渋い奴 (一服)   アクリル / V10
渋い奴 (一服)   アクリル / V10

画廊通信 Vol.128           下町のマーロウ

 

 

 情けない話だが、こんな仕事に就いていながら、私は

未だヨーロッパの地を踏んだ事がない。職務怠慢と言わ

れそうだが、ただあくせく・じたばたと日々に流される

まま、何処にも行けず今に到ってしまった。この調子で

は生涯行けそうにないが、もしまかり間違ってイギリス

辺りに渡ったとして、いくばくかの自由時間をもらえた

としたら、私は迷わず行きたい場所がある。当然の事な

がらロンドンはナショナル・ギャラリー、テート・モダ

ン、大英博物館等々を廻り……と、職業がら一応はそう

申し上げておくけれど、その陰で私は独りこっそりと、

スコットランドのある島に行ってみたい。

 アイラ島 ──  スコットランド西岸に連なる群島の一

つで、荒海を隔ててノース・アイルランドを臨む。面積

にして約600平方キロ、この佐渡島にも満たない小島

が世界的に名高いのは、何と言っても優れたスコッチ・

ウィスキーの蒸留所を有するからである。ラフロイグ、

ボウモア、アードベッグといった、シングルモルトの名

品を生み出す蒸留所が、厳しい岩肌を見せる海岸沿いに

点在し、この島独特の風土を形成していると言う。一般

にシングルモルト・ウィスキーは、蒸留所の位置する地

区によって、スペイサイド・モルト、ハイランド・モル

ト等々に大別されるが、とりわけアイラ・モルトは、最

も癖の強い個性的なウィスキーとして知られる。近年、

私のような者でも何とか手の届く価格となり、色々と鬱

屈あるゆえ、連夜欠かさず戴いているが、中でも初めて

ラフロイグを口にした時は、ウィスキー感を一変される

ような衝撃を受けた。私だけに非ず、ボトルを開けてグ

ラスにウィスキーを注いだ瞬間、誰もがその強烈な香り

にまずは驚くだろう。「芳香」と言うよりは「異臭」と

言うべきか、ヨードのような、クレゾールのような、か

つて酒類では体験した事の無い匂いを、図らずもその人

は味わう羽目となる。モルト・ウィスキー特有の香味は

スモーキー・フレーバー等と称されるが、これは原料と

なる大麦の発芽を止めるため、加熱乾燥の工程で燃やす

ピート(泥炭)の煙臭が、麦芽に焚き込まれたものと言

われる。アイラ島はもともと良質なピートの産地で、湿

地から切り出されたピートは、島特有の新鮮な海風にさ

らされる。その時点でいつしかピートに、磯の香りが染

み付くのらしい。つまり、アイラ・モルトのフレーバー

は海の匂いなのだ。実際、最初はクレゾールのように思

えた強烈な匂いも、慣れるにつれて得も言われぬ薫香に

思えて来る。やがては通常のモルト・ウィスキーが、何

だか物足りなく感じられてしまうから不思議だ。潮風の

芳香、質実剛健の味わい、豊潤の琥珀色、つまみはオイ

ル・サーディン(特にマスタード漬けは絶品)が良い。

やはり北海の酒には、北海の肴がよく似合う。

 村上春樹のエッセイに「もし僕らの言葉がウィスキー

であったなら」という一冊があって、これはまさしくア

イラ島やアイルランドを巡り、シングルモルトの聖地を

訪ねた紀行なのだが、その中に載っていたラフロイグ蒸

留所の写真が良かった。北国の暗鬱な曇天の下、荒涼と

した海岸に屹立する石壁の蒸留所、願わくばいつかこの

地に立って、蒸留所に打ち寄せる波音を聞きたい。

 夕闇が迫って来たら、近くの街に戻ってバーを探す。

出来るだけ小さな寂れたバーが良い。おそらくは石畳の

細い路地を曲がり、少し坂を下った辺りにその店は在っ

て、仄暗いランプが宵闇の壁に灯っている。年季の入っ

た分厚い木の扉を開けると、飾り気のないカウンターが

奥まで伸びていて、棚に置かれた古いラジオからは、懐

かしい歌が低く流れている筈だ。薄暗い店内に先客は二

人ほど、一見は紳士のような風貌だが、こちらを時おり

盗み見ながら密談を交わすその様子は、何やら怪しげな

風情を漂わす。室内の暗さに目が慣れて来ると、片隅に

置かれたテーブルの影から、ヌッと顔を突き出している

猫に気付く。如何にもたちの悪そうなどら猫だ。一瞬背

筋を伸ばして大あくびを噛ましたが、また何事も無かっ

たかのように、こちらをじっと睥睨している様子。薄汚

れたランプシェードの下に、ゆったりと渦を巻く煙草の

紫煙が燻り、ロックグラスに注がれたシングルモルトの

香りから、ふと荒磯を吹き渡る風の音が聞えた時、私は

あの不思議なノスタルジアに包まれて、過ぎし日に想い

を馳せる旅人となる……。気が付けばいつの間に私は、

中佐藤さんの世界に足を踏み入れていたようである。

 

 かねがね思っていたのだが、中佐藤さんの描き出す世

界には、渋みの効いた洋酒が良く似合う。むろん今流行

りの、ライトでキッチュなカクテルめいたアルコール飲

料ではない。そんなものはお子ちゃまの飲み物だ。迷わ

ず、ウィスキーに止(とど)めを刺したい。バーボンも

いいけれど、今日はやっぱりスコッチで行こう。出来れ

ばシングルモルト、それもフルーティーな洒落た銘柄で

はなく、アイラ島辺りの癖の強いものが良い。言うまで

もなく飲み方はオン・ザ・ロック、極上の琥珀色の液体

に、無造作に砕いた氷塊が浮ぶ。そんな大人の酒が似合

うという事は、中佐藤さんの絵は大人の絵なのだ。

 中佐藤さんの作品には、様々な人間が登場する。とり

わけ男たち。時にぼんやりともの思い、時にパイプ煙草

を燻らせ、時に悄然とうなだれ、時に良からぬ悪巧みに

ほくそ笑む。それら千変万化の様相を見せる、奇態にし

て憎めない人物像を見ていると、そこからは大人の憂愁

が、大人のペーソスが、大人のユーモアが、まるで旧い

時代のバラードのように滲み出す。一概には決めつけら

れないにせよ、現在に特徴的な若手作家の絵を見ている

と、どうも子供の絵が多い。それは確かに皆それぞれ、

悩み、惑い、哀しみ、憂えている。でもそれは寒風の吹

き込まない温室の中で、そんな「振り」をしているよう

にも見える。故に、苦しみでさえもが何だか「甘い」。

対して、中佐藤さんの世界には渋みが漂う。だから決し

て声高に悩んだり、哀しんだり、憂えたりはせず、それ

をクールなオブラートに包んで、ニヒルな相貌の下に隠

す。こんな話をしていると、旧いハードボイルド小説の

主人公を彷彿とさせるが、事実、中佐藤さんの描き出す

男たちは、そんな古き良き時代がとても良く似合う。

 そう言えば最近、レイモンド・チャンドラーの「ロン

グ・グッドバイ」をNHKでドラマ化していたが、終戦

後の東京を舞台に焼き直した、なかなかに粋な演出だっ

た。ご存じ、私立探偵フィリップ・マーロウの活躍する

一作だが、チャンドラーの描き出す男たちは、その台詞

がぞっとするほどキザで良い。こんな具合である。

 

「さよならを言うのは、わずかの間死ぬ事だ」

「コーヒーを淹れて、煙草に火を点けたら、

 あとは僕のすべてを忘れてくれ」

「撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだ」

「30フィート離れた所からは、なかなかの女だった。

 10フィート離れた所では、

 30フィート離れて見るべき女だった」

「強くなければ、生きていけない。

 優しくなければ、生きている資格がない」

「店を開けたばかりのバーが好きだ。店の中の空気が

 綺麗で冷たく、何もかもがぴかぴかに光っている。

 バーテンダーがその晩の最初の一杯を振って、

 マットの上に置いて、小さなナプキンを添える。

 静かなバーでゆっくりと味わう、静かな一杯、

 こんなに素敵な一杯はない」

 

 どうだろう、このキザ加減。沢田研二の歌ではないが

「男がピカピカの気障でいられた」時代、そんなレトロ

で懐かしい雰囲気を何処となく滲ませながら、中佐藤さ

んの描き出す男たちもまた、哀愁のパントマイムを演じ

ている。ただし、格好つけるだけではない、そこに一抹

の滑稽さを漂わすのが、中佐藤さんの真骨頂だけれど。

 

 前述の通り、先日放映されたチャンドラーの映画は、

1950年代頃の東京を舞台にしていた。ちなみに中佐

藤さんは1947年生れ、ちょうどかの私立探偵が東京

の街々を走り回っていた頃、将来の画家は同じ東京の下

町辺りを、元気に駆け回っていた事になる。だから中佐

藤さんの絵には、町工場とおぼしき建物や、煙を吐き出

す煙突、その間を縫うようにして走る運河、そこに架け

られた錆び付いた鉄橋等々、寡黙に寂れたような風景が

数多く登場して、何処か不思議な郷愁を醸し出す。むろ

んそれは単なる風景画として描かれるよりは、テーブル

の上にフライパンやポットと一緒に乗っていたりして、

画家独自のシュールな世界へと異化されている訳だが、

以前にその「中佐藤さんの風景」について書いた一文が

あるので、今一度ここに抜粋させて頂きたい。

 

 詳しい地名は聞きそびれたが、中佐藤さんは東京下町

 の生れだと言う。ご存じの如く、時代の急激な変動に

 吞まれて、下町の情緒もとうに失われて久しいが、作

 家の育った昭和20~30年代は、押し寄せる高度成

 長の波音を聞きながらも、まだまだその風情が随所に

 残る時代であったろう。中佐藤さんと年齢をちょうど

 一回り隔てる私は、むろん当時を知る由もないが、勝

 手に想像の翼を広げさせて頂ければ、作品に登場する

 何処となく懐かしいモチーフの数々は、自らが日々を

 イキイキと呼吸したその下町の原体験を、確かな源泉

 としているのだろう。だから中佐藤さんの世界には、

 シュールでありながらも「観念の幻想」ではない、確

 かな手触りを伴った「生活の匂い」がある。

 煙のたなびく町工場、黄昏の運河に架かる橋、遠くを

 走る自転車のシルエット、電球の古びた傘はもの悲し

 く揺れて、どら猫はしっかとこちらを見据え、憂える

 紳士は孤独なもの思いに沈む。これら描かれた者たち

 が、豊かに画面の中を生きるのは、かつて作家自身が

 遊び、笑い、悩み、感じた、その消し難い記憶から、

 自ずと湧き上がるイメージである故だろう。たぶん本

 当の「詩」というものは、邸宅の居並ぶ閑静な高台か

 らは生まれ得ない、それは市井の匂いが染み付いた名

 も無き路地裏から、いつしか彷彿と溢れ出るものだ。

 中佐藤さんの絵を見ていると、下町の見知らぬ陋巷を

 ふらりと訪ねたい気持ちになる。あの橋は今も在るだ

 ろうか、私はいつか町外れに赤錆びた橋を見つけて、

 画家の内なる故郷へと渡り、忘れられた裏路地に迷い

 込んで、あのカフェの扉をそっと開けてみたい。

 

 スコットランドのバーもいいけれど、今宵私の訪ねる

店は、やはり中佐藤さんの下町に在って欲しい。どの道

そこは記憶の彼方に煙る町だから、今や無国籍的な色合

いに染まっているが、しかし画面の何処かに隠れている

筈の時計は、いつも静かに「今・ここ」を指している。

 時おり誰の心にも、ふっと訪れるあの夕まぐれ、迷い

込んだ路地を曲った先に、その店はきっと在る。私は寂

れた扉を開けて、しばし薄暗い店内に目を慣らす。居ま

したね、独り煙草を燻らす怪しげな紳士、そう、名も無

き下町のマーロウだ。低く流れる古い歌、ヌッと顔を見

せるどら猫、侘しい電球に紫煙が揺らいだ時、中佐藤さ

んの世界は完成する。そうしたら私はカウンターに腰を

掛け、沈着にこう呟くのだ、「ラフロイグをロックで」

 

                    (14.05.21)