背               油彩 / F6
背              油彩 / F6

画廊通信 Vol.131            朱夏の酩酊

 

 

「肺がボロボロですよ、栗原さん。

 息苦しくなる事、なかったですか?」

「生きてる事が苦しいからね」

「そんな哲学的な話をされても…」

「じゃ、文学的な話をしようか」

 煙草の紫煙をくゆらせながら、この前医者とこんな会

話をしたんだよと、画家は事も無げに話されている。だ

から場合によっては、9月の個展無理かも知れないな。

一気に激しい落胆を覚えながら、もしや、また入院にな

りそうなんですか?と、私はお聞きする。レントゲンで

ちょっと引っかかっちゃってね、先の事はまだ分らない

んだ。常人である私は、それなら煙草なんて吸っている

場合じゃ無いだろうに、と憂慮したくもなるのだが、栗

原さん、そんな事は気にもされない風で、ギョロリとし

た鋭い眼光の前に、相変らず煙幕を揺らめかせている。

「かも知れない」という事は、まだ完全に望みが断たれ

た訳ではない、ならば僅かな可能性を大切にしよう、と

私は思い直す。来月の末頃に、またお電話をさせてもら

います。分った、そうしてくれよ。去る6月の半ば頃、

福生のアトリエにお伺いした折の話である。

 

 顧みれば以前にも、栗原さんの健康が重大な危機に瀕

して、次の展示会の開催が一体どうなってしまうのか、

全く見通しの付かなくなった事があった。既に美術誌等

でも明かされている事なので、ここに書かせて頂いても

ご容赦の範囲かと思うのだが、栗原さんは8年ほど前に

癌を患われて、苦しい闘病を強いられる事となった。そ

れでもギリギリまで制作を続けられたが、さすがにしば

らくは画業を停止せざるを得ない成行きとなり、当店も

2年以上にわたって個展の開催出来ない状況が続いた。

その時の事を、後日ある美術誌のインタビューで、画家

はこのように述懐されている。

 

 病気を知った時は、それほどショックではなかった。

 癌ですよ、そうですか、やっぱりなあ、という感じで

 ね。今どき癌なんて珍しくもないし、驚く事はない。

 そもそも人間を描く作家として、死は絶えず意識して

 いなければならないものだ。確かに、描くのは生なん

 だけど、でも、どこかに死も含んだ表現をしたい。そ

 の意味で、俺は上手い絵を描きたいとは思わない、表

 現する事が上手くなりたいんだ。それなら、しょぼく

 れてたって仕方ないじゃないか、そう思ったね。誰で

 も病気にはなるだろう、でも病人にはならない事さ。

 

 今年に入ってから展示会が7つもあって、体調を崩し

てしまった。悪いが今年はどこも皆、断らせてもらって

いる ──  作家からこんな電話が入ったのは、初回展を

終えた翌年、夏の盛りの事である。今にして思えば、既

にこの頃には、相当に体調も悪化されていたのだろうと

思われるが、諦めの悪い私はそれ程とは知らなかった事

もあり、ともかくもアトリエに伺わせて頂く約束を取り

付けた。数日後福生の地へ赴き、久々にお会いする事の

出来た作家は、銅版画の新作に挑んだ模様等を、普段と

あまり変らないご様子で話されている。今回は20数点

のドライポイントを創ったとの由、現場ではモデルを前

にして、なんと直接に銅版を刻んだらしい。てっきりそ

れが普通のやり方かと思ってたら、違うんだってなあ。

まずは下絵を描いて、それを銅版にキチンと写してから

彫るんだそうだけど、そんな事やってられるかい、線が

死んじゃうだろ ──  そんな言葉をお聞きしていると、

目前には確かにいつもの栗原さんが居るし、ならば何と

か考え直しては頂けないものだろうかと、つい微かな望

みを抱いてしまうのだったが、結局この年は個展の開催

は叶わないままに終った。それどころか、初冬に連絡を

とってみると、長期の入院をされてしまったと言う。そ

れでも年内には退院されるとのお話だったので、年が明

けて程なく電話を入れさせてもらったところ、ご本人が

出られて胸を撫で下ろしたまでは良かったが、癌だから

さ、すぐに治るってものでもなくてね、とごく普通に話

されているので、かえって私は返答に窮した。何しろ、

もういつ死ぬか分らないからね…。

 それからふた月ほどを経た初春、私は銀座で開催中の

立軌展へと足を運んだ。栗原さんは毎年ここに出品をさ

れているが、今回は3点、全て裸婦である。右に正面を

向いて立つ裸婦、中央には横たわる裸婦、左に後ろ姿の

裸婦、おそらくは前年の入院前に描かれたものだろう。

秘められた内奥の情念を、いきなりダイレクトに描き出

したかの如く、独特の迫力を湛える人物表現は、かねて

より自家薬籠中の物とされて来た作家の本領だが、今回

の裸婦はいつにも増して、異様に切迫した気魄を帯びて

いる。勝手にその意を推し量れば、順に「来る人」「居

る人」「去る人」とでも言えようか、更にうがった眼で

見れば、それはあたかも何らかの別れを暗示する、去り

往く者からのメッセージにも思えるのだった。

 帰途に、あらためて思った。あんな表現の出来る画家

が、今どこに居るだろう。この上っ面の美しさばかりが

蔓延する、現今の極めて浮薄な美術シーンで、数少ない

「本物」を提示し得る作家として、いよいよ栗原さんの

重要性は増すばかりだ。それなのに、この理不尽は一体

どういう事だ、神も仏も居ないのか ──  そんな事を考

えていたら、ムラムラと怒りが湧いて仕方がなかった。

 

 未だ根強いブームに乗って、写実を手がける画家は数

多い。特に顕著な人気を誇るのが、若手作家による細密

的な美人画である。モデルは概ねキュートな少女であっ

たり、ファッショナブルなOL風の美女であったり、要

はキレイなお姉さんをキレイに描く、それが彼等の信条

だ。確かに有名無実の大家や、肩書だけの団体幹部等よ

りは、格段に上手いし垢抜けてもいる、それは紛れもな

い事実なのだが、しかしながらそこには、何かが大きく

欠落している、そう思ってしまうのは私だけだろうか。

 通常「美しい」と言う場合は、その目に見える範囲、

つまりは皮膚から外を指す。今流行りの美人画は、正に

その皮膚から外を、忠実に描いたものがほとんどだ。言

い方を換えれば、そこには皮膚の外側しか描かれていな

い、何かが足りないと感じられる最大の原因は、そこに

あるのではないか。見る人に忘れ難い印象を残す人物像

からは、決まって深い内面の声が聞える。絵画における

人物の「美」とは、たぶん目に見える皮膚の外側にはな

い、それは内側の見えない領域に存在して、見る人の胸

奥に強く訴えかけるのである。時にそれは、憂愁に覆わ

れている事もあるだろう、深い絶望に沈んでいる事もあ

るだろう。しかし、その偽らざる精神の姿は、いつまで

も色褪せない美しさを放つ。寂寥・絶望・愛憎・夢想・

憧憬・願望・憂愁・恋慕、それら人間の営みから否応な

く生れ出る情動が、心に空いて満たそうにも満たせない

「穴」ならば、芸術家とはその穴を、飽かずに埋め続け

る人なのかも知れない。そしておそらくはその行為の中

にだけ、真実の美神は宿るのだと思う。だから優れた芸

術家の心には、きっと大きな風穴が空いている。それを

埋めようとして、作家は飽く事のない挑戦を繰り返す、

埋めても埋めても埋まらない、自らの風穴に向って。

 栗原さんの描き出す、そこはかとない孤愁を身にまと

う人物達、それは男であれ女であれ、結局は画家の自画

像に他ならないのだと思う。栗原一郎という芸術家こそ

は、正に埋めようのない大きな風穴を、心に抱え続けて

来た人ではないだろうか。人生の有りと有る哀感がしん

しんと滲み出す人間像、その極力に色彩を抑えた、麗容

の上皮を削ぎ落したかのような画面に対した時、人はそ

こに言いようのない切なさを、哀しさを、寂しさを、更

には「人間」という存在への、限りない愛惜を見るだろ

う。そして、それは美しい、野に立つ傷だらけの草が、

可憐に結ぶ一輪の花の如く。絵画における「美」とは、

そのようなものではないか。

 余計な差出口ながら、前述の優秀なる写実作家達に、

とりわけ今を時めく美人画家達に、一つだけ言っておき

たい事。偉そうな物言いで申し訳ないが、君達の絵には

「穴」が無い。満ち足りた葛藤なき精神に、焦がれるよ

うな想いが描けるか、裂けるような哀しみが描けるか、

絞り出すような叫びが描けるか、時には疾風の荒ぶよう

な精神だからこそ、真実の人間が描けるのではないか。

ならば空けろ、風穴空けろ、土手っ腹に風穴空けろ!

 

 出来るかも知れないよ、展示会。もうちょっとしたら

はっきりするからさ。7月末、私が連絡を入れる前に、

こんな電話が栗原さんから入った。それから数日を経て

「火曜日に来るかい」という連絡があったので、福生の

ご自宅までお伺いしたのが、つい先月半ばの事である。

下手に入院するぐらいなら、好きな絵を描いていたいし

な、まだ思案中なんだ。それよりもさ、思ったより描け

ちゃったよ。どうぞ、好きなの選んで持ってってくれ。

 前述したラスト・メッセージかとも思えるような展示

の後も、栗原さんは放射線と抗癌剤による苦しい治療を

続けられ、やがて絶望的と思われた病状を克服されて、

遂に奇跡的な復活を果した。あれから7年、煙草は吸い

ながらも酒は断たれ、絵もさんざん描いて来たし、いい

加減女も飽きたし、いつ往ってもいいんだけどなあ等と

言いつつも、その筆致はいよいよ自由闊達に乱舞して、

もはや縦横無尽・融通無碍の境地を遊ぶに及び、近年は

栗原さん考えを変えられたようで、そういえばまだ一つ

やり残した事があったよ、とおっしゃる。老いらくの恋

さ、これだけはこの歳にならないと、出来ないからね。

 さて、無造作に並べられた新作群の前で、私ははたと

考え込んでしまう。時に豪放、時に朴訥と、思うがまま

に引かれ、重ねられたそのタッチを見るほどに、困った

なあ、と呟く他ない。所詮こんな表現を前に、「選ぶ」

なんて出来る訳がないのだ、そんなおこがましい事は。

弱り切っている私の横で、栗原さんは使い古した器に、

ボドボとワニスを注いでいる。選んだらここに置いて

くれよ、まだニスを掛けてないんだ。観念した私は苦渋

の選択の果てに、カンヴァスのままの新作を一点ずつ床

に並べてゆく。それを取り上げて栗原さん、太筆でザッ

ザッと無造作にワニスを掛け、終えるとまた床に置いて

次に取り掛かる。やがてアトリエの床は、ワニスに艶め

くカンヴァスで一杯になった。車に積む時は重ねないよ

うにするといいよ、帰る頃には大方乾くからさ…。以て

瞑すべし、と私は思っていた。今、当代に比類のない画

家の傍らで、私は創造の現場を目の当りにしている。い

やしくも芸術を扱う者として、これ以上の至福があるだ

ろうか。以て瞑すべし、心からの敬意と感謝を、必ずや

歴史に名を残すであろう、一人の油彩画家に捧げつつ。

 福生からの帰り道、ワゴンの後部スペースをパズルの

ように埋め尽くしたカンヴァスと共に、私は中央高速を

一路、千葉へと走った。車内には、むせ返るようなワニ

スの匂いが充満している。炎熱の猛暑を余所に、車内は

快適に冷えていたが、それでも塗られて間もないワニス

は、強烈な芳香を揮発させて嗅覚を襲う。その内に頭が

くらくらして来た。いいじゃないか、画家・栗原一郎の

匂いだ、今の内にたっぷりと吸い込んでおけ。酩酊は、

ワニスのせいだけでは無かったのかも知れない。

 

 

                     (14.08.25)