22のさくらんぼ (1988)        カラー・メゾチント          ※ 第1回浜口陽三展案内状より
22のさくらんぼ (1988)        カラー・メゾチント          ※ 第1回浜口陽三展案内状より

画廊通信 Vol.279             抽象の果実

 

 

 浜口陽三展は、実に9年ぶりの企画となる。当店では過去にも2回ほど同展を開催しているが、むろん個展が可能な程の点数を蒐集する財力が、私のような零細個人商店に有る筈も無く、よって諸処のオークション等で作品を買い集めてくれたのは、長い付き合いになる都内の同業者であり、彼が居なければこんな大家の個展など、とても実現できるものでは無かった、この場を借りて御礼申し上げたい。都内の画廊街を見回しても「浜口陽三展」と冠した企画はほとんど無く、ウェブ上で検索しても表示される情報は、美術館における企画展示の案内ばかり、という現状から推し量っても、要は作品の蒐集が極めて困難なのである。一方美術館サイドにおいては、例えば地元を少々顧みても、2002年に千葉市美術館で「20世紀版画の巨匠・浜口陽三展」が大々的に開催され、近年では2021年に県立美術館が「浜口陽三・闇と色彩の戯れ」を開催、ちなみに両館共に充実した浜口コレクションを蔵するのは、常設展等で周知の通りである。これはほんの一例だが、世界各地の美術館に多くの作品が所蔵され、そもそもが寡作である事に加えて、版画とは言えエディションが希少なため、作品の市場に出回る機会が大幅に限られてしまう──という現況下、「浜口陽三展」と銘打った企画を、こうして画廊で開催出来るという事は、誠に画期的な所為と言えるだろう。

 さて、自画自讃はその位にして、これは以前にも記し

た事で繰り返しになるのだが、前回からかなりの年月が

経過する事から、初めて浜口を目にする方も多いと思わ

れるゆえ、今一度その概歴を以下に掲載しておきたい。

 

 浜口陽三、1909年和歌山県に生れる。生家は、銚

子市で江戸期より代々醤油製造業を営む名家ヤマサで、

父が10代目であったと言う。6歳の時に銚子に移住、

18歳で東京美術大学(現在の東京芸大)彫刻科に入学

するも3年後には中退、フランスに渡り独学で油彩の研

鑽に励み、サロン・ドートンヌ等の美術展に出品しなが

ら、30歳で大戦の勃発によって帰国を余儀なくされる

まで、パリを拠点に自由な活動を謳歌した。戦時中は、

通訳として旧仏領インドシナ(現在のヴェトナム)に滞

在したがマラリヤを発病して帰国、戦後しばらくは伊豆

で療養生活を送り、銅版画を本格的に始めたのは、よう

よう40歳を目前にした頃である。それより2~3年を

経た頃から、当時はまだ未知の技法であったメゾチント

に着手、40代半ばで再び渡仏してパリにアトリエを構

えて後、前代未聞とも言える「カラー・メゾチント」技

法を開拓して、今に残る独自の世界観を湛えた名作を、

地道な制作の中から次々と生み出す。1957年(48

歳)、サンパウロ・ビエンナーレにおいて版画大賞を受

賞、1960年にはヴェネチア・ビエンナーレに出品、

翌61年にはリュブリアナ国際版画ビエンナーレにおい

てグランプリを受賞、5年後のクラコウ国際版画ビエン

ナーレにおいても特別賞を受賞する等、国際美術展を舞

台に立て続けの受賞履歴を重ねながら、新たな銅版表現

を拓く類例なき芸術家として、その名を不動のものとし

て往く。70歳を過ぎた頃、30年近く住み慣れたパリ

を離れてサンフランシスコに移住、以降はその地を拠点

に意欲的な活動を続けたが、87歳で故郷の日本へ帰国

している。程なく作品を常設展示する専門美術館が立案

となり、現在も活動を続ける「ミュゼ浜口陽三・ヤマサ

コレクション」が日本橋に開設されるを見て、2000

年という世紀の変わり目に逝去、享年91歳であった。

 

 以上、その生涯を駆け足で追ってみたが、年譜を辿っ

てすぐにも感じる事は、その悠揚とした遅咲きの歩みで

ある。むろん裕福な名家の息子として生まれ、加えて三

男であったそうだから、たぶん家業の継承は免除され、

充分な援助も受ける事が出来たのだろうけれど、それ故

に傍からは、青春から壮齢にまで到る長い雌伏の時代を

生きるその姿は、気ままな高等遊民として遊び暮らす、

道楽息子にしか見えなかったのではあるまいか。その間

いわゆる疾風怒濤の時代は、浜口にもきっと有ったに違

いない。やり切れない青春の懊悩を、荒ぶる精神の抑え

難き衝動を、カンヴァスにこれでもかと叩き付けた時代

は、確かに有ったのだろうけれど、その頃の作品も残っ

ていなければ、その頃を語る当人も既に亡く、たとえ存

命であったとしても、当人からそんな話の聞ける機会は

たぶん無かっただろうと思う、何しろ浜口陽三ほど自ら

を語らない作家は、居ないのだから。文献を探したとこ

ろで、僅かなインタビューの記事を見つけるぐらいが関

の山、たとえ見つけたにしても、創作の核心に触れるよ

うな発言はほとんど無い。よって後世に残された者は、

評論等の資料を参考にする事はあったにせよ、後は作品

そのものを手掛かりとする他ない。浜口のそんな徹底し

た自己韜晦を顧みる時、昨今のやたらと出たがり喋りた

がる作家連に、その爪の垢でも煎じて飲ませてあげたく

なるが、それはさて措き、浜口が初めてメゾチントに着

手したのは1950年代初頭、年齢にして40代前半の

時分である。画集からその足跡を垣間見ると、この時点

で既に作品は特有の静謐な情緒を湛え、後年主要なモチ

ーフとなる「果実」等の描かれた作品も登場して、早く

もそのオリジナリティーが色濃く現れているのである。

つまり、浜口は最初から浜口であった。そこに、いわゆ

る「若描き」と呼ばれるような未熟の痕跡は無い。と言

うよりは厳しい完成度しか許さなかった作家自身が、自

らの未完であったろう時期を、奇麗に消し去ってしまっ

たと言うべきか。従って、最初期からほとんど完成の域

にあった浜口の世界は、以降あたかもウィスキーが10

年・20年と熟成を重ねるが如く、いよいよその深度と

豊潤の度合いを増して往く。そしてあくまでもゆったり

とした歩みの、孤独にして地道な道程の途上で、いつし

かその画面は「静物画」と云う範疇を遥かに超えて、か

つて誰も表わし得なかった「宇宙」へと到るのである。

 

 今こうして顧みれば、浜口陽三を始めとした日本人作

家の活躍によって、メゾチントという技法は広く知られ

る事になった訳だが、ご存じのようにこの技術は、数あ

る銅版技法の中で最も手間のかかる工程を持つため、極

めて職人的な技巧を要するものである。それもその筈、

ヨーロッパにおけるその歴史を紐解いてみると、17世

紀に発明されたこの技法は、元々油彩画を精巧に複製す

るための手段として、当時の版画職人が競って用いたも

のであった。「メゾ=中間の」と云う言葉が示す通り、

数多い銅版技法の中で唯一、明から暗へと到る中間の

調を表現する事が可能なため、絵画の微妙な明暗の再現

には、正に打って付けだった故と思われる。ところがそ

の隆盛は長くは続かず、19世紀に華々しく登場した写

真技法によって、その座は忽ちの内に奪われ、余儀無く

された急速な衰退の果てに、技法自体が遂には消滅して

しまう。それからほぼ100年後、この世から全く忘れ

去られ、ヨーロッパ人の誰もが顧みる事の無くなってし

まった技法を、再びこの世に瑞々しく甦らせたのが、奇

しくも浜口陽三・長谷川潔といった邦人作家であった。

しかも彼等は、メゾチントを古い複製技法としてではな

く、黒を基調とした新しい版画技法として用いたのであ

る。よってそこから生み出された作品は、かつての油彩

画を複製化した表現とは、全く趣を異にする斬新なもの

であった。それだけでも美術史に刻まれる画期的な偉業

と言えたが、浜口の成した更なる業績は、その技法を次

には「カラー化」するという前代未聞の挑戦である。言

うまでもない事だが、それまで銅版画というものは白黒

だったのであり、色が欲しい時は上から塗るしか無かっ

た、それが証拠に先述の長谷川潔だって、作品に色を施

すに当っては、版画の上から手彩色を加えるという、

る種簡便な手段を取っている。対して浜口の場合、至上

の色彩版画として名高い「浮世絵」を生んだ国の作家と

しては、塗ってお茶を濁す事に甘んじては居られなかっ

たのだ、いやしくも「版画家」であるのなら、色だって

版画で施せ──という訳だ。同時に、純粋なモノクロ表

現にも限りない可能性を読んでいた浜口は、以降モノク

ロ作品と多色刷りによるカラー作品を、併行して制作す

るという姿勢を生涯に亘って貫き通す。そして時には同

じ作品をモノクロとカラー・バージョンの二種で発表し

たり、或いは複数の異なるカラー・バージョンで発表し

たりと、その世界は万華鏡の如く千変万化を呈し、いよ

いよ多様なヴァリエーションを派生してゆくのである。

 

 ご存知のように、浜口陽三のモチーフは常にごく身近

な物に限られている。さくらんぼや葡萄・蝶やてんとう

虫等々、誰もが見慣れた果実や小動物で、その世界は至

ってシンプルに構成されるのだが、しかしながら作家の

フィルターを通してそれらが画面上に再現された時、元

のイメージとは似ても似つかぬ姿に変貌する。どこまで

も深く沈み込んだ、時には目を凝らさなければ見えない

程にも暗い背景の中から、それらは尊厳に満ちた命の如

くに浮かび上がる。そこには幽玄の趣を湛えた時空が横

たわり、その奥深い圧倒的とも言える静謐の中より、深

々と放射される強靭な磁力が、見る者を内奥の限りない

宇宙へと誘う。一言で言うならば、それは究極の銅版画

である。何しろ一度その美しさに魅せられたが最後、も

う金がどうのこうのというような問題ではなくなってし

まい、何としても手に入れなければという内なる声のま

まに、いつしか数十点も蒐集してしまったというような

人は、内外を問わず多々おられるのではないだろうか。

以降その後を追って、メゾチントという難儀な技法を巧

みに操る版画家は、日本人の器用な特質に合っている故

か少なからず出現したが、大方はその精巧な「技術」を

誇る事に終始して(よってそのほとんどは工芸の域を出

ない)、十年一日の如く、代わり映えのしない制作に甘

んじているのが現状で、浜口陽三の芸術レベルにまで達

し得た作家は、残念ながら未だその出現を見ていない。

 例えば、今や定番となった「さくらんぼ」を浜口のそ

れと比べてみると、その差異は歴然とするだろう。他作

家の「さくらんぼ」が、洒落た静物画の範疇に留まるの

に対し、浜口は「さくらんぼ」をモチーフとして用いな

がら、その奥に深い抽象の世界を宿す。そのため浜口と

並べてしまうと、悲しいかな他作家のメゾチント作品が

巧みなだけの工芸品に見えてしまう経験を、私は何度も

して来た。斯様に多くの作家が、単に精巧な具象版画を

目指すのに対し、浜口は具象的な題材を用いながらも、

その世界は本質的に「抽象」を指向する、そこがまたも

う一人の雄・長谷川潔との、決定的な違いでもあった。

浜口の描くさくらんぼは、言わば発光する深紅の球体で

ある。実に附属する柄は球体に向きを与え、複数の球体

が並列や集合を成す構成においては、そこにリズミカル

な揺らぎを作り出す。つまり浜口はさくらんぼを、方向

性と揺動性を兼ね備えた球体として扱っており、それが

冥々たる空間に発光しつつ浮かび上がる様は、とうに具

象の領域を超えた、深奥の抽象空間を提示する。思うに

取るに足らない小さな実を用いて、あれだけの幽遠な世

界を表わし得た画家が、かつて一人でも居ただろうか。

その極めて独創的な小宇宙は、没後四半世紀を経た今現

在もなお、私達を強力な磁場へと引き込んで已まない。

 

                     (26.04.02)