菜 (1993)     混合技法 / 41x61cm
菜 (1993)     混合技法 / 41x61cm

画廊通信 Vol.136               生ける

 

 

 昨年の夏、今は休館となっている恵比寿の東京都写真美術館で「華・いのち・中川幸夫」と題されたドキュメント映像を観た。ある画家と話した折に薦められて、どんな作家なのかも分らずに聞いていたのだが、そう言えば以前「天空散華」に参加したお客様が居て、その時の状況をイキイキと語ってらしたなあと、後になって思い

出したのである。「天空散華」は、今や著名となった越

後妻有アートトリエンナーレの一環として、晩年の中川

幸夫が信濃川河川敷を舞台に挑んだ一大イベントで、当

時新聞にも大きく取り上げられた記憶がある。天空から

の散華──というタイトル通り、中空高く舞い上がった

ヘリコプターから、100万枚のチューリップの花弁を

降らせると云う壮大なプログラムで、地では折からの雨

と共に、止めどなく降り注ぐ無数の花びらに包まれて、

当時95歳の舞踏家・大野一雄が車椅子で皇帝円舞曲を

舞った、正に前代未聞のパフォーマンスだったと聞く。

 中川幸夫──特異な前衛生け花作家。1918年香川

県丸亀市に生れ、幼少に患った脊髄カリエスのため、生

涯背中の曲った短躯と成る。20代の初め頃、伯母より

池坊の手ほどきを受けるが、やがて流派の型や規則に疑

問を抱き、次第に伝統に反旗を翻すような、革新的な作

風で頭角を現して往く。30歳で池坊を脱退、フリーの

生け花作家として活動を開始、40歳を前に東京に転居

した頃には、草月流開祖の勅使河原蒼風をして「恐ろし

い男が花と心中しにやって来た」と言わしめる程の、前

衛の闘士として知られるように成っていた。伴侶も同じ

無所属の同志であった事から、夫婦で独自の芸術活動を

展開して往ったが、流派も弟子も持たない闘いであった

ため、注目はされながらも生活は困窮を極め、当初は喫

茶店やバーに花を生けて、僅かな報酬を得る日々だった

と言う。50歳で東京における初個展を開催、以降先鋭

的な作品を次々と発表しながら、自らの撮影による作品

集も上梓して高評を得、更には作品を生ける花器の制作

や書にも意欲的な挑戦を繰り返し、生け花の枠を超えた

現代美術作家として、縦横無尽とも言える活躍を繰り広

げて往く。60代半ばで伴侶を亡くした後も旺盛な活動

を続け、前述した「天空散華」の時は80代も半ば、そ

の後も斬新な作品集を刊行して、3年前に93歳でこの

世を去っている。その作品は「生け花」というイメージ

を大きく逸脱したもので、大胆にして奇想奇抜、衝撃的

と言っても過言では無いような先駆性に溢れ、分野を超

えたあらゆる表現形態を、根底から激しく揺さぶるもの

であった。例えば、カーネーション900本の花弁を、

自作の一種エロティックなガラス器に封じ込め、花液を

まるで血液のようにしたたらせた「花坊主」、あるいは

腐敗したチューリップの花弁の塊を、石材にベタベタと

執拗に盛り付けた「聖なる山」、あるいは無数のチュー

リップを潰してステーキ状に固め、その周囲をシュロ縄

でグロテスクに緊縛した「闡ヒラク」、その可憐な存在

である筈の「花」をあたかも陵辱するかのような、ある

種犯罪的とも言える苛烈な表現は、残された資料から想

像する他は無いにせよ、おそらくは安閑と旧態を貪る伝

統芸道の常識を、真っ向から打破して震撼させるもので

あったろう。映像の中をイキイキと動き回り、思い詰め

たような眼差しで制作に没頭し、打って変って展示会場

ではニコニコと好々爺の如く相好を崩す、140cmに

も満たなかったと言われるその痩躯を観ながら、中川幸

夫という作家の創造の意義は、きっと「生ける」という

行為を、極限まで問い詰める事に有ったのではないかと

思えた。映写を観終えた帰路も、脳裏では「生ける」と

いう言葉が回り続けて已まない。「生ける」とは何か。


 切って、切って、切って、切って、つくる。枝は鋏を

入れすぎよ。どの枝でも切り捨て、または切り落としす

ぎよ──前述した勅使河原蒼風は、こんな言葉を残して

いる。生け花を知らない私が、それに言及するなんてお

こがましいけれど、切り過ぎる程に切り捨て、潔く切り

落とせと言ったその先に、蒼風は何を残そうとしたのだ

ろう。中川幸夫に約四半世紀を先んじて、早くから伝統

と対立し訣別した蒼風に、たぶん花をただ美しく生ける

と云うような通常の意志は、この折もはなから無かった

に違いない。だからこの言葉は、余計な虚飾をギリギリ

まで削ぎ落とし、シンプルに磨かれた表現をせよと云っ

た、生け方の技法を語ったものでは無いと思う。むしろ

この言葉は、たとえ切り過ぎて花材が本来の趣を失い、

醜く異風に変質してしまったとしても、それでも鋏を入

れよと叱咤しているのではないか。切って、切って、切

り過ぎたその先に有るもの、もしくはその果てに残るも

の、それは最早、それを極限まで切り刻み抜いた当人の

「意志」そのものでしかあるまい。一度でいい、上っ面

の美麗をことごとく切り捨て、その地点まで行き詰めて

みよと、蒼風はそう言いたかったのではないだろうか。

とすればそれは、生ける技法よりは生ける姿勢を、換言

するなら「生け方」よりは「生き方」を語った言葉だと

言っても、誤謬では無いのかも知れない。蒼風が「生け

る」と言う時、その意義はこのように敷衍されていた。

「言葉を造型(いけ)れば歌になる。詩にもなる。俳句

にもなる。長く綴れば小説にもなる。絵具を造型たもの

が絵である。ピアノでも弾いたらもうピアノではない、

それは音楽だ。造型ればもう元の物ではなくなるし、ま

た人間何でも造型る事が出来る。何でも自由に造型よ」

 実物を観てはいないので、あくまでも写真や映像の範

疇でしかないのだが、実は中川幸夫の作品に、あるいは

勅使河原蒼風の作品に、私は手放しで共感は出来ないで

いる。それは時に表現を追求するあまり、異形が過ぎて

醜怪でさえある。ほんの束の間を生きて、夢の如くに消

えてしまう「花」を素材とする故か、その表現はまるで

生き急ぐかのように、極端な相貌を見せる事も多い。特

に中川幸夫の場合は、蒼風のように一派を成さなかった

事もあって、どこまでも個に徹し、個に向き合い続けた

事から、その表現は極めて内的な衝動を孕む。そして考

えざるを得なかったのだろう、たった数日にして消えて

しまう花を「生ける」と云う行為を、延いてはその意義

を。それを文字通り徹底して問い詰め、追い求め、極め

尽くそうとした、その生き方に私は心打たれる。やがて

生け花は生け花を超えて、己の精神そのものへと到るだ

ろう。それは最早、花の形を成してはいないのかも知れ

ない、最早、花の痕跡さえ感じられない程に変質してい

るのかも知れない、しかしそこにかつては花であった物

が、ある特異な精神へと変貌している様を、人はまざま

ざと観る事になるだろう。まさしく「生ける」とは、そ

ういう事ではないだろうか。花でもいい、木でもいい、

あるいは音でもいい、文字でもいい、何らかの媒体を通

して、自らの精神を「形」にする行為。むろん、元より

精神に形など無いのだから、それに形を与えて顕在化さ

せようとすれば、自ずから何かの媒体を通す他はない。

ならば単に「精神の形象化」と言い切れば、事はより簡

明となるのかも知れない。だから蒼風の言った通り、生

けられた素材はもう元の形を離れ、精神の形へと大きく

変容を遂げる。そこには作家の今までに生きたあらゆる

想いが漲り、それはそのまま、今を生きる作家の姿へと

重なるだろう。その意味で、畢竟「生ける」とは「生き

る」事に他ならないと言えば、極言に過ぎるだろうか。


 あの日、中川幸夫の記録映画を観た帰路、私はいつし

か中西さんの世界を思い浮べていた。そして長年見つけ

られなかった言葉に、やっと巡り会えた気がした。中西

さんの作品が共通して湛えるある感覚、単に「空気感」

と言ってはあまりに即物的すぎるある内的な雰囲気、清

澄な時空が奥深く孕む高潔の気韻、大仰な形容は控えた

いが「明鏡止水」「寂滅為楽」と云った言葉を、つい持

ち出したくなるようなある境地。さて、なかなかに言葉

では表し難い中西さん特有のこの世界に、一言で肉迫出

来るようなキーワードはないか。所詮絵画とは、言葉で

は解き得ない謎には違いないが、その要諦に近付く事は

出来る、迫る事は出来る、ならばそんな一言はないか。

 ご存じのように中西さんは、身の周りの至極ありふれ

た物をモチーフにする事が多い。それは普段気にも留め

ない野菜や果実だったりするが、例えばここに一個の白

菜が在ったとしよう。いちいち説明するまでも無いが、

味噌汁の具になったり漬物になったりする、あの何の変

哲も無い白菜である。それが一旦中西さんに描かれたが

最後、何か不思議な尊厳をしんしんと放ちながら、命と

云う感謝を身一杯清らかに湛え、どこまでも静かに穏や

かに黙する、あるかけがえのない存在となる。それは最

早、味噌汁の具でもなければ漬物の材料でもない、今ま

でそう見ていた事を心から反省したくなるような、何か

仰ぎ見る存在へと変容する。以前にもこの場を借りて、

中西さんの絵に救われた体験を書いた事があったが、私

なぞ誠に素直なものだから、もう10回を超す展示会を

やらせて頂く中で、何度その絵に一礼を捧げたか分らな

い。日々、浮世の泥濘にまみれる身ゆえか、何か尊いも

のを目の前にすると、つい自然に黙礼を捧げてしまう。

「生けた」のだと思った。中西さんは絵の中に白菜を生

けたのだ、あたかも花を生けるが如くに。白菜だけに非

ず、大根であれ、リンゴであれ、トマトであれ、何であ

れ、中西さんの描く全てのモチーフは、作家の筆と絵具

によって生けられる。だからそれは白菜でありながら、

大根でありながら、如何なるモチーフでありながら、そ

の身そのままで、作家の精神と一つになる。結果そこに

描き出された物は、元の取るに足らない物とは似ても似

つかぬ、ある心魂の姿となるのだ。所詮「描く」とは、

延いては芸術の表現とは、つまりは「生ける」事ではな

いか。その「生ける」行為を、即ち「生きる」事と担う

画家の姿を、中西さんの絵は静やかに語って已まない。


 昨年の春たけなわの頃、鎌倉の中西宅にて、作家ご自

身の手による饗応を受ける機会があった。中西さんの素

人の域を超えた創作料理は、かねてよりファンの間では

有名で、私も一度はその恩恵に与りたいと思っていたの

だが、ちょうど地元の画廊オーナーさんも来訪されると

の事で、私も同席の光栄に浴した次第、鎌倉の山間部、

山房と言うには瀟洒なご自宅で頂いた手料理は、変な言

い方かも知れないけれど、とても幸せな味がした。無粋

ゆえ、料理の名を挙げての説明は出来ないが、お礼状に

記した拙文の抜粋で、ご報告の代りとさせて頂きたい。

「先日は心づくしの手料理、ありがとうございました。

美味しい──のはもちろんとして、とても品のある、奥

行きのある、そして心温まるお料理でした。何と言った

らいいのか、素材への慈しみに満ちたお料理で、それが

戴く方にもそこはかとなく感じられて、ゆったりとそし

て豊かに、心遊ぶような体験でした。窓からの風景、う

ぐいすの声、奥様のお人柄、全てが柔らかに相まって、

今こうして思い返しますと、慌ただしく荒んだ日常にた

おやかに咲いた、花のようなひと時だったと思います」

 今ならば、中西さんは食材を料理として「生けた」の

だと言える。そこでは野菜も海鮮も、中西さんと云う柔

らかな心によって生けられていた、おそらくは拈華の微

笑の如く。絵もまた同じだ。私達はそこに、必ずあの心

を見出すだろう、清らかに豊かに生けられた花として。


                    (15.01.23)