、歓喜

 の裏には必ず悲哀があり、賢者もともすれば愚者へと

 落ちゆく……。しかし、そんな精神の明暗を取り混ぜ

 てなお、人間は愛しいと思える人にこそ、本当の人物

 像が描けるのではないだろうか。「美醜共に織り交ぜ

 てなお美しい人物像」とは、そのような意味である。

 

 という訳で、以上は2011年の舟山一男展における

解説であったが、あれから12年を経て現在、この「美

醜共に織り交ぜて」延いては「美醜を超えて」という文

言に関して、上記の如き精神的な解釈の他にも、より純

粋に美学的な見地からの解釈が、可能なのではないかと

いう思いに到っている。ちなみにそんな考えに到った端

緒は、私達芸術に携わる人間にとっては永遠の課題とも

言える「美とは何か」という問いに、或る疑問を抱くよ

うになったからである。即ち「何か」と問う前に、そも

そもその対象としての「美」は、果たして単独の概念と

して捉えるべきものなのだろうか、という疑問だ。私達

は通常「美」という言葉を用いる時、暗黙の内にそれを

独立した概念として考えているが、一方で世の中には、

一組の「対」になって初めて、定義の可能となる概念が

有る、例せば「表裏」「左右」「善悪」「生死」といっ

たように。それらは所謂「対概念」と呼ばれるもので、

片方だけでは意味が成立せず、ペアとして捉えた時に、

初めてその説明が可能となる。「美」もまた同じではな

いのか、つまり「美」だけで捉えるよりは「美醜」とい

う対概念で捉えてこそ、初めてその説明が可能となるの

ではないだろうか。更に言えば、両者は決して対立する

反対項ではなく、むしろ同一線上の変化相として考える

事が出来るのではないか。これはアナロジーとして、数

学における整数直線を考えれば分かり易いだろう。つま

り「正数」と「負数」は決して別々のものではなく、0

を分岐点とした直線上に一定の列を成す、整数の連続相

として考えられる訳だが、上述した「美醜」もまた、そ

のような或る直線上に並列し得るのではないかと。ここ

で考えるべきは、それが何の直線軸かという問題だ。こ

こにその詳細を記す余地はないが、端的に結論を申し上

げれば、私は「存在のアウラ」という概念に到った。そ

れが美醜の変化相を、あたかもグラデーションのような

階調を成して連ねる、直線軸の正体ではないだろうか。

 

 アウラ──それは決して見える事はないのだけれど、

見る者の感性を刺激して揺り動かす、或る種の「気」と

しか言いようのないものだ。Aura (ラテン語):人や物が

発する、視覚では捉えられない微妙な雰囲気──辞書に

はこのように出ているが、一般には「オーラ」と言った

方が身近だろう。但し、今やオーラという言葉は余りに

安易に用いられ、元来の神秘性はとうに剥離されている

ので、ここでは敢えて「アウラ」と言いたい。この「存

在が醸し出すアウラ」を直線軸として、数直線における

「0」のような明確な分岐点は無いにせよ、軸上に或る

0地点を想定した時、正の方向に伸びる香気のアウラを

私達は「美」と捉え、負の方向に伸びる臭気のアウラを

「醜」と捉える、そう考えれば「美醜」は仮想軸上に階

調を成す、アウラの変化相として解釈し得るのである。

 さて、ここまでは一般論として「美醜」を考察して来

たのだが、視点を絵画の世界に移してみると、一般論で

は捉え切れない現象が往々にして生起する。つまり、通

常は「醜」である筈の形象にさえ、或る言い難い魅力を

感じてしまうような事を、私達はしばしば体験するので

ある。むろん見る側の感性にも依るのだけれど、おそら

くそれは、負の階調にさえも或る種の魅惑を与えてしま

うような、強靭なるアウラの為せる業であろう。前述し

た「美醜を超える」とはその謂であり、そんな美醜を超

えて放たれる強度のアウラを、真の画家は我知らず生み

出すのである。私はそれを画廊で扱わせて頂く数々の絵

画から、長い歳月の中で教えられた。中でも舟山さんの

描き出す人物像には、様々に示唆されるものが有った。

不可思議な魅力を放つ作品の前で、何故自分はこの絵に

惹かれてしまうのだろうと、少なからず自問自答したも

のである。一例として、前頁に掲載した新作を見てみよ

う。「夜の帳が下りる頃」と題された、独りのピエロを

描いた作品だが、通常の感覚でこの人物像を見て「美し

い」と感じる人は、余り居ないだろうと思う。むしろ、

醜怪とさえ言える容貌で佇むこのピエロが、しかし見る

程にえも言われぬ魅力を放つのは何故だろう。暗く翳る

宙空の一点を、放心したように見据えるピエロ像、その

表情は剥げ落ちた化粧の下で、微かに微笑んでいるよう

にも見える、若しくは涙を堪えているようにも見える、

そのそこはかとない揺らぎを湛える相貌を、荒々しい刻

線が縦横に消し潰し、それはそのままの勢いで、背後の

夜陰へと乱れ跳んでいる。やがてその自在に引かれた刻

線と、筆跡を残す燻んだ彩りが交錯する、渋みを帯びた

テクスチャーの奥から、深い哀感の調べが深々と響き出

す様を、見る人は目の当たりにするだろう。そしていつ

しか私達は絵の前で、これもまた紛れもない「美」に違

いない事を、即ち形象の美醜を超えた所にこそ「絵画の

美」が在るのだという事を、豊かな沈黙の中に悟るので

ある、画家の生み出す不可思議のアウラを浴びながら。

 

 冒頭にも記した通り、今回の斬新な人物表現を前に、

或る種の戸惑いを覚える方もいらっしゃる事と思う。し

かし私は、今回の舟山さんの新たな表現を、断固支持す

る。いや、これは「新たな表現」というよりは、舟山一

男という画家が元から内包する、本源的な特質なのだ。

お読み頂いた如く、私は初めて舟山作品に触れた時の模

様を、前掲した拙文に書き連ねてはいるが、今回の抜粋

で改めて読み返してみた時、あの時の衝撃を充分には伝

え切れていない。「それにしても描かれた物言わぬ男女

は、何と不可思議な表情を湛えて、小さな窓からこちら

を見据えていた事か」云々と、当時の私はその日の感動

を記しているが、いやはや、そんな感慨で事足りるもの

ではなかった。私はあの日、かつてない「アウラ」を体

感したのだと、今ならそう追記し得るのだけれど……。

小さな窓の中から、尽きる事なく放たれるアウラ、今あ

の強靭なる香気が、再び私達の前に甦ろうとしている。

 

                     (23.11.27)