トゥロウンズのベルカント    Bronze / 21.0x8.5x13.5cm
トゥロウンズのベルカント    Bronze / 21.0x8.5x13.5cm

画廊通信Vol.129           曇り空の聖女

 

 

 近年は映像技術の飛躍的な進歩で、かつて人間の眼で

は見る事の出来なかった世界を、自在に視覚化出来るよ

うになった。例えば植物の一生。種から芽を出して成長

し、花を咲かせて実を結び、やがては枯れて朽ち果てる

まで、その長いスパンの一部始終を微速度撮影で記録す

ると、それはまるで動物のようにいきいきと躍動して、

思いもしなかった未知の様相をあらわにする。この先は

単なる空想に過ぎないが、ある高密度の塊(かたまり)

をここに思い浮べてみたい。それは何らかの岩石塊でも

いいし、あるいは何かの金属塊でもいい、それを幾星霜

にもわたる微速度撮影で、記録したと仮定してみよう。

初めは微動だにしなかった表面が、次第に軟体の如く柔

らかに隆起して、何か茫漠としたフォルムを徐々に形成

し、やがて麗しい女神像へと結実する。そのしなやかな

肢体が暫時静態をとった後、それは明確な輪郭を次第に

失い始め、気が付くとまた漠とした形象へと溶解し、い

つしか元の量塊の中へと消滅して往く。その不可思議な

変容のある時点、つまりは塊から何かの形象が現出する

途中、あるいは形象が再び塊へと消失し往く途中、その

生成と消滅の狭間をイメージした時、そこにこそ三木俊

博という彫刻家の領域が在ると言えば、その極めて独創

的なフォルムに、少しは近付き得た事になるだろうか。

 

 三木さんを知ったそもそもの契機は「十一月画廊」と

いう銀座のギャラリーから、いつ頃からか案内状が届く

ようになり、その個展案内を通してであった。ヨーロッ

パ彫刻の古典を踏まえながらも、具象と抽象の間を自由

に往還するようなブロンズ像、加えて彫刻制作と並行し

て描かれているのだろう、エロティシズムの匂い立つよ

うな裸婦ドローイング、比して例えれば、片や神にかし

ずく敬虔なる純潔の聖女、片や大胆に足を開く娼婦の如

き裸女、この「聖」と「性」に何らの懸隔も置かない世

界観に、何故かしら強く心惹かれるものを感じながら、

ついつい日々の慌ただしさにかまけて、個展にも行けず

仕舞いのまま、いつしか歳月だけが流れた。そんな折、

あるお客様に近況をお聞きしていたら、実は印西のメタ

ルアート・ミュージアムで見たブロンズ作家に魅せられ

て、都内で個展があった際に2点ほど入手したとの事、

聞けば「三木俊博」という作家だと言う。今度お持ちし

ましょうか?とおっしゃるので、それは有り難いけど重

くて大変でしょう、と申し上げたら、いやいや、そんな

大きな物じゃありませんから、とのご返答、結局お言葉

に甘えて、拝見させて頂く成り行きとなった。つい一年

ほど前の事である。それから程なく、画廊までお持ち頂

いた小さなブロンズ像を通して、私は初めて三木俊博と

いう作家を、目の当りにする事となった。通常ブロンズ

像と聞けば、よく公園に設置してあるような大きな作品

を思い浮べてしまうが、お話によると三木さんの作品は

ほとんどが小品で、比較的大きな物でも30cm程度ら

しい。しかしながらそれは、何かしら深い想いを寡黙に

秘めて、重厚な存在感をしんしんと放ち続けている。た

めつすがめつ眺めていたら、よかったらご本人と連絡も

取れますよ、とのお話、ならば是非コンタクトを取って

頂けますか?とお願い申し上げたところ、それから3週

間程を経たある夕方、こんなお電話が入った。「三木俊

博と言います。近々、作品を持って伺いますので……」

 

 昨年8月猛暑の盛り、彫刻家は幾点もの作品を持参し

て、訪ねて来てくれた。小柄でにこやかな方だが、ひと

たび創作の話になると、俄然熱い気概がみなぎる。遠く

イタリアで彫刻を学び、銅版画工房で働いた事もあった

とのお話、創作の上でアルベルト・ジャコメッティ、メ

ダルド・ロッソ等に強い影響を受けたと言う。私も以前

ジャコメッティ展を観に行った折、作品を観ている間は

気が付かなかったのだが、展示会場を出た時に初めて、

自分の時空感覚が変ってしまっている事を知り、物の見

方を変えてしまうその強力な磁場に驚いたという話をし

たところ、優れた立体とはそういうものだ、確かに、周

囲の空間を変えてしまう力を持つものです、と語られて

いたのが、とても印象的だった。以前ジャコメッティの

「雨の中を歩く男」という作品を観た事があって、ほん

の小さな人型が在るだけの作品だったけれど、そこには

本当に雨が降っていたのです、と。

 その日見せて頂いた作品の数々は、いずれもデスクの

片隅に直ぐにでも置けるような、小さなブロンズ像だっ

た。さりながら手に持つと、ずっしりと重い。「どんど

ん触って頂いて結構です。それによって油膜が出来て、

却ってブロンズが保護されるんです」と、作家は微笑ん

でいる。「ブロンズと言えば、緑青の色をイメージされ

る方が多いと思いますが、他にも茶と黒と3種の色合い

があって、僕はそれを作品によって使い分けています」

という説明をお聞きしながら、私はお言葉に甘えて作品

を手に、正面から側面からそして背面から、様々な角度

から玩味させて頂いた。律儀に作家との間を取り持って

くれた、先日のお客様も同席されて、初めての彫刻家の

興味深いお話に耳を傾けながら、古代の幻想から茫々と

甦ったかのようなブロンズ群に囲まれる内に、須臾、何

か濃密な思惟が、密やかに画廊の空気を満たした。

 

 それから半年近くを経た本年の1月末、私は十一月画

廊の個展に伺わせて頂いた。銀座7丁目、中央通り資生

堂前を昭和通り方面に折れて程ない辺り、3階まで上っ

て画廊の扉を開けると、スリムな台に乗せられた小さな

ブロンズ像が、店内の壁に沿ってズラリと並んでいる。

外の喧噪とは全く隔絶された、静謐の小宇宙である。作

家ご本人もちょうど在廊されていたので、歓談しながら

拝見させて頂く運びとなったが、そこには前年見せて頂

いた作品から、更に進化したかのような世界が広がり、

寡黙に佇む幾体もの人物像は、眼には見えない深い内省

の海を前に、茫洋とした思念に暮れるようであった。

 女性像、男性像、子供の像、顔だけの作品もあれば、

胸像もあり、神話や聖典、時に文学作品等をモチーフに

したと思われるその世界は、極めて多様な表情を見せる

が、その底流には一貫して深く秘められた憂いと、何か

遥かなものへと馳せる想いが感じられる。作風の印象は

冒頭に記した。一見、何かの崩れかけた塊にしか見えな

い作品もあるが、眼を凝らせば必ずそこからは、様々な

人物のフォルムが浮び上がる。言うなればブロンズの塊

は、作家の精神の量塊(マッス)であった。そこから浮

び上がる多様な形象は、単一の具象的な完成形を拒否し

つつ、見る者に自由な変容を喚起して已まない、答えの

無い「問い」であった。流転する生成と消滅の狭間に、

三木さんの人物像は生きている。思えば私達もまた、生

と死の狭間を生きる者に他ならない。同じ狭間を生きる

者ならば、彼等と私達の奥底にもまた、必ず何処かでつ

ながるだろう流れが在る。静謐な時空を周囲にまといつ

つ、不可思議な問いをしんしんと投げかけながら、彼等

はどこまでも寡黙に、そしてひたすらに佇んでいた。

 

Mail ◀ 14.05.21 案内状の作品は、山口さんが撮影し

てみて下さい。今日は雨降りなので、ふと思います。ブ

ロンズは雨に濡れても支障ありませんし、扱いに気をつ

かう必要のないモノですから。思いつくままに。 三木

 

Mail ▶ 14.06.01 連日慌ただしく、撮影遅くなって申

し訳ありません。曇天で散乱光のチャンスを狙っていた

のですが、とんと曇ってくれません。よって晴天下で撮

影してみました。2枚ほど送らせて頂きますので、ご覧

になってみて下さい。でも、もう少し明度を落として、

背景も青空ではない方が良いのかも知れません。 山口

 

Mail ◀ 14.06.01 お世話になります。これでいいので

すが、更に良いものを求めるとすれば、晴天ではやはり

調子が硬質になってしまうので、もし可能ならば、曇り

日や雨模様の方が、より自然な表現になると思います。

ダ・ヴィンチは「モノを曇り日で見るように」と言って

ますし、スーラにも「曇り日に半眼でモノを見よ」とい

う言葉があります。言うのは、簡単なのですが。 三木

 

Mail ▶ 14.06.05 撮り直してみましたのでご笑覧下さ

い。やっと曇り空になったので、先日のアングルで再度

挑戦しました。ご意向に添えれば良いのですが。 山口

 

Mail ◀ 14.06.05 お手数をかけました。絵や彫刻の制

作もそうですが、しつこくやっていると、やがては季節

が訪れ、作品がまぶしくなって来る。この画像も、充分

にまぶしさを感じます。これで良いと思います。 三木

 

 6月初頭の午前中、私はブロンズ像とカメラを引っ下

げて、ポートタワー裏の海岸に赴いた。数日前に一度、

当日の早朝に再度、その数時間後にまた出向くといった

成り行きで、要するにこれで3度目である。数日前に初

めて同地に赴いた折は、雲一つ無い真っ青な晴天で、何

も好き好んでそんな日を選んだ訳ではなく、あいにく待

てども曇り日が来ないため、業を煮やして撮影を決行し

たのだった。ファインダーを覗くと強烈な太陽光をまと

もに受けて、ブロンズ像は燦然と照り輝いている。明ら

かに光量過多の状況で、とても良い条件とは言えなかっ

たが、それでも35~6枚は撮ったろうか、私はその中

から最もましな2枚を選択して、作家へメールで送信し

た。一応のご了承は頂けたものの、曇り日のハーフトー

ンなら、更に良い結果が得られるだろうとのご教示であ

る。2日後、早朝に外を覗いたら、昨日までの晴天が嘘

のように、どんよりと曇っている。早速飛び出して撮影

に臨んだまでは良かったが、今度は光量が不足ぎみで、

ブロンズの色調が暗く沈んでしまう。やはり30枚以上

を撮影して帰ったが、どうも納得が行かない。9時を回

り、空はより明るさを増して、絶好の薄曇りとなった。

よし、もう一度と自らを叱咤しつつ、私は車に乗り込ん

だ。ご存じのようにポートタワーは、千葉港湾に位置す

る展望施設だが、その裏手に小ぶりの海浜がある。そこ

に大きなコンクリート・ブロックが放置されていて、実

はそのブロックが、わざわざその地まで赴く目的であっ

た。その上にブロンズ像を設置して見上げると、ちょう

どブロンズの台座が石塊に隠れて、ギリギリまで寄って

接写すると、手前のブロックがいい具合にボケてくれる

のである。ブロックの向うは小さな入江になっていて、

沖へと霞みゆく海面一帯に、散乱光が柔らかく降り注い

でいる。カメラを手に作品を見上げると、ブロンズの半

裸像はライトグレーの空をバックに、キッと口を結んで

彼方を見つめ、凛々しく屹立している、あたかも闘いの

女神のように。三木さんは11年もの長きにわたって、

ヨーロッパ古典彫刻の本場・フィレンツェで研鑽を積ん

だ人だ。だからだろうか、造り出す作品も日本という島

国の匂いがしない。どこか大陸の重厚な風をはらんで、

洋の東西を超えた時空へと、見る者を強くいざなう。瞬

間、ジャンヌ・ダルクだと思った。烈々と押し寄せる巨

大な悪意へ向けて、何か清冽に澄み渡る強靭な意志を、

独り凛乎と放つ聖女だ。私はファインダーの中の彼女を

仰ぎ見ながら、何枚も何枚もシャッターを切り続けた。

 

                    (14.06.25)