水の中の街 (2013)          アクリル・コラージュ / 25.5x20.5cm
水の中の街 (2013)          アクリル・コラージュ / 25.5x20.5cm

画廊通信 Vol.124              猫町再訪

 

 

 2011年の2月に、第5回展を開催して以来となる

ので、安元さんの個展はちょうど3年ぶりになる。3年

──と事も無げに言うけれど、やはりその間には様々な

事があった。大震災を始めとして度重なる天災があり、

政権も経済も世情も移り変り、画廊もいつの間に10年

という区切りを超えて、あまり関係のない私事ではある

けれど、安元さんの画廊通信にも度々登場してもらった

シロが死んで、未だそれがピンと来ないままの飼主は、

デスクの脇に在りし日の写真をベタベタと貼り付け、朝

な夕なに「シロちゃん」なんて話しかけたりして、我な

がらどうにも情けない事この上ない。だいたい生前は、

我家に勝手に出入りしている薄汚い半野良の猫ぐらいに

しか思っていなかったので、「シロちゃん」なんて親し

げに可愛らしく呼んであげた事すら無いのだ。思えば可

哀想な事をした、ああ、何でもっと可愛がってあげなか

ったのだろう……と、我が身の酷薄と非情ばかりが思い

返され、この罪深い煩悩を真に猛省する至誠の人は、遂

には世をはかなんで出家したりもするのだろうが、元よ

りそんな真心など持ち合せない非道の身、ただ幾ばくか

の哀惜にぽつねんと浸りつつ、写真の向うのシロに、身

勝手な未練の思いを馳せるのみである。……失礼、そん

な話をしたかった訳ではない。3年という歳月について

の感慨が、ついつい関係のない話になってしまった。

 安元さんについて、久しぶりに何かを書くに及んで、

色々と無い頭を絞って考えたのだけれど、今回初めて安

元さんの世界に触れる方も多いだろうと思われる中で、

「夜の画家」と言っても過言ではないその特異な幻想性

を、まずはお伝えしたいという考えに到った。それが、

その作風から来る印象であるのは無論の事として、実は

その個性を云々する前に、安元さんはまさしく「夜の画

家」なのである。

 文字通り、安元さんの制作は夜間に限られている。月

が昇り星が瞬く頃、そこからが安元さんの時間だ。どの

作品にも縦横に満ち溢れる、あのどこか懐かしい透明な

幻想は、全て月明りの下で描かれる。アトリエは少し人

里から離れた林の中、時折フクロウがホウホウと啼き交

すしじまに包まれて、画家は一人淡い月影の落ちる窓辺

で、謎めいた夢と幻想のメモワールを綴る。そして東の

空がほの明るくなる頃に、夜を徹した制作は終りを迎え

るのだ。

 この、夜の詩人の雰囲気を何とかお伝えしようと、私

は7年ほど前の同展に際して、「猫町異聞」と題した随

を、この画廊通信に書いた事がある。言うまでもなく

「猫町」とは、死んだシロがいた町といったような意味

ではなく、近代詩の開祖・萩原朔太郎のよく知られた名

作の事だが、安元さんの持つ幻想性に共通するものをそ

こに見出して、勝手な見解を私なりに書き散らしてみた

訳だ。何しろこの10年ほど、停滞して代り映えのしな

い貧脳に甘んじたままなので、単なる能なき反復に終始

してしまう事はご容赦頂くとして、安元さんの特異な幻

想時空のアナロジーとしては、再読してそれほど不味い

とも思われなかったので、今一度この場に、それを掲載

させて頂きたく思う。という訳で、よろしければ以下、

「猫町」再訪の旅路へどうぞ。

 

 時は大正の頃、とある田舎の温泉町に逗留した折、散

策の途中で道を見失った作者は、山深い森の迷路をさま

よったあげく、思いがけず異次元の町に入り込んでしま

う。最初のうち作者は、その古雅で甘美な町並に惹かれ

魅了されるが、やがてそれは、微小な均衡の狂いでも崩

壊に到るような、異常な緊張が隅々にまで充満した、悪

夢の町だった事を知る。張り詰めて充電した空気、不安

な気配に歪む風景、恐怖の予感が最高度に達した時、突

如町に出現する猫の大集団、激しい戦慄に意識を失いか

けた刹那、作者はハッと我に返る。気が付いてみればそ

こは見慣れた田舎町、一切は奇怪な妄想の幻影か……。

しかし、時を経てなお作者は疑わない、猫の精霊ばかり

の住む町が、この世のどこかに必ず実在するに違いない

事を。以上は概要、「猫町」の顛末。

 実はこの主人公、元より方向感覚が極度に欠如してい

て、自宅の近辺でも迷子になった経験を持つ。これは、

そのまま朔太郎自身の体験だろうと思われるが、彼は近

所で遭遇したある不思議な出来事を、このように記す。

「私は道に迷って困惑しながら、当推量(あてずいりょ

う)で見当をつけ、家の方へ帰ろうとして道を急いだ。

そして樹木の多い郊外の屋敷町を、幾度かぐるぐる廻っ

たあとで、ふとある賑やかな往来に出た。それは全く、

私の知らない何所かの美しい町であった。街路は清潔に

掃除されて、鋪石がしっとりと露に濡れていた。どの商

店も小綺麗にさっぱりして、磨いた硝子(ガラス)の飾

窓には、様々の珍しい商品が並んでいた。珈琲店の軒に

は花樹が茂り、町に日蔭のある情趣を添えていた。四つ

辻の赤いポストも美しく、煙草屋の店にいる娘さえも、

杏(あんず)のように明るくて可憐であった」──自分

の家のすぐ近くに、いつからこんな町があったのかと、

夢うつつになりかけた瞬間、作者の正気が突如回復する。

何の事はない、そこはかねてより見知った隣町、道に迷

った作者はいつの間に、いつもと反対の方角から町に入

り込んでしまい、そのせいでそこが全く違った景観であ

るかのように、大きく錯覚してしまったのである。

「気が付いてみれば、それは私のよく知っている、近所

の詰らない、ありふれた郊外の町なのである。いつもの

ように、四ツ辻にポストが立って、煙草屋には胃病の娘

が坐っている。そして店々の飾窓には、いつもの流行遅

れの商品が、埃っぽく欠伸(あくび)をして並んでいる

し、珈琲店の軒には、田舎らしく造花のアーチが飾られ

ている。何もかも、すべて私が知っている通りの、いつ

もの退屈な町にすぎない」──思うに、近所に出現した

幻の町は、もちろん幾分かの誇張が加えられているにせ

よ、憂鬱な日常に突如艶やかに咲きこぼれた、美しい刹

那の夢の花であった、そんな忘れ難き体験から「猫町」

という幻想譚は、いきいきと紡ぎ出されたのだろう。

 きっと朔太郎という詩人にとって、胸躍る見知らぬ異

郷の町は、決して遥かな遠方に在るものではない。それ

は、ついそこの四つ角を曲がったすぐ先の、細い路地裏

の木蔭辺りに潜んでいて、日常にふと時空の陥穽(かん

せい)が開いた束の間に、いつかしらゆくりなくも迷い

込む、隣り合せの次元に在るものではないか。朔太郎は

言う、「普通の健全な方角知覚を持ってる人でも、時に

はやはり私と同じく、こうした特殊の空間を、経験によ

って見たであろう」と。のみならず「たとえば諸君は…

…」と詩人は続けるが、もう抜粋の必要もないだろう、

時として密やかに開かれた扉の中へ、図らずも迷い込ん

だ遠い記憶を、きっと誰もが持っている筈だから。

 

 朔太郎は、写真が好きだったと云う。しかも通常の写

真ではなく、当時としては珍しかった立体写真を、こと

のほか好んだとある。ステレオカメラをぶら下げては近

所を徘徊し、撮影した写真を書斎にこもってステレオス

コープで覗き、そこに奇跡のように浮び上がる3次元の

幻影を、独りこっそりと飽く事なく眺めていたらしい。

「のすたるじや」という写真集も刊行されているぐらい

だから、私もその事は以前から知ってはいたが、しかし

何故に詩人が写真を好んだのかまでは、考えが及ばない

でいた。今なら判る、きっと朔太郎は、そこに「猫町」

を見ていたのだ。昼下がりの薄暗い書斎の中で、ステレ

オスコープの小さな2つのレンズに、背中を丸めて覆い

被さりながら、ひたすら食い入るように凝視するその先

には、美しいミニアチュアの郷愁に煙る異国の町並が、

いつまでも詩人を誘って止まなかったのだろう。

 カメラを持って町を歩いた事のある人なら、誰でも覚

えのある事と思うが、つい近所の毎日歩いているような

道でさえ、矩形のファインダーを通して眺めた時、いつ

もの見慣れた風景とは一変して、そこには心ときめく魅

惑的な光景が広がっていたりする。一時期私もそれに魅

せられて、大枚叩いてマニュアルカメラと暗室機材を買

い込み、時間をみては諸処の街々を彷徨し、狭い自室に

は暗幕を張り巡らせて、現像液の異臭を家中に漂わせつ

つ、暗闇に灯る仄かなセーフライトの下、薬液の中に夢

のように浮び上がるモノクロームの風景に、感嘆の溜息

を漏らしたものである。それが、画廊を開いてからは長

らく中断したきりで、時間がない、余裕もない、と自分

には弁明をして来たが、いつか憑き物が落ちたように、

写真への執着も消えていた。それが何故なのか、我なが

ら判然としないままに来たが、ここまで書いて来てふと

思った事、私はもう魅惑の異郷を探さずとも、「画廊」

という私の「猫町」を、とうに見つけていたのである。

 

 安元亮祐──アクリル絵具の詩人。彼もまた、幻想の

詩境「猫町」を描く人である。そのほとんどは夜に眠る

町並で、古い石造りの建物があり、煙突からは煙がたな

びき、三角の屋根には十字架がそびえ、その先には雨を

降らす雲が浮んで、夜空には大きな三日月が掛かり、街

角には怪しげな猫がたたずむ。何処とも知れぬ異郷、そ

の不思議な雰囲気に魅了される人は多い。

「この町は、特に何処という事はないんです。僕の心の

町ですから。ただ、外国映画をよく観るので、そのイメ

ージは有るのかも知れません。僕の中では、描いた風景

の上下左右に、もっと大きく広がる世界があります。そ

のほんの一部を切り取って、画面の中に描いているつも

りです」、手話通訳の方を介してではあるが、月明りの

詩人はとてもフランクな人であった。

 画集のポートレートよりは遥かに若く、未だ闊達な青

年の相貌を宿して、友人によれば学生時代は野球の選手

だったとの事、なるほど背も高く行動も素早い。20冊

程の画集にサインをお願いしたら、目にも留らぬ早業で

アッという間にサインを書き入れ、すっくと立ち上がっ

てサッと画廊の外に出ると、涼しい顔でプカプカ煙草を

吹かしている。見ていると手話とは実に便利なもので、

画廊の中から通訳の方が何やらサインを送ると、それを

外からガラス扉越しに見て何やら返答し、やおら煙草を

消すとパッと画廊に舞い戻り、何か紙と描く物はないか

と言う。これしかないんですがと、適当な厚紙と筆立を

差し出したら、即座にサーッと筆を走らせて、勢いのあ

る描線をひとしきり巡らせた後、今日の記念にどうぞと、

私に手渡してくれた。そんな訳で私は、月夜を闊歩する

猫のドローイングを、図らずも所有する幸運に恵まれた

のであった。

 

 上記を書いてから7年が経つけれど、安元さんは相変

らず一つ所に留まらない画家である。十年一日の如く同

じ絵ばかりを描く作家の多い中で、まるで変る事が生き

る事であるかのように、大胆な変貌を続けて止まない。

 しかし作風がどう変ろうとも、その世界を密やかに覆

うあの幻想的なノスタルジアだけは変らない。だからそ

の何処とも知れない異国の町に、人は何かしら懐かしい

追憶を見出す。絵の中で、異郷と故郷は一つになるのだ。

 先述の通り、朔太郎は不思議の異郷を「猫町」と名付

けたが、それはいつも日常の隣りに潜んでいる。例えば

画廊の扉を開いて、足を踏み入れたその瞬間から、私達

は見知らぬ異国にたたずんでいたりする。そして星降る

夜空の下を、あの懐かしい風が吹き過ぎた時、その人は

魅惑の猫町に目を瞠る、いにしえの詩人となるだろう。

 

 

                    (14.01.18)