画廊通信 Vol.261 目的地
気が付けばあらゆる芸術分野が、極めてお手軽で安易な時代となった。ろくに古典も読んだ事がなく、よって文章の書き方も知らないような若者が、全く練られても無いような小説まがいを簡単に発信し、驚いた事にいい大人がそれを目にして「新しい」などと錯覚した挙げ句に、それで新進小説家がデビューしてしまったりする。
音楽の世界も似たようなもので、特定のジャンルを聞き
込んで探究した事もなく、よって曲作りの構成も分から
ないような若者が、思い浮かんだ未熟なメロディーに、
自動アプリでそれらしい伴奏を付けて、YouTube 等の
SNSに臆面もなくアップする、それがヒットして新た
な歌手がデビューするような事も、もはや珍しくはない
状況となった。そして美術、これもまた輪をかけて酷い
有様で、Instagram 等に次々と投稿される膨大な作品
画像を見ていると、その良否や優劣を問う以前の段階と
して、自らの作品が世間へ向けて発表するに値するもの
なのかどうか、その自問自答が全く為されてない事に驚
く。加えてどんなに稚拙な絵であれ、日々の小まめなア
ップさえ怠らなければ、必ずそれを支持する無知蒙昧の
フォロワーが現れる事から、アーティストとしての誠に
簡易な似非承認が、ネット上で瞬く間に形成される事態
となる。故に、昔は世間の承認に30年を費やしたもの
が、今は下手をすれば「アーティスト」の称号を、たっ
た3ヶ月で手中にする事だって可能だ。そう言えば以前
或る展示会の折りに、学生服の少年が来店した事があっ
た。「高校生?」と聞いたところ「そうです。実はこう
いう者で……」と、自作したらしい名刺を差し出した。
見ると「フォトグラファー」と記してある。私事になる
が数十年前、「写真家」という職業に激しく憧れた事が
あった。私淑する写真家が居て、そこに少しでも近づけ
たら……と、愚かな夢を見た訳だ。その写真家と同じカ
メラを買い込んで、暇さえ有れば諸処へ撮影に出かけ、
帰宅したら部屋に暗幕を張り巡らし、家族に多大な迷惑
をかけつつ暗室作業に勤しんだ。その成果を都度ポート
フォリオに仕立て、幾度もコンテストに応募したまでは
良かったが、遂に望ましい評価を得る事の無いままに、
折しも画廊開設という新たな事業も始まって、制作活動
は済し崩し的に終結する事となった。そんな経験を顧み
るにつけ、当時自分がどれほど「写真家」という職業に
憧れたのかを、改めて思い起こす事になるのだけれど、
目前の少年はその願っても叶わざりし夢の称号を、学生
の分際でいとも易々と名乗っているではないか。彼にも
らった名刺を見ながら、それがたわい無い浅薄な児戯に
過ぎなかったにせよ、いやはや、世はここまで簡便にし
て安直になってしまったのかと、唖然とする思いであっ
た。偉そうな物言いで申し訳ないが、現在SNS上に溢
れる自称画家の多くは、その高校生と然して違わないレ
ベルに在る。よって今ほど画家の増えた時代も無いし、
それに伴う当然の現象として、今ほど絵画レベルの低下
した時代も無いだろう。描く方にも見る方にも、時間を
かける事によってしか形成され得ない「眼」が著しく欠
如している事から、以前なら発表を憚るような素人絵画
が、大手を振ってネット空間を闊歩している。玉石混淆
ならまだ良いが、いつの間に「玉」が埋没し「石」ばか
りが持て囃されているのが、嘆かわしい現況と言う他な
い。そんな時代に、いや、そんな時代だからこそ、最も
必要とされるもの、それが「本物」だ。本物とは何か、
それは本物を見れば分かる。小賢しい理屈などは風前の
塵に同じ、そんなものは呆気なく吹き飛ばしてしまう圧
倒的な存在、真っ向から肺腑を刺し貫くもの、それを眼
前にした時、人は自ずから本物の意味を悟るのである。
前置きが長くなった。言わば、そんな有無を言わせぬ
絵画を生み出す数少ない画家、紛れもないその筆頭が、
即ち「藤崎孝敏」という画家だろう。どのような経緯で
その作風に到ったとか、それが美術史的にどの流れに属
するとか、或いはどのスタイルに分類されるとか、学究
は様々な言説を弄するかも知れないが、所詮帰する所は
唯一つ、「これを本物と言う」、解説はその一言で事足
りる、後は蛇足に過ぎない。ならば再度問おう、本物と
は何か。答えて曰く、それは藤崎孝敏を見れば分かる。
という訳で、以下は蛇足である。前頁で Instagram
に少々言及したので、ついでにそれに関連した話をさ
せてもらえば、近年よく目にする典型的な投稿が、絵画
を描く過程を長尺で撮影し、それを倍速で短く編集した
動画である。初めは何の形か判然としない描線が画面を
走り、それが色を付ける過程で徐々に断片的な姿を見せ
始め、やがて描こうとしている主題が明確な形態を伴っ
て現出し、遂には人物なり風景なりの完成形へと到る、
というのがそれらの共通した概要だが、見る者はたぶん
倍速の効果も働く故か、その曲芸の如き見事な手際に感
嘆する。出来上がった作品は、海景や山景に代表される
自然の風景であったり、逆に都市のビル群等の人工的な
街景であったり、或いは美しい女性像であったりと様々
で、描画のスタイルも写真と見紛うかのような写実表現
も有れば、抽象的なフォルムを導入した具象表現も有れ
ば、といった具合でこれも多種多様の状況だが、それら
一見華やかなシーンから顕著に見えて来る点は、その悉
くが物の見事に空っぽで、極めて薄っぺらな作品である
事、言わば商業イラストに安価な香料を振りかけた程度
の、芸術的妙味の甚だしく欠如した絵画である事だ。た
ぶん動画をアップした当人は、自身の誇るべき技巧を世
に披露してご満悦なのかも知れないが、しかしながら彼
らの気付いてないだろう最要の一点は、絵画表現におい
て「手際の良さ」などは何の利点にもならない事、言い
方は悪いが、そんなものはクソの役にも立たない事だ。
現今SNSを賑わす動画は、結果的にその大原則を立証
するという仕儀を、自ら招いてしまっているのである。
彼らの絵が、呆れる程に虚しいその最大の要因は、描
く本人に最初から目的地が見えている、という一点に尽
きる。描く前から既に完成予想図が有る、という事は、
その地点に向けて合理的な手順を組み立てれば、後はそ
れに従って迅速に工程を進めれば良い、という論旨を導
くから、いずれそのような制作は、単なるルーティン・
ワークに堕す経緯となる。ルーティンであれば手際が良
いのは当たり前で、それを自ら卓絶の妙技と勘違いした
輩が、各々のルーティンを自慢し合っている、というの
が、投稿動画の真相と言えるのだろうけれど、思うにあ
る程度の力量があれば完成予想図通りの、即ち「思った
通りの絵」を描く事に、それほどの困難はない。しかし
それは、例えるなら設計図通りに家を建てる「建築家」
の仕事であって「画家」の仕事とは言えない。畢竟真の
画家とは、自ら「思ってもみなかった」絵を描きたいの
であり、むしろそのために必要な邂逅を、自ら呼び込む
のである。以下、藤崎さんの至言に耳を傾けてみたい。
絵に向かっていると、その中から必ず「何か」が出て
来る。後はそれに何処まで従えるか……、奴隷のよう
にね。画家はその現われる瞬間を、ただ待つだけなん
だ。「待つ」という事だよね、絵を描くという事は。
「奴隷のように」という言葉が印象的だ。ゆくりなくも
立ち現れたものに、ただただ盲目的に従う、それにひた
すら自らを委ねる、これは創作家にとって非常な困難を
伴うものだと思う。何故ならそこには、それを解釈しよ
うとする「知性」が立ちはだかるからだ。ただ純粋な感
性に自身を任せるには、それをキャッチした自らの感性
を、徹頭徹尾信じなければならない。そもそも「待つ」
という行為自体が、何らかの訪れを信じなければ、成り
立たない行為であり、その結果、手探りの模索の果てに
到来したものに、知的な解釈を捨てて身を委ねるという
事は、即ち自らの感性を絶対的に信頼する事に他ならな
い。その実践として、今やファンであれば誰もが知るよ
うに、描いては潰し、また描いては潰し、更に描いては
潰し、という行為を、藤崎さんは何度も何度も繰り返し
ながら、来るべき何かを飽く事なく探り続ける訳だが、
そんな特異な制作方法について、或るお客様から「どう
してあんな描き方をするのでしょう」と、素朴な質問を
受けた事があった。「最後に残る絵を、最初から描けば
いいのに……」と、つまりはそう言いたかったのだと思
うが、もし合理性のみを求めるのであれば、その論理は
なるほど正しい。しかし翻って言えば、そのような考え
方自体が、前頁に述べた「建築家」の思考法なのだ。確
かに建築家から見れば、造っては壊し、また造っては壊
し、などという行為は単なる無駄であり、言わば非合理
の極みだろう。けれど画家から見れば、合理性などとい
う思考こそ無用の極みである。合理的で無駄のない、手
際の良い制作から、制御を超える何かが現れる事など有
り得ないからだ。画家は、画面に仕掛けつつ「待って」
いるのである。何も働き掛けなければ、何も訪れない、
だから描いては潰し、また描いては潰し、画家は果敢に
仕掛け続ける、つまり一見無駄に思われるそのような制
作は、何物かの顕現を「待つ」行為に他ならない。それ
によって、画面は破壊と再生の度毎に強度を増し、深度
を増し、来るべき瞬間への土壌を醸成する。やがて思い
も寄らない何かが遂に訪れた時、絵画は正に圧倒的な力
を孕むのである、有無を言わせぬアウラを漲らせつつ。
以前にも書いた事だが、再度「表現」について。そも
そも表現という言葉の成り立ちは「思想」や「創造」と
いった熟語と同様で、同じ意味の動詞を二つ重ねたに過
ぎない。「表す」と「現す」で「表現」、誠に安直にし
て粗放、熟慮の欠片も感じられない作語である。これは
明治が開幕して舶来文化が押し寄せた際、とにかくも目
前の厄介な外語を、早急に訳さなければならない喫緊の
必要に迫られ、とても考慮の時間など取れない状況下、
その場凌ぎにでっち上げた即席の造語が、いつの間に市
民権を得てしまったというのが真相なのだろうが、さて
措き〈expression〉という英単語を訳すに当り、先学は
「表現」という漢語を考案した。確かにそれは俄仕立て
の作語だったかも知れないが、芸術の領域で当語を再考
すると、それは先人の思惑を超えた新たな概念を持ち始
める。「現」を「現す」ではなく「現れる」と読む。即
ち「表す」と「現れる」で「表現」、こう解した時、そ
れは俄に創作の真髄に迫る言葉へと一変するのである。
表す事と現れる事、両者が密接に結び付いた表裏一体・
不可分の関係、実はこの構造こそが「表現」の極意では
ないかと思う。表す事のみでは個の狭い枠内に留まり、
所詮は自己主張の域を出ない。自己の枠を破る事で、初
めて主張は表現へと転化し、他者の内奥へと伝播する力
を持ち得る、その為に画家は「現れる」ものを待ち、そ
れを鋭敏な感性で捕える、前述の「描くとは待つ事だ」
という藤崎さんの至言は、それだけの深い意味を秘めた
言葉だ。むろん、待人はそう易々とは現れない。よって
画家は常に画面に仕掛け続け、来るべきものを探り続け
る、その絶え間なき葛藤と飽くなき自問自答こそが、あ
の「本物」の強度を作品に齎すのだろう、そしてそれは
SNS上の偽物達には、到底辿り着けない地点を示すの
である。目的地とは目指すものではない、探り行くもの
だ、その手探りの先にだけ、待人は降り立つのだから。
(24.10.26)