パルマ・デ・マジョルカ (2013) -部分-油彩 / 8F
パルマ・デ・マジョルカ (2013) -部分-油彩 / 8F

画廊通信 Vol.120            Sさんの事

 

 

 Sさんは、今の画廊を出す前からお付き合いを頂いて

来たお客様で、斎藤良夫の大ファンである。Sさんの事

について書くと、自分の恥をさらす事になってしまうの

だが、元より恥を隠してまで守るべき得も持ち合せてい

ないので、ならばこの機会にと思い、書かせて頂く事に

した。

 よく有る事態なのだが、万事休して背水の陣、にっち

もさっちも行かなくなった時、私はいつもSさんの写真

を引っ張り出す。するとSさんは画面の向うから「もう

ちょっと踏ん張ってみてはどうですか」と、語りかけて

くれる。破顔一笑、厳しい難局を幾度もくぐり抜けたら、

こんな表情に到るのかと思えるような、優しいふくよか

な笑顔で。「分りましたSさん」と、私は答える。そし

てとにかくも前を向き、力なく怯えていた背筋をしゃん

と伸ばす。Sさんは、私の生きる規範である。

 

 Sさんご夫妻と初めてお会いしたのは、2002年春

の事だから、顧みれば11年程も前の事になる。当時私

は、まだ画廊を持ってなかったので、その時はあるお店

の展示スペースを借りて、短期の絵画展を開いていた。

そこにお二人で見えられたのがそもそもの出会いで、そ

の時の企画が「斎藤良夫展」であった。

 お聞きすると、市内の情報誌を見て来られたとの由、

何でも奥様が、画家の宿で知られる太海の江沢館を訪ね

た際、館内に飾ってあった斎藤さんの海景を見て、一遍

にファンになられたのだと言う。ご主人も以前から絵が

好きで、渡航の度に現地のギャラリーを覗いては、気に

入った油絵を購入したりという具合で、現在ご自宅の諸

処に、色々な絵が飾ってあるとのお話である。

 お見受けしたところ、Sさんは70歳前半ぐらい、も

の静かで質朴と飾らず、正に謹厳実直という印象で、言

葉少なながらも展示作品には大いにご共感頂けたようで、

また機会があれば見たいとの言葉を残して、この日は会

場を後にされたのだった。

その年の秋、私は西千葉に現在の画廊をオープンした。

 

 それからちょうど2年後、当店では4回目の斎藤良夫

展を開催中に、開設後としては初めて、Sさんがご夫妻

で見えられた。「忙しくてなかなか伺えず……」と言い

ながら、展示作品をぐるりと見て回られた後、「もっと

大きい絵はないんですか」とおっしゃる。確かその時は

30号までの油彩を展示中で、私なぞの感覚では30号

ともなれば、かなり大きめの部類に入っていたのだが、

Sさんにはそれでも小さく感じられたらしい。

 お聞きすると「50号ぐらいなら、別荘の壁にちょど

いいので」とのご希望、当時私はこの仕事に就いて十数

年を経ていたのだが、「50号の絵を欲しい」という台

詞は前代未聞、まさしく未曾有の経験であり、よって最

初は正直に申し上げて、半信半疑でその言葉をお聞きし

ていた。しかし、例の質朴と飾らず、正に謹厳実直とい

うSさんの尊顔を拝見していたら、極めて大真面目に話

されているのだという事が分り、「それなら、作家に作

品の有無を聞いてみましょう」という、正に天恵の如き

成り行きとなった。

 早速問い合せてみたところ、「作品は有るけれど、ア

トリエに直接見に来て欲しい」とのご返事だったので、

それから一ヶ月半程を経た五月晴れの昼中、私はSさん

宅へ車でお迎えに上がった。思い返す度に深々と陳謝し

たくなるのだが、その時の車は「ワゴンR」だったので

ある。しかも前年末よりこの方、洗車もしていない。つ

まり、50号の大作をご希望のお客様宅へ、薄汚れた軽

自動車でお迎えに上がるという失態を、私はのうのうと

やらかした訳だ。Sさんにしても、こんな失礼な送迎

初めてだったのではないだろうか。道中、時折後部座席

を振り返ると、Sさんは少し窮屈そうに奥様と並ばれて

おられたが、貧乏画商の軽挙を格別とがめる風もなく、

淡々と穏やかに、渡欧の話等をされていた。

 この日Sさんご夫妻には、斎藤さんのアトリエでじっ 

くりと作品をご覧頂いて、「ポン・ヌフとシテ島」とい

う作品をお買い上げ頂いた。それから一ヶ月程を経て、

私はその大作を納品に伺ったのだが、なぜいつも次の予

定が、一ヶ月以上も先延ばしになるのかと言えば、何し

ろSさんは常に多忙な方で、やれ来週は九州だ、次はフ

ランスだ、帰ったらすぐにアメリカだ、という具合で、

休みなく仕事で国内外を飛び回られているため、なかな

かスケジュールが空かないのである。この日は取り付け

に散々手こずり、帰国直後でお疲れであったろうSさん

に、図々しくも重たい絵を支えて頂いたりしながら、や

っとの事で飾る事が出来たのだが、Sさんは格別気を悪

くされる風もなく、「次は海の絵が欲しいですね」と、

何だか嬉しそうに話しておられた。海景を本当にお買い

上げ頂いたのは、それから3年後の事である。

 

 その年の初夏、「近隣に障害者の施設を造る事になっ

た。ついてはその記念に100号程の絵を考えている」

というお電話が、Sさんから入った。私もこの仕事に就

いて随分と年数は重ねたが、「100号の絵を欲しい」

という大胆な台詞は前代未聞、まさしく未曾有の経験だ

ったので、一瞬半信半疑になりかかったが、例の質朴と

飾らない、謹厳実直なSさんの尊顔を想い浮べたら、極

めて大真面目に話されているのであろうと思い直し、再

び斎藤さんのアトリエを訪ねる予定を、組ませて頂いた

のである。この時は珍しく、その数日後には画家宅にご

夫妻をお連れする事が出来て、「犬吠の海」という大作

が決定の運びとなった。荒海に突き出た岩塊に、波涛が

飛沫を上げて砕け散る、豪快に躍動する海景である。そ

れから半月後、赤帽をチャーターして作品を運び、Sさ

んの抜かり無き手配で、既に頑丈なワイヤーフックが

置されていたので、私は無事に重量級の大作100号を、

玄関ホールの正面にかける事が出来たのだった。

 その翌日、施設の住所を知りたいと思い、インターネ

ットで検索してみたところ、私は初めてある仰天の事実

を知った。何とSさんは、ある大手薬品チェーンの創業

者だったのである。お会いしてかれこれ5年を越えると

言うのに、聞かなかった方にも多分に問題があるにせよ、

よくぞまあ、一言も言わなかったものである。確かに尋

常ではない邸宅とは思っていたが、いつも全く偉ぶらな

い腰の低い方だし、それほどの方とは思わなんだ。

 記事によると今回の施設は、県の外郭団体が運営する

障害者施設が廃止になる事を知ったSさんが、私財を投

じて運営を引き受け、新しく法人を設立したものらしい。

私もたまたま娘が重度障害者で、このような施設の有り

難さは身に染みて知っている方なので、ああ、このよう

な偉い人も居るのかと、頭の下がる思いだった。

 後日、「絵の掛かっている所を、作家さんにも見て欲

しい」とのご希望で、斎藤さんを施設までお連れした事

がある。この時は、絵の好きな入所者が居るとのお話で、

彼の作品が廊下に何枚も貼り出されていた。本職の画家

が来ると聞いて、描いた当人もそこに列席していたが、

斎藤さんは知的障害であまり話せない彼に向って、「こ

こは良く描けています」「ここはもう少し、こうした方

がいいです」と、一枚一枚懇切丁寧に感想を述べ、アド

バイスされている。それを真剣に聞いている彼、脇でそ

のレクチュアを実直に見守っているSさん、私はこの美

しい光景を、いつまでも忘れないだろうと思った。

 

 翌春、私は急性膵炎で、ひと月を越える入院を余儀な

くされた。よって次回に予定していた企画は、急遽中止

せざるを得なくなり、逼迫が目に見えている財政をどう

凌ぐか、入院しながらもそればかりが気に掛かり、脳裏

に暗澹と渦巻く数字で、めまいに襲われる始末である。

一週間後、遂に耐えきれなくなった私は、こうなったら

恥も外聞もないと覚悟を決めて、Sさんに電話で泣き付

いた。窮状を訴え、助けを求める私の話を、淡々と聞い

てくれたSさんは、「分りました。少し待って下さい」

とだけ答えて、電話を切られた。半月後、「齊藤先生の

50号の絵を自宅用に戴いて、それで協力させてもらえ

ればと考えてます」とのお返事が入り、その夜入院して

初めて、私はぐっすりと熟睡する事が出来たのである。

 退院して一ヶ月半を経た頃、私はSさんのご自宅へ、

作品を取り付けにお伺いした。「海に立つ街」50号、

イタリアはアドリア海側の古い港町、ポリニャーノ・ア

・マーレを描いた、特異な風格を湛えた傑作である。私

の住む幸町の公団住宅が一軒分、丸々入ってしまいそ

なだだっ広い応接間で、新しく掛けられた斉藤作品をい

つになくにこやかに眺めながら、「今度イタリアに行く

事が出来たら、是非ここに行ってみたいなあ」とSさん

は言われた。望みが叶う事は、遂になかったけれど。

 

 3年後の夏、「良かったらまた、斎藤さんのアトリエ

まで連れてって下さい」とおっしゃられていた矢先に、

Sさんは急逝した。享年82歳、仕事で九州に赴いた車

中で意識を失われ、ご家族の到着を待って亡くなられた

のだと言う。最後まで志に生きて、亡くなる時まで実直

な方であられた。私はSさんのように死にたいと思う。

 同年秋に開催した「斎藤良夫展」に当って、私はデス

クの正面にSさんの写真を掲げた。連日お会いしている

内に、個人を追悼するというよりは、Sさんに見守られ

ているような心境になった。この時は15回目の斎藤良

夫展だったが、何故か歴代最高の売上を更新した。逝き

てなおSさんに、私は助けて頂いたのかも知れない。

 

 今年の初春、私はSさん邸を訪ねた。何の事はない、

また財政状況が逼迫したあげく、よりによって今度は、

奥様に斎藤さんの油彩を買って頂いたのである。作品を

気に入って頂けたからまだ良かったようなものの、ご主

人亡き後、奥様にまでご迷惑をおかけするというのは、

不肖にして愚昧、最早人非人に近い。「トスカーナ・風

の家」12号、街道沿いに建つ一軒の古い洋館、周囲の

渺茫とした荒野には、無数のポピーが風に揺れている。

「この絵なら、主人も気に入ってくれたと思います」、

飾り終えて奥様にそう言って頂き、私も少しは罪の意識

が薄らいだのだったが、やがて話は家に関する事へと移

り、少し恥ずかしそうに奥様のおっしゃるには、「元々

は、こんな大きい家じゃなかったんです。雑居ビルの中

の、たったひと間の住いから始めたんですよ。それが両

親を呼ぶ事になって、主人がこんな家を建てちゃって。

広い家に私一人が残されて、始めは怖かったですよ。で

も私、もう怖いものは無くなりました。いつも主人が、

見守ってくれてるような気がしてますから……」。

 窓の外に広がる庭園を見ながら、私は昨秋お伺いした

時の事を思い出していた。折しもイチョウが紅葉をする

時分で、あの時はふいに奥様が「銀杏を拾って行きませ

んか」と言われた。ビニール袋を持って庭に降り、しば

し落ちている銀杏を拾い集めたのだが、奥様の見つけ方

が上手で「ほら、ここにも有りました。ここにもほら」

という具合、何せ広い庭なものだから、なかなか拾い切

れないのである。その内にふと、目前のイチョウの陰か

ら「ここにも有りましたよ」と、Sさんが顔を出された

ような気がした。向うでは奥様の「あら、こんな所にも

まだ!」という嘆声、無心に腰をかがめるご夫妻の姿を

確かに感じながら、私は黙々と銀杏を拾い続けた。いつ

の間に午後の庭に立ち始めた、爽やかな秋の風の中で。

 

 

                     (13.09.21)