隠されたこと (2014)    混合技法 / F6
隠されたこと (2014)   混合技法 / F6

画廊通信 Vol.127            画家の歩き方

 

 

 ちょうど一年前の事になるが、東京国立近代美術館で

「フランシス・ベーコン展」が催され、新聞や美術誌・

テレビ等でも取り上げられて随分と話題になったが、例

によって私は、遂に行けず仕舞いだった。何だか良く分

らないけれど、あるいは別に好きな訳では無いのだけれ

ど、何故かしら気になる作家というのが誰にでも在ると

思うが、私にとってベーコンとは、ピカソと並んで正に

そういう存在だった。だから是非作品を間近に観て、画

集や写真では決して分らない事を、自分の眼で確かめて

みたかったのだが、結局日々の慌ただしさにかまけて足

を運べずに終ってしまった事、未だに後悔している。

 つい先日、あるお客様にベーコンのインタヴュー集を

お借りする機会があり、興味津々で読ませて頂いたのだ

が、その作風から察するに、たぶん暗鬱な狂乱を生きた

のだろう画家の、それは実にストレートな真摯とも云え

る証言であった。その人生は、確かに絶望と狂気を伴う

ものであったのかも知れない、しかし表現という行為に

向き合った時だけは、誠に正直な偽りの無い姿勢をベー

コンは貫いたのだろう。共感できる部分多々あったが、

その一部をここに抜粋させて頂きたい。

 

 絵を描く際に「偶然」は最も重要な側面で、創造力の

 源泉になっていると思います。例えば、無意識でカン

 ヴァスに付けた筆の跡から、非常に深みのある示唆を

 受けて、描きたかったイメージが明確になる事があり

 ます。あるいは、作品がありふれたものになってしま

 い、怒りと絶望から絵をバラバラにしてしまった時、

 突然そこに直観的なイメージが浮ぶ事もあります。

 そう考えてみると、私の仕事が旨くいくのは、いった

 い自分が何をやっているのか、意識のレベルでは分ら

 なくなった瞬間からなのでしょう。だからいい絵が描

 けた時は、それは自分が描いたのではなく、たまたま

 「授かった」ものだと、私には思えるのです。

 

 自分の絵の事が、分らないのです。どうやってあのよ

 うなフォルムが生まれるのか、本当に分りません。何

 だか他人の作品のような気がして、それがどうやって

 出来たのかも分らないし、カンヴァス上の筆の跡が、

 何故あんなフォルムになったのかも理解出来ません。

 どういう作品にしたいのかは自覚しているのですが、

 そのためにはどうすれば良いのかを知らないのです。

 ピカソだって、あのキュビスムの作品をどうしたら描

 けるのか、分らなかったのではないでしょうか。

 

 私の制作過程の半分は、すらすら出来る事を中断する

 作業です。制作に取りかかった途端、筆がひとりでに

 動いて調子よく作業が進む日もあるのですが、そうい

 う状況が挫折や絶望から何かが生じる時と比べて、必

 ずしも良いと言えるかどうかは分りません。むしろ作

 業が旨くいかない時の方が、調子のいい時より失敗を

 恐れないし、開き直る事が出来るからです。だから、

 絶望は役に立つと言えるでしょう。絶望していると、

 一か八かでより過激な描き方が出来るし、それによっ

 て突発的な偶然が、予期しない何かをもたらしてくれ

 るかも知れません。偶然から湧き上がるイメージは、

 より純粋で生き生きとしているのです。

 

 このような言葉を聞いていると、ベーコンの語る「偶

然」という概念は、即ち「偶然から何かを見出す直観」

に他ならない事が分る。研ぎ澄まされた直観があるから

こそ、偶然から予期しない何かを引き出す事が出来るの

だろう。私は常々、芸術家とはそのような人達なのだと

考えている。日々を生きるため、私達が否応なく理性的

な思考を強いられ、本来それと同じように重要であった

筈の直観という能力を、いつの間に曇らせ鈍らせている

間に、芸術家はその直観を磨き上げて研ぎ澄ます。だか

らそれは、ゆくりなくも訪れる何かを、曇りなき内奥の

鏡となって映し出すのだ。おそらくは直観とは、私達に

は気付く事の出来ない何かを捕え、明瞭に映し出す鏡に

他ならない。換言すれば、それは外から訪れる何らかの

微細な送信を、確かに受信する能力とも言えるのではな

いか。美術に限らず、音楽であれ文学であれ、何かを創

造する作業に携わる人は、おしなべてその直観という高

度な受信機を、我知らず心に秘めている。逆に言うのな

ら、一つの芸術を成せるか否かの多くは、その受信機能

に掛かっているとさえ、言えるのではないだろうか。そ

れはたぶん芸術家にとって、表現の技術や方法論を云々

するよりも、遥かに根源的な問題なのだと思う。

 

 前項にベーコンの言葉を取り上げたのは、そこに榎並

和春という画家の制作姿勢が、そのまま語られているよ

うに感じたからである。事実、先述の抜粋には、きっと

ご本人も驚かれるのではないかと思えるほど、榎並さん

の言葉と似通ったものがある。榎並さんはかねてよりご

自身でホームページを立ち上げられており、特にブログ

では時事評から芸術論に到るまで、飾らないユニークな

発言を連日掲載され、中でも原発問題に到っては歯に衣

着せぬ舌鋒鋭い持論を展開されて、堂々と例の電力会社

及び癒着行政を糾弾されているものだから、いずれ刺客

を放たれて暗殺されてしまうのではないかと危惧してい

るのだが、まあそれはさておき、ブログの中に自らの制

作を語った一節があるので、試みに抜粋してみたい。

 

 制作に当っては何も決めないで、やたらと絵具を垂ら

 したり壁土を塗り込んだりするので、かなり下地が分

 厚くなったりします。ここから想像力を働かせる事に

 なるのですが、何処に行くのかは絵に聞いてもらう他

 ありません。私自身は、この下地を見て大体旨く行く

 かどうかが分ります。それでも途中、何度も壁にぶち

 当たるのですが、最初の予感を心の支えにして、これ

 でしか有り得ないという形を見つけに行く訳です。

 時には水をくぐらせて剝がしたり、それをまた修復し

 ながら進んだり……という作業を振り返ってみると、

 これは「絵を描く」と言うよりは、壁の中から「絵を

 掘り出す」と言った方が、近いのかも知れませんね。

 

 何かしら描いている内に、テーマが浮んで来る。そう

 やって、ああ、自分はこんな事を考えていたのか……

 と知る事になる。テーマは後から付いて来る、それま

 では何処に着地するのか、本人でさえ知らない事が多

 い。自分の分り得る範疇でものを作っている内は、あ

 る意味素人であり、決して自分を超えたものにはなら

 ないだろう。本物というものは、知らず識らずに自分

 を超えた何者かによって描かれたり、作られたものな

 のではないだろうか。旨くいったと思える作品は、自

 分が描いたにもかかわらず、自分の意志というか、作

 為といったものが、ほとんど抜け落ちているものだ。

 

 片やフランシス・ベーコンという破滅型・背徳の無神

論者、片や榎並和春という肯定型・時に宗教的なるもの

にも近接する芸術家、この全く相容れる所の無いであろ

う二人が、こと「制作」という一点に関しては、どちら

の発言なのか分らないほどに奇妙な一致を見せる。未知

なるものへ向けて、手探りで歩み往く事 ──  おそらく

はそれが二人にとっての「表現」という行為に他ならな

い。一般に芸術表現と言われるものは、まず作家の中に

確たる完成予想図があり、それを具現化して何らかの形

にしたものだと思われる方が多いのではないだろうか。

それはあたかも、設計図通りに建物を造る「建築」とい

う作業の如くである。完成形という確固とした目的地が

あって、そこへ向けて一直線に伸びた明瞭な道、それは

安定した穏やかな道で、一切の破綻はそこから排除され

ている。ところがこの世には、極めて稀にではあるけれ

ど、あえて危険な悪路を好きこのんで選ぶ人種がある。

「芸術家」と呼ばれる人達だ。真の芸術家かどうかは、

その歩いている道を見れば分る。もし舗装された安全な

道を歩いていたとしたら、その人は優れた「建築家」で

はあるかも知れないが、決して「芸術家」ではない。一

方、着くべき目的地も分らない、その道が何処へ向うの

かさえ判然としない、足下を見れば舗装もされていない

泥濘の道で、その先にはたぶん、得体の知れない破綻が

待ち構えている。そんな悪路をあえて選択したあげく、

旨く歩けなくては勝手に絶望し、途中で思わぬ何かに出

逢っては元気を取り戻し、あっちへよろよろ、こっちへ

そろそろ、誠に能率の悪い歩行を、飽かず弛まず続けて

いる人が居たとしたら、その人は間違いなく「芸術家」

である。以前にも引いた事のある私の大好きな一節なの

だが、今一度この場を借りて掲載させて頂きたく思う。

以下、小林秀雄「モオツァルト」から。

 

 芸術や思想の世界では、目的や企図は、科学の世界に 

 於ける仮定のように有益なものでも有効なものでもな

 い。それは当人の目を眩(くら)ます。或る事を成就

 したいという野心や虚栄、いや真率な希望さえ、実際

 に成就した実際の仕事について、人を盲目にするもの

 である。大切なのは目的地ではない、現に歩いている

 その歩き方である。

 

 この一節を読む度に、私は榎並さんの来し方を思う。

榎並さんは正に、自分の「歩き方」を貫いて来た人だ。

道なき道を往く──などと言うと、それは遥かな荒野を

歩むかのイメージがあるが、榎並さんにとっての道はそ

んな大仰なものではない、道なき道はありふれた日常の

中にこそ伸びている。むろん生活を共にした事がないの

で、詳しい日常は分らないけれど、起床して軽い朝食の

後、アトリエに入ってしばし制作に専念し、気分転換に

読書をしたり畑を耕したり、時にチェロを弾いたり雑用

がてら散歩に出たり、またアトリエに戻って作品に手を

加えたり──という日常の中に、道は細く長く曲がりく

ねりながら、時には消えかかったりしながらも、何処へ

向うでもなく伸びている。日々の中を、日々を糧としな

がら、日々と共に、ひたすら止まる事なく歩き続ける、

それが榎並和春という画家の貫いて来た「歩き方」だ。

 日常とは、平凡なものかも知れない。しかし榎並さん

は、平凡なものにこそ非凡を見つける人だ。もはや日々

の暮しと一体になった制作の中で、それはほんの小さな

筆の痕跡から、コラージュされた布の紋様から、掻き落

された壁土の中から、あるいは消し去られたフォルムの

中から、ある時ふっと、あたかも最初からそこに在った

かの如く立ち現れる。それは非凡が何かの「形」と成っ

て、思いもかけずに降り立った瞬間だ。ベーコンならそ

れを「偶然」と呼ぶだろう。榎並さんならその現象を、

「絵を掘り出す」と言うだろう。いずれにせよそれは、

画家の直観が見出したものに他ならない。やがてそれは

明確な形を取って、ある時は旅芸人となり、あるいは道

化師となり、楽師となり修道士となり、時に何か大いな

るものを孕みながら、榎並さん独自の世界を形成する。

詰まるところ彼らは、榎並さんの「歩き方」が生み出し

た者達だ。そして私達も彼らと共に、当の作家ですら思

いもしなかった時空へと、いつしか歩み入るのである。

 

 

                    (14.04.18)