道連れ (2014)      混合技法 / F10
道連れ (2014)      混合技法 / F10

画廊通信 Vol.142             日常の奇跡

 


「大江健三郎、作家自身を語る」に、こんな一文があっ

た──もし作家に、他の人間とは違う才能があるとすると、それは実につまらない偶発事から、自分がその時書

こうとしている小説の、一番根本的なものを創り出す、

そのきっかけを感じ取る能力だと思います。そのきっか

けの有効性を信じて、不安があるにしてもそこへ向けて

どんどん入り込んでしまう。そこからいろんな構想を広

げて書いていく、その能力というものが作家の才能では

ないでしょうか──文中の「作家」を「画家」に、「小

説」を「絵」に置き換えれば、これはそのまま画家の制

作を語る文章になるだろう。何を描いたらいいのか分ら

ない、とはよく耳にする台詞だが、そもそもその人は何

を描くべきかを考える前に、描くべき何かに気が付いて

ないのかも知れない。描くべきものはいつだって目の前

に在るのに、ただ、それを感じ取れないでいるというの

が、おそらくは事の真相なのだ。あるいは、たとえそれ

を感じ取る機会に恵まれたとしても、そのきっかけを信

じて入り込む能動性=勇気を、持てないが故だろうか。


 今回で7回目の個展を迎える榎並さんの制作には、元

より日常に端を発する題材が多く見受けられるのだが、

近年その割合がいよいよ増えつつあるように思われる。

試みに作品のタイトルを振り返ってみると、個展当初の

2009~10年頃は「おおいなるものへ」「聖なるも

の」「喜捨」「聖火」「いのり」「まりあ」「守護」と

いった宗教的なテーマが顕著だったのに対し、ここ1~

2年は「通いなれた道」「いつものところ」「月曜日の

朝」「帰り道」「新しい家族」「一輪の花」「あのネ」

といったような、さして特別でもない日常の一コマを、

温かな目線で捉えたものが多い。今回の案内状に掲載し

た「古い手紙」という新作も、正にその系統に属する作

品だろう。独り立ち止って、手紙に目を落とす男、その

顔は心なしか微笑んでいるようにも見える。彼方には小

さな家が見えて、手紙の白と家の白壁が、印象的に呼応

する。もしかすると男は遠く異郷にあって、手紙を読み

ながら遥かな故郷の家を、彷彿と思い描いているのかも

知れない。背景は温かな赤、今の彼の心の色だろうか。

どことも知れない場所、いつとも知れない時間、しかし

何気ない日常の、いつどこにでもあるような時空。私達

はこの絵に見入る時、こんな記憶にも残らないような日

常の一コマを、かつて確かに体験したという感覚を持つ

だろう。そして、こんなあまりにも当り前のさり気ない

日常にこそ、何か大切なものが滲み出している様を、豊

かな静けさの内に見るだろう。朝のバス停のベンチ、夕

暮れの帰り道、可憐な野の花を手にする女、あのネ…と

母に抱き着く女の子、そんな榎並さんの描き出す世界を

見ていると、少し大仰な言い方をさせてもらえば、以前

のタイトルにあった「大いなるもの」も「聖なるもの」

も、現に私達がこうして暮しを営んでいる、取るに足ら

ない今・ここの日常にあって、いつでも触れ得るではな

いかという作家の声が、画面より知らず知らずに響いて

来るようだ。そう考えると宗教性も日常性も、作家の中

では同じ事なのだろう。たぶん、その目線は天から地へ

と降りても、作家の根幹は何一つ変ってはいないのだ。


 上記のような榎並さんのスタンスを、今回の案内状に

はいささか格好を付けて「日常に真理を見る」云々と書

かせて頂いたが、それに関連したある印象的な出来事を

以前この画廊通信に記した事があった。以下は5年前第

2回展の時に書かせて頂いた、当欄からの抜粋である。


 昨年の夏、初めての個展を開催させて頂いた折、会期

も終了間近となったある夕暮れに、Kさんご夫妻がにこ

やかに見えられた。これで会期3度目のご来店である。

正直に申し上げて、3回も見に来て頂いたという事はも

しや……というあらぬ期待も内心なくはなかったが、何

しろKさんには前回の展示会で他の作品をお世話になっ

たばかり、更なるお薦めは出来かねる状況にあった。そ

んな訳で、この日も熱心にご覧頂くご夫妻を前に「どう

ですか?」というあの一言を、果して出すべきか出さざ

るべきか、私は人知れない葛藤を胸中に繰り広げていた

のだが、やがて聞えて来たご主人の麗しい言葉で、図ら

ずも私の境涯は一変した。いわく「もう一度見て良いと

思ったら、買いたいと思ってたんです」、こんな時の恩

寵のような一言は、どんな名言よりも私を感動させる。

この日Kさんに、私は一枚の母子像をご成約頂いた。タ

イトルは「聖なるもの」、どことなく嬰児(みどりご)

を抱く聖母を彷彿とさせる、深い祈りを湛えた作品であ

る。よく覚えてないのだが、私はこの時「きっと画家は

祈りの象徴として、この聖母を描いたのでしょうね」と

か何とか、例の知ったような台詞を吐いたのだと思う。

それに対する奥様の言葉を、私は今も鮮明に思い出す。

「この絵は、聖母の姿というよりは、どこにでもある日

常を描いているのだと思います。聖なるものは、母が子

をかいなに抱くような、何気ない日々の暮らしの中にあ

るのだという事を、私はこの絵に教えてもらいました」

私はこの時「やられた」と思った。おそらく、この仕事

でしか味わえないと思われる醍醐味の一つは、この「や

られた」という快感である。思えば私などよりも、遥か

に絵を深く見られているお客様の言葉に、教えられ励ま

されつつ、曲がりなりにも私はここまで歩いて来られた

ような気がする。そう、確かに絵は語っていた、聖なる

ものは子をいだく母の手にこそ、宿るものである事を。


 冒頭に引用した一文の中で、大江健三郎は「日常のつ

まらない偶発事から作品の根本的なものを見出す、その

きっかけを感じ取る能力こそ、小説家の才能なのだ」と

語った後で、もう一つ重要な能力を挙げている。いわく

「そのきっかけの有効性を信じて、不安があってもそこ

へ向けてどんどん入り込み、色んな構想を広げてゆく能

力」、この言葉を「絵」に当てはめれば、一体どういう

事になるのだろう──という事を考えた時、榎並さんは

とうにその能力をそのまま自分の手法とされて、制作に

当って来たという事実に思い到る。というよりは榎並さ

んの場合、何らかの「きっかけ」さえ無いのかも知れな

い。むしろ不安と共にそこへどんどん入り込み、それに

よって何らかの「きっかけ」を逆に見出すのである。こ

れも前述した画廊通信からの抜粋になるが、その制作方

法についての記述を、今一度ここに取り上げてみたい。


 榎並さんは、これから作品を描こうとしている真っさ

らな画面を前にした時、さて如何なる絵がそこに描かれ

る事になるのか、自分でも全く分らないままに作業を始

めると言う。画家のホームページに「制作過程」という

項目があって、文字通り幾つかの制作過程を公開されて

いるのだが、完成への経過を写真と共に追う事が出来る

ので、私のような絵を描けない者が見ても面白い。試み

に作業の一部を書き出してみると──パネルに綿布を水

張り→古布・インド綿等を貼り込む→カーマイン(赤系

の色)ジェッソで地塗り→黄土をかける→その上に壁土

を塗る→更にカーマインジェッソを重ねて→壁土に墨と

ベンガラを混合し、褐色にして塗り込む→その上に金泥

をかける→墨にベンガラを混ぜて染み込ませる→壁土を

溶いて泥状にしたものをかける→それをまた赤に還元し

→更に金泥をかけて、何が出て来るかを待ち構える──

といった具合である。ちなみにこの作業はまだまだ続い

て、傍から見ているといつになっても絵が見えて来ない

のだが、実はこれこそが、榎並さんにとっての「描く」

という行為なのだ。画家は自らも語る通り、一連のいつ

終るとも知れない作業を通して、何かの顕現を手探りで

「待って」いるのである。既に見えている「答え」を探

すのではなく、問いかけて、問いかけて、ひたすらに問

い続ける行為の中から、いつか見えて来るであろう何か

を待つ。やがてその果てしない作業は、いつしか時の厚

みとなって画面に堆積し、あの風化したロマネスクの会

堂を思わせるような、えも言われぬマチエールを造り出

す。そして私達は見る事になるだろう、そこにゆくりな

くも浮び上がった修道士を、放浪者を、旅芸人を、そし

て楽師達を。彼らは皆いつの間に画面に降り立ち、画家

のもとを訪れた者達であり、換言すれば、誰が現れるの

か、どこへ向うのかも分らないままに歩みゆく道程の中

で、画家は図らずも彼らとその生きる地を、遂に手探り

の内に見つけたのだ。榎並さんの制作は、時に「待つ」

とは能動であり、何処へたどり着くかも分らぬ「歩み」

に他ならない事を、無言の内に教えてくれるのである。


 画家のお話によると近年の制作では、かなりの時間を

費やしても今一つ絵が見えて来ない時など、布のコラー

ジュや絵具の堆積した画面に水をかけてふやかし、やに

わにバリバリと荒っぽく引き剝がしたあげく、そこから

また新たに出直しをされたりすると言う。決して最近巷

を賑わす、高年性突発衝動による暴行ではない。しばし

ば創作上の思いがけない成果は、一か八かの思い切った

破壊から生れ出るものである事を、優れた創作家ほど知

る故なのだろう。そんな作業の中でふっと浮び上がった

「きっかけ」を、画家は逃さない。かつてそのきっかけ

は、往々にして上述の修道士や旅芸人の形へと発展し、

今でも彼等は画家の主要なモチーフではあるのだが、近

年はそれらに併行しつつ「朝のバス停のベンチ、夕暮れ

の帰り道、可憐な野の花を手にする女、あのネ…と母に

抱き着く女の子」云々といった、ごく日常的な形を取る

事も多い。これは前述した通りで、きっと作家の内奥で

は、中世の放浪者も現代の定住者も、時空を超えて何一

つ変らない同じ者なのだろう。と言うよりは、ごく通常

に定住する外面の陰で、独り内面を放浪し続ける者だけ

が、いつしか「芸術家」と呼ばれる種族になるのだ。ご

自身のブログによく写真等をアップされているので、榎

並さんの過ごす日々の風景は、私達にとっていつしか馴

染みあるものになっているが、そこからそこはかとなく

浮び上がる人間は、やはり定住者のそれではない。制作

をして、庭仕事に励み、読書や音楽に浸り、時に自身も

チェロを奏でる。展示会を覗き、付近を散策し、空を見

上げ、想いを馳せる、場所は確かに日常の中ではあるけ

れど、心は縦横に時空を駆け巡る、その放浪の端々が制

作する画面の中に、ある日奇跡のように舞い降りるのだ

ろう。先の小説家の言う「日常から根本を見出す、その

きっかけを感じ取る能力」とは、正にその日常の来し方

の中でこそ磨かれるのであれば、日常を放浪する者はよ

り多くの出会いを感じ取り、絵の中へと顕現されるポテ

ンシャルを育む。画家はいつも自身を旅する者である。


 世界をより良く見て、より良く聞けば、いつか世界は

奇跡を語るのだろう。誰にとっても世界とは今・ここに

他ならず、ならばそこかしこに奇跡は潜むだろうに、哀

しいかな誰もがそれに気が付かない。ただ数少ない芸術

家だけは、その微かに響く声を捉えるのだ。世界の語る

奇跡を、今・ここに潜んだ目を瞠るような奇跡を、画家

は確かな声として聞き、ある形として浮び上がらせる。

思えばそんな芸術を通して、私達も日常の奇跡に触れ得

ると言う事実こそ、正に至上の奇跡なのかも知れない。


                     (15.07.08)