ツガイ (2025)      混成技法 / 4F
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画廊通信 Vol.267            綻びの美学

 

 

 榎並和春展は、今期で17回展となる。2009年の初回展から毎年欠かさず開催して来たので、いつの間にそれだけの回を重ねる成り行きとなったが、当然の事ながら、付随してこの画廊通信も17回を数える羽目にな

った。正直に申し上げて、同じ画家で書くべきネタが有るのは3回目ぐらいまでで、元々頭の中には限られた抽斗しか無いのだから、後は牽強付会・断章取義もなんのその、強引に何かにかこつけて屁理屈を組み立て、貧しい脳裏から何やら見解じみたものを、無理矢理に絞り出し引っ張り出さなければならない。故にそんな有様で書き上げたものが、優れた内容を誇れる筈もなく、よってこの通信に何ら自慢の出来る要素は無いのだが、ただ一

つ、これだけは誇っても良いのではないか、と思われる

点が有る。それはこの通信が、如何にも文筆好きの暇な

画廊主が、余りある時間の中でコーヒーでも嗜みつつ、

ゆったりと書いているように見えるだろう事だ。ご存じ

のように、当店における展示会の日数は、2週間半~3

週間の長きに亘る訳だが、2週目が終わる辺りまではや

るべき仕事が山積しているので、次回の画廊通信に着手

するのは、大概3週目に入ってからになる。その時点で

開催中の展示会が「売れて」いる場合は、何の問題も無

いのだ。しかしながら、展示会が上手く行って朝から余

裕の微笑み、なぞと云う状況はそう有るものではなく、

よって展示会も終わりに近付いた第3週という時期は、

大体は売上げが伸びずに焦りまくり、来るべき資金繰り

の難事に青ざめている場合がほとんどだ。という訳でこ

の画廊通信は、大概はそのような局面で書き進める仕儀

となるのだが、いざ書き上がってみると、そんな三界の

火宅を地で行くような逼迫状況は何処にも見えず、暇を

持て余した店主が世間の雑音を離れた書斎で、いっぱし

の美術評論を気取って、悠長に理屈をこねくり回してい

るようにしか見えない、これだけは多少の自慢にはなる

のではないか、何とも虚しい自慢ではあるのだけれど。

 上に「Vol.267」との記載があるように、画廊通信は

今回で通算267回を数える。よくもまあ無い頭を振り

絞って、ここまで書き連ねて来たものだと、我ながら呆

れる思いである。読む人なんて滅多に居ないだろうに、

それでも何故書き続けるのかと、改めて自分に問うてみ

れば、今まで続けて来たものを已める事で「やる気を無

くして手を抜いたな」と思われたくない故の意地、常に

こんがらかって混乱している頭の中を、書くことによっ

てある程度は整理できる事、芸術的営為とは程遠い、俗

事にまみれた濁世からの一時的な逃避、お読み頂いた方

がもしかしたら興味を持ってくれて、ご来店に繋がるか

も知れないという淡い期待、等々幾つかの理由は挙げら

れるのだが、結局は唯の自己満足なのだろう。そんな事

のために毎回四苦八苦して文章を捻り出し、ああでもな

いこうでもないと推敲を重ねると云うのも、誠に愚かな

行為と言う他ないが、これも煩悩深きが故の性だと思い

做して、店主、今のところ已める気は無い模様である。

 

 と云う訳でこの度も「さて困った、何かネタは無いも

のか」と、いつもの如く思いあぐねていたら、たまたま

朝刊の中に興味深い言葉を見つけた。ご存じの方も多い

と思うが、朝日新聞の一面に「折々のことば」と云うコ

ラムが有る。鷲田清一と云う哲学者が、古今東西の様々

な含蓄ある言葉を取り上げ、そこに短い解説を加えると

云う体裁なのだが、この日は古川三盛と云う作庭家の、

こんな言葉が取り上げられていた。「だから欠きたいん

だよね、完璧なものではなしに」──この言葉に、筆者

はこんな解説を寄せていたので、以下に少々の抜粋を。

 

 庭を一幅の絵のように見せるのが作庭ではなく、庭は

「あってないような」ものがいいと庭師は語る。設計図

なしに始まる職人らの緻密な作業を、間近で観察した美

学者・山内朋樹は、庭を作ることで、それまで見えなか

った庭の周りや向こうが見えるようになる、そんな庭に

できればと、庭師は細部まで詰めず、あえて綻びを残し

たと解す。山内の『庭のかたちが生まれるとき』から。

 

 字数の制約ゆえか、文面が多少分かりにくいけれど、

要は古川三盛が自ら作庭を語った言葉を、山内朋樹と云

う美学者の著作から抜粋したものらしい。このコラムを

読んで「これだ!」と思った。この言葉はそのまま榎並

和春と云う画家に、直結する言葉に思えたからである。

 

 アマチュアとプロを分ける要素の一つに「完成度」と

言われるものがある。これは絵画の制作において、極め

て重要なファクターであると思う。通常絵を描く人は、

絵画を完成させたがる──と言うよりは、完璧な絵画が

優れた絵画である、と云う一般概念から、逃れる事が出

来ない。これは何も今に始まった事ではなく、例えばク

ロード・モネの「印象・日の出」が、当時の美術ジャー

ナリズムから何故あれだけの揶揄と嘲笑で迎えられたか

と言うと、作風や方法論を云々する以前に、それが「完

成作」とは見られなかったからである。粗雑な制作途中

の下絵じゃないか、ちゃんと完成させてから出品しろ、

と云った具合である。今の時点から振り返れば単なる笑

い話だが、しかしそうとばかりは言えない、と云うのも

また真実だろう、未だアマチュアの世界では、後生大事

に筆を重ねた完成作品が良しとされ、よって隅から隅ま

で懇切丁寧に描き上げられた作品が、至る所に散見され

るからだ。結果、全てを説明し尽くして、見る側には何

の余地も残されないような、故に上辺の美麗ばかりで何

の奥行きも感じられないような、底の浅い絵画が出来上

がる事になる。十全なる完成度──むろんそれは工芸の

領域においては、必須の条件であろう。工芸が実用を前

提とする以上、いい加減な物は作れないのは言うまでも

無い事で、例えばどんなに美しく作られた鉄瓶でも、そ

の取手が何かの拍子に外れでもしたら、使用者は大火傷

を負う羽目になる、その辺りが工芸制作と美術表現の境

目なのだと思う。先述のコラムに「庭を作ることで、そ

れまで見えなかった庭の周りや向こうが見えるようにな

る」と云う一節があったが、その言い方に倣えば、絵画

における優れた表現は「絵を描く事で、描かれてない筈

の周囲の風景やその向こうが、有り有りと見えるように

なる」、自ずからそのように、見る者を導くのである。

そのために、再度コラムの一節を借りれば、画家は「細

部まで詰めず、あえて綻びを残す」、即ち完成に到るそ

の手前であえて筆を置く、これはやはりプロならではの

高度な手法であり、私の見て来た限りでは、アマチュア

の方には極めて習得の困難な術なのだと思う。その意味

で、ある程度の技量さえ有れば「描く」事は容易く「描

かない」事こそが難しい、敷衍すれば絵画表現において

「完成」は易く「未完成」は難い、と言えるだろう。思

うに我が榎並さんこそ、その高度な手法の自在な使い手

であり、言わば「あえて綻びを残す」名人なのである。

 

 この場に何度も記した事だが、先のコラムに「設計図

なしに始まる職人らの作業」云々と有ったのと同様、榎

並さんの制作も全く設計図を持たない。様々な端切れを

コラージュしたり、その上から絵具を掛け流したりする

過程で、ゆくりなくも現れたフォルムを捕え、具象へと

落とし込んでゆく訳だが、いつも唸るほどに感心するの

は、その尋常ではない「いい加減さ」である。例えば、

麻布を画面の全面に貼り付けるとしよう。その場合、画

面のサイズに合わせて布を切り取り、全面に皺なく伸ば

して貼付する、と云うのが通常の作業かと思うのだが、

どっこい榎並さんの制作には、そんな殊勝な心がけなど

端から存在しない。まずはその切り方が凄い。元来「正

方形」とか「長方形」と云った幾何図形が大嫌いなよう

で、そのほとんどは不定形に歪みまくり、しかも切り取

った縁はズタズタである。ひどい時は麻糸が跳ね上がっ

て、画面から飛び出ていたりする。それに輪をかけて凄

いのが貼り方だ。そもそも「丁寧」とか「綺麗」なんて

言葉は、榎並さんの辞書には無いのであって、言うなれ

ばそんなものは小物の使う言葉であり、大物にそんなち

まちました概念は無用なのだ。いい所のお坊ちゃんじゃ

あるまいし「皺なく伸ばす」なんて冗談じゃねえとばか

りに、布切れを適当かつ大雑把にベタベタと貼り散らか

し、皺の有無なんて目もくれず、そのまま放置して終わ

りである。その結果、皺が瘤になって盛り上がっている

ような地肌を、私はこの眼で幾度となく見て来た、恐る

べし、と言う他ない。さて気が付いてみると、布のコラ

ージュだけで随分と行数を使ってしまったので、その後

の壁土の塗布や、色の塗り方や、線の引き方や、或いは

制作に行き詰まった時の、極めて暴力的な画面への破壊

工作等々に関して、その逐一を述べようとすれば、画廊

通信もう一回分ほどが必要になってしまう。よって以降

の作業に関しては割愛するが、要するに制作の初めから

このような具合なのだ、後は推して知るべしであろう。

以上、ほんの一例ではあるが、その驚くべき「いい加減

さ」の実例を、最大限の敬意を込めて書かせて頂いた。

 

 アンリ・マティスと云う画家が、何故にあんな粗放な

線と粗雑な塗り方で絵を仕上げるのか、それが長らく疑

問であった。本人の弁によれば、マティスは一枚のタブ

ローを制作するまでに、何十枚ものエスキースを試みる

らしい。その結果としての決定稿を、油彩作品として仕

上げるに当たって、あえて懇切丁寧に描き上げるのでは

なく、如何にも適当に引いたような線と雑な塗り方で、

一枚のタブローを完成させるのである。作風こそ違え、

この一見いい加減にしか見えない制作手法は、榎並さん

のそれと全く共通するものだ。おかげで榎並さんの「い

い加減さ」を通して、私はマティスの「いい加減さ」も

理解出来るようになった。マティスにしろ榎並さんにし

ろ、彼ら特有の「いい加減さ」とは、前頁の作庭家の言

葉をもう一度借りるなら「あえて綻びを残す」手法に他

ならない。作品を完成まで詰めない事、よって綻びを綻

びのままに残す事、そしてそこを最終地点として擱筆す

る事、そのようにして仕上がった作品が、見る者にどう

語りかけるのか、最早それは説明には及ばないだろう。

 良く言われる台詞ではあるが、そこでは「いい加減」

は絶妙の「良い加減」を醸し出していた。「適当」はい

つしか「適度」なバランスを提示し、「大雑把」はより

「概括的」な視点へと転化されて、作品に見事な統一感

を齎していた。このようにして現れ出た、言わば「綻び

だらけ」の絵画は、その随所に開いた綻びを通して、直

接には描かれてない筈の風景や物語を、有り有りと垣間

見せてくれる、これは綻びを通って絵の中に入り込んだ

人が、自在に想像力を遊ばせるが故の現象であり、優れ

た絵画の内在する奇跡とも言えるものだ。「綻び」でも

いい、「破れ」でもいい、そのような間隙をあえて残し

た絵画は、その間隙を通して、見る者と縦横に交わる事

を可能にする。よってそこに起こる交通は「送り手→受

け手」と云う一方通行ではなく、「送り手↔︎受け手」と

云う双方向の通行だ。ならばその領域は画家だけのもの

には非ず、両者の精神が活き活きと交感する、軽やかに

開かれた磁場である。きっと榎並さんも言うだろう──

「だから欠きたいんだよね、完璧なものではなしに」。

 

                    (25.04.17)