ペールギュント   Bronze / h.185mm
ペールギュント   Bronze / h.185mm

画廊通信 Vol.141            断絶のすすめ

 

 

 断絶してこそ世代だ、若者の軽佻浮薄な文化に、何を迎合の必要ある──最近、そう言い切れる熟年をとんと見ない。実になげかわしい事だと思う。若者がどうのこうのと言う前に、自身の世代を顧みれば何の事はない、軽薄文化にいともたやすく迎合し、いそいそと推進の片棒をさえ担いでいるのは、我々50代から団塊前後に到る熟年層ではないか。若者が大人を目指すのなら分る、それが今や大の大人が若者文化に憧れ、逆に大人が若者を目指すという、誠に情けない逆転現象が起きている。故に、我々の年少期には当然であった「世代の断絶」という言葉など、最早死語となって久しい。

 例えば「電子ブック」という製品が有る。便利にしても所詮はおもちゃみたいなもので、人類が永々と築き上げて来た出版文化を顧みれば、比較にもならない遊具としか思えないのだが、嬉々としてこれに飛び付いて、断

捨離云々というただでさえ薄っぺらな流行り言葉を曲解

し、自分の歴史とも言える浩瀚なる蔵書を二束三文で売

り払い、ああ清々した、書籍はみんな電子ブックに入れ

ちゃったもんねと意気揚々、脆弱なデジタル機器のディ

スプレイなんぞの上に指をすべらせたりして、得意げに

浮かれている憐れむべき輩は、残念ながらまずは我々熟

年の世代なのだ。こんな事はほんの一例に過ぎず、今や

この珍現象いつの間にやら世にあまねく浸透し、いちい

ち例をあげていたらキリが無い。書籍文化は無論の事、

音楽文化しかり、映像文化しかり、それに異を唱え熟考

を促すべき思想界やジャーナリズムでさえ、例えば硬派

論客で鳴らしたあの田原某が、何故かAKB48の熱心

なファンと成り果て(曲調、確かに昭和を思わせるもの

有るけれど)、その情けない有様をかえって世間は微笑

ましいエピソードと見ているらしい事例一つを見ても、

天下一様とうに浮薄の波に侵されてしまっている。

 そして残念ながら美術界もまた然り、と言うよりは、

美術界こそ最も率先してこの波に、むしろ自ら望んで侵

蝕されて来たとは言えまいか。いつ頃からだろう、子供

のお遊びのような絵を業界が持ち上げ始め、それを新し

い時代のトレンドと勘違いしたコレクターがこぞって買

い求めるようになり、これはしめた、不況打破の暁光到

来とばかりに、数多のギャラリーやブローカーが我先に

と群がったおかげで本当にトレンドになってしまい、あ

げくに本格派の老舗画廊までもがいつの間に変節して、

壁面を恥ずかしげもなく少女漫画もどきのイラストで飾

る始末、近年は美大の卒業制作展をギャラリスト(若手

画廊経営者は「画廊主」なんて言葉は使わないのだ)が

こまめに尋ね、売れそうなお嬢さんの絵の下に画廊の名

刺を挟んで来たりして、やったぁ~!画廊のオファーが

来たぁ!と舞い上がるうら若き娘さんを青田買い、まだ

作風も出来てないような未熟な若者の個展を、無責任に

開催したりするのが流行りらしい。それを、同年輩の若

者が買い求めるというのならまだ分る。ところがそんな

絵を率先して購入するのは、長年の経験を積んだ熟年コ

レクターだったりするのだから恐れ入る。まあ人それぞ

れ、誰が何をコレクションしようと勝手だと言われれば

それまでだが、人間が年齢を加えるという事は、その年

齢にしか味わえないものを解するという事でもあるだろ

う。ならば50代には50代にしか出来ないコレクショ

ンが、60代なら60代にしか成し得ないコレクション

が、そして70代ともなれば20や30程度の若者には

到底手の届かないような、奥深いコレクションが有って

然るべきだ、それが年齢を積んだが故の見識というもの

ではないか。何を少女漫画にうつつを抜かし、迎合する

必要やある。おかげで今、本当に良い仕事をしている中

堅作家がその割を食わされて、有り得べからざる不遇に

甘んじているのが現状ではないか──と、ここまで書い

て来て、何だか自分が口うるさい爺さんに思えて来た。

本人はただ、真っ当な意見を述べているだけのつもりな

のだが、それが偏屈な年寄りのぼやきにしか聞えないほ

ど、世間は若者の弄ぶ幼稚な似非文化に媚びへつらい、

その鼻の下を浅薄に伸ばし切っているのだ。

 極端な物言いになるが、電子ブックなんて冗談じゃな

い、俺は生涯「紙」の本しか読まない、という熟年が居

たって良いのではないか。売り払ってしまった百科事典

をもう一度買い戻そう、今こそあの作家の文学全集を買

い揃えよう、スマホもカーナビも全部いらない、そんな

ものに頼っていたら馬鹿になってしまうだけだから、今

一度自分の「足」で調べ、自分の「頭」で考えよう。そ

して若者に尻尾を振るのは已めて、止めどなく白痴化す

る現今の文化に、はっきりと異を唱えよう。それでは若

者との間に、溝が出来てしまう?──結構じゃないか、

断絶してこそ世代だ。その世代なりの信条が明確に有れ

ば、断絶はむしろ有って当然だ、そう言い切れる熟年こ

そが今の時代、本当に必要とされる存在ではないのか、

私は本気でそう思っている。詮ずる所、否定すべきは若

者ではない、若者の文化をあまりにも無節操に受容して

恥じない私達自身、そのプリンシプル(信条)を失った

精神こそ、まずは否定すべき要ではないだろうか。


 近年、立体を制作する若手作家を見かける事が多い。

それはいわゆる「彫刻」という範疇を超えて、アッサン

ブラージュ(立体物によるコラージュ)やレディメイド

(既製品を用いたオブジェ)等の技法を駆使したり、素

材も木材から合成樹脂に到るまで様々という具合、作風

も奇抜さを狙ったものからアニメのフィギュアと見紛う

ものまで幅広く、元々伝統の桎梏も少ない自由な分野で

あった事から、現代アートとしての可能性はまだまだ尽

きないようで、百花繚乱の様相を呈している。中には、

緻密に作られた精巧なおもちゃのような作品もあって、

確かにその精密な手仕事には感心するのだけれど、さて

これの何処が「芸術」なのだろうと何度首をひねってみ

たところで、やっぱり珍奇な高級玩具にしか見えない。

まあ、私の感覚が「古い」と言われればそれまで、でも

「古くて何が悪い」と開き直りつつ周囲を見回してみれ

ば、色々な作家は居るにせよ、総じてどれも「軽い」、

よって精神性も希薄だ、もっとも今の若者にとって「重

厚」や「深淵」といったキーワードは馴染みが薄く、ま

して精神性の希求など論外、むしろ避けるべき概念なの

かも知れないが。思えば「芸術」という言葉は、いつの

間に「アート」という言葉に取って代わられ、今や死語

に等しい。元々同じ意味であったものが「アート」とい

う軽い響きの方だけ一人歩きを始めてしまい、サブカル

チャーもアート、イラストもアート、アニメもアート、

路上のお絵描きパフォーマーもアーティスト、ついでに

Jポップのお嬢さんもアーティスト、仕舞いには学術の

府である筈の大学でさえ、ただのお遊びイベントに何や

ら屁理屈をくっ付けて「アート活動」等と称する始末、

この現状をあらためて見据えれば、かつて芸術を意味し

た「アート」という言葉は、単なる「お遊び」と同義に

なってしまった感がある。芸術とは何か──という問い

は、死に絶えたのだろうか?いや、芸術という表現行為

がこの世に続く限り、それは創造の源泉を成す、永遠の

問いである筈だ。結局の所、芸術家の生み出す数限りな

い「作品」は、その問いへの数限りない「答え」に他な

らないのだから。問いの無い所に、答えなど有るだろう

か。今一度「芸術」の復興を望む。少なくとも私達の世

代は、芸術という言葉を死語にしてはならないと思う。

芸術とは何か──この困難な問いを自らに突き付け、厳

しい自問自答を経ていないものは、やはり「甘い」。そ

こに問いなく、よって答えなきものは、どうしたって空

虚だ。魂なき空っぽなアートが、どうして人の心を打つ

事が出来ようか……失礼、また偉そうな事を長々と書き

連ねてしまった。放っておくとつい話が、いけ好かない

評論家みたいになってしまう。立体に話を戻したい。

 ご存じのように、多岐に亘る立体表現の中で、ブロン

ズ彫刻は最も古い歴史を持つ分野である。本邦にもその

作家は数多いが、団体展の彫刻部門等に出品される旧態

然の作品や、駅前広場に晒されているような裸身像等は

論外として、近年の俄手法など太刀打ち出来ないような

その長い経験則を活かしつつ、しかも以前には無かった

新しい時代性を放つような表現が、果してどれほど有る

のかと問われれば、残念ながらその答えは極めて心もと

ない。先刻あれほど弱年への文化迎合を批判したではな

いか、ならば「アート」でも「お遊び」でもない、これ

が真の「立体芸術」だと言えるものを提示してみよ、若

い世代や若者好きの同世代人、更にはコレクターの恐い

おじ様方にそう詰め寄られ、自ら絶体絶命のピンチを招

きそうだ。恐ろしや、口はわざわいの門とか。しかし私

は俄然開き直って、皆様にこう告げさせて頂こう、私に

は答えが有ります、どうぞ展示会を見に来て下さいと。


 三木俊博さんの個展は、昨年に引き続いて、今回で2

度目となる。その独創的な作風に関しては、昨年の当欄

に書かせて頂いたので繰り返さないが、西欧彫刻の古典

的なフォルムに自在の変容を加えるその手法は、他に全

く類例を見ないものである。思うのだが、ヨーロッパの

古典彫刻にベースを置いた制作は多々有るとしても、三

木さんのように身体ごと古典彫刻の現場に身を置いた人

は、あまり居ないのではないだろうか。30代で渡欧、

イタリアの美術アカデミーに学び、彫刻の都として名高

いあのフィレンツェを拠点に、11年に亘る研鑽を積ま

れたというその経歴は、そのまま作家の彫刻に懸ける、

不抜の信念を物語っている。本場のブロンズ技法を完璧

にマスターした後は、現地の彫刻家や職人と共に、ヨー

ロッパ文化の精神的支柱とも言えるキリスト教会の、聖

像制作を手がけるような事もあったと言う。まさしく本

物のフィレンツェ仕込み、伊達や酔狂で為せる業ではな

い。学校で形だけをなぞるような勉強と違って、実際に

街ごと文化遺産のような地に住んで生活し、そこの空気

をたっぷりと呼吸して、そこの人間にどっぷりと交わっ

た得難い経験は、誰にも真似の出来ない独自の精神風土

を、作家の内奥に築き上げたに違いない。ただ、作家ご

自身は大仰な事は一切語らない。三木さんのイタリア滞

在のお話は、いつも自由闊達な空気に満ち満ちている。

「イタリア語?全く出来なかったよ。だから学校の授業

も、最初は全然分らなかったね。でもだんだん買物ぐら

いは出来るようになって来て、その内に分ったんだ、イ

タリア人の会話は結構シンプルだって事が。話してみる

と何の事はない、実に単純な話ばかりで、難しい事を言

うと『おまえはドイツ人か』って、かえって嫌がられる

始末さ、それからは平気で話せるようになったね。日本

人に比べると、みんなとてものびのびと生きていて、恋

愛もかなり自由だった。もちろんカトリックの国だから

ね、不倫なんてとんでもない。そこでみんな教会へ駆け

込んで、懺悔をする訳さ。懺悔さえすれば何でも赦され

るからね。便利でしょう?アハハハハ」という具合で、

お聞きしているとこちらも、いつの間にイタリアの空気

に染まっている。ちなみに三木さんの住居は築1000

年を軽く越えるアパートだったそうで、しかもそんな建

物は市内に幾らでもあって、現在も市民が普通に暮らし

ているとのお話だった。そんな街を原点として、しかし

本国の誰もが成し得なかった彫刻、人はここに芸術への

或る真摯な「答え」を、必ずや見出す事になるだろう。


                     (15.06.15)