星降る夜         混合技法 / 3F
星降る夜         混合技法 / 3F

画廊通信 Vol.147          地下室のサーカス

 

 

 いつの間にこんなに時が経ってしまったのだろうと、我ながら信じられない思いなのだが、例年の年末を飾る舟山さんの個展は、今年で遂に10回目となった。この機会に、今までの企画をざっと振り返ってみると……。


第1回 - 2004年 「アンダルシアのサーカス」

第2回 - 2005年 「聖夜の無言劇(パントマイム)」

第3回 - 2006年 「冬の追憶」

第4回 - 2007年 「月影の謝肉祭(カーニバル)」

第5回 - 2008年 「哀しき花の唄う夜(よ)に」

第6回 - 2010年 「メランコリア」

第7回 - 2011年 「クリスマス・イブの夢」

第8回 - 2013年 「星夜の憂愁」

第9回 - 2014年 「讃美歌の流れる夜に」

第10回 - 2015年 「憂える花に寄せて」


 こうして書き出してみると、別に自画自讃する訳では

ないが、展示会のタイトルを見ているだけで、舟山一男

という画家のイメージが彷彿と浮び上がる。もっとも考

えてみれば、使っている単語は舟山さんの作品タイトル

から拝借したものが多い訳だから、それを並べれば舟山

さんのカラーが浮び上がって来るのは、当然と言えば当

然なのだけれど。途中に抜けている年が2年ほどあるの

は、2009年は他の画廊との企画が重なってしまった

ため、2012年は舟山さんの体調が優れなかったため

である。それでも12年間で10回と云う個展を重ねる

事が出来たのは、常にレベルの高い新作の数々を、惜し

げもなく提供してくれた作家のおかげであると同時に、

それを悩みながらも私財を投げ打って評価してくれた、

真摯にして勇敢なファンの皆様のおかげである。だから

それぞれの展示会タイトルを見ていると、ああ、あの時

にはこんな作品があって、それをAさんに買って頂いた

なあとか、Bさんが検討中だったあの作品は、その後に

来店されたCさんに即決されてしまい、Bさんとても悔

しそうだったなあとか、その時々に出会う事となったあ

れこれのドラマが、未だ鮮明に思い返されるのである。

 以下は9年前、2006年の個展に際してこの画廊通

信に書いた話なのだが、今でもクリスマスの時分になる

とふっと思い出して、その度に寒々と暮れゆこうとして

いる年末の殺伐とした現実から、一瞬にして温かな暖炉

の前にテレポートしたような気になるので、私事で誠に

勝手ながら、再度ここにご紹介させて頂きたいと思う。


 昨年の個展でお買上げに与った、あるお客様の話であ

る。30代の青年で仮にKさんと呼ばせて頂くが、Kさ

んは更にその前年、つまりは初回の舟山一男展の時に、

初めて当店へお越し頂いた方であった。舟山作品とはこ

の時が初めての出会いだったらしく「これは凄い、絵を

買った事はないが『欲しい』と思ったのは初めてです」

と大変に感激されていたが、「この分では買ってしまい

そうなので、また出直します」と、誠に賢明なる判断を

されてこの日は帰られた。それから10日ほどを経て、

展示会の最終日に再びご来店となったが、先日の作品に

は既に赤丸が付いていて「売れてしまったんですね」と

無念やる方ない風情、「実はあれからずっと、この絵が

頭から離れませんでした。どのみち自分には無理な金額

なので、諦めるしかなかったんですが……」と、肩を落

として悄然とされていた。その後幾度か他の個展にも見

えられたが、「やはり舟山さん以上の絵にはなかなか出

会えない。無理をしてでも買っておけば良かった」と、

後悔ひとしおの体である。そして昨年の12月、待望の

第2回展が開幕となったが、Kさんは仕事が立て込んで

いたのだろう、なかなか時間を取れないご様子で、クリ

スマスを過ぎてもまだお見えにならない。そうこうして

いる内に展示会は早くも最終日を迎え、何ぶんこの頃は

一年で最も日の短い時節、早々に日も落ちてそろそろ閉

幕かという時分になって、フラリと画廊に見えられた。

 早速Kさんはザッと展示を見て、ある作品に目を留め

られたようである。「修道院暮色」と銘打たれた風景画

で、夕靄に煙る異国の街を印象的に描き出した、陰翳に

富んだ小品であった。顧みれば開催の期間中、3週間も

の長きに亘って展示していたにも拘わらず、何故にこう

して残っているのかと、私自身不思議に思っていた作品

だったので、最後の最後に共感してくれる人が現れて、

何だか個人的にも嬉しいのである。「いいでしょう!」

「いや~、いいですね」と、二人で盛り上がった後にK

さんの言うには、「僕はこの絵を戴きたい。ただウチに

はオヤジが居て、こいつが曲者である。芸術に対して一

家言あるため、後でゴチャゴチャ批判されたりすると、

僕としても不愉快だ。よってオヤジにも、買う前に一応

見せておきたい。ついては明後日、オヤジを連れてもう

一度伺いたいと思うので、それまで絵を取り置いてはも

らえまいか」「分りました、お待ちしましょう」という

成行きになり、年末の諸雑務でバタバタと慌ただしく走

り回っている内、あっという間に翌々日の夜となった。

 午後7時、約束の時間ぴったりにKさんと現れたお父

さんは、物静かな威厳をそこはかとなく湛えつつ、背筋

のスッと伸びた初老の紳士で、なるほど「手ごわい」と

いう印象である。当店も翌日には仕事納めの時節柄、作

品や箱の類いが諸処に立て掛けてあったりして、何やら

雑然と落ち着かない店内を、紳士は厳しい表情で終始無

言のままに、作品をじっくりとご鑑賞の様子であった。

それからしばらくは沈黙の時間が続いたが、何しろ一言

のご発言もないし、一貫して渋い顔を崩されないので、

「もしや、審美眼に適わなかったかな」と、不吉な予感

が暗雲の如く脳裏を覆い始めた頃、おもむろに私の方に

向き直ったかと思いきや、ニッと相好を崩しておっしゃ

るには「この絵は売れないでしょう」、何だか嬉しそう

なのである。「いえ、まあ何と申し上げたら良いのか、

いわゆるデパート等でよく見かけるような、人気作家や

流行作家とは違いますからね。確かにそうポンポンと、

右から左に売れるものではありません。しかし、本格絵

画の世界では正に知る人ぞ知る個性派作家であり、全国

的にも熱烈なファンを持つ画家でして……」と、しどろ

もどろの返答を聞いてか聞かずか、まだ話の終らない内

に「全然売ろうと思ってないもんね、この絵は。ワハ、

ワハハハハハハハ」と、紳士、突如豪快に大笑された。

 呆気にとられている私を横に、直後、キッと真顔に戻

られてのたまわく「売れるように描こうとは、一切考え

てない所が良い。よってこの絵は『商売』ではなく『芸

術』である。久々に本物の絵を見せてもらった」「オヤ

ジ、こんな絵好きなんだ」と、Kさんは意想外の風であ

る。まさかこんなに共感してもらえるとは、当のKさん

も考えていなかったらしい。「じゃ、これ戴こうよ」と

の一言、私もどんなに嬉しかった事か。この日Kさんは

即金で支払いをしてくれたのだが、初めから代金を用意

されていた所を見ると、たとえ反対があったにしても、

買うつもりで来てくれたのだろう。作品を大事そうに抱

えて画廊を出るお二人の後ろ姿を見送りながら、一枚の

絵に懸けるお客様のひたむきな情熱に、改めて私は心打

たれる思いであった。何の理屈もいらない、絵を愛する

とはこういう事である。年末も差し迫る木枯しの夜、K

さん親子にお買い上げ頂いた一枚は、私にとってこの年

を締めくくる、最後にして最高のプレゼントとなった。


 以上、歳月の流れた今でも、私の忘れ得ぬ思い出であ

る。さて気が付いてみると、もはや紙面は残り少ない。

本来は記念すべき10回展なのだから、たまには本格的

に「舟山一男論」でもぶち上げれば宜しいのだろうが、

「○○論」というような大層な論文はどうも舟山さんに

は似合わないし、ご本人も嫌がるだろうから已める事に

した。むろん、論考を構築するだけの頭脳を持ち合せて

いないというのも一つの真相ではあるのだが、決して弁

解をする訳ではなく、その作品自体が論考を拒否するの

である。と言うよりは、舟山さんの絵を前にした時に、

机上のロジックはどうにも虚しいと言うべきか、舟山さ

んの描き出す独特の世界は、延いては舟山さんの持つオ

リジナリティーは、一見ロマンティシズムに溢れる繊細

な外貌の陰に、そんな「言葉」を無効にする強靭な力を

隠し持っている。そして、実はそれこそが舟山一男とい

う画家の、根幹を成す特性である事に思い当った時、そ

こで考察の言葉は途切れ、舟山一男論は終るのである。

 ちなみに10回も個展を開催して来たのだから、どん

なに頭が優れないにしたって、特徴の幾つか位は直ぐに

でも挙げられるのだ。せっかくだからこの際に記してお

くと、まずは一貫して制作の中心を成す「サーカス」と

いうテーマ、殊に幾多の表情を見せる特異な人物表現、

中でもその「顔」を通して描かれる有りと有る情感、更

に突き詰めて言うのなら、特に「哀感」を様々に描き分

ける無限のヴァリエーション、思うにこれほど「顔」を

偏愛し「顔」を希求し、多少大仰な言い方が許されるの

なら、「顔」に人間という精神的存在の全てを描き込ん

で来た画家は、東西に類を見ないのではないだろうか。

他にも無駄な大作を描かない事、むしろ通常「小品」と

呼ばれるサイズこそが制作のメインである事、そこに豊

かな趣を醸す独特のマチエールで、あのサーカス小屋の

人間模様が密やかに描かれた時、その小品は正に大作に

同等する存在感を、音もなく放ち始めるだろう事……。

こうして特徴を挙げているとまだまだ語れそうだが、た

とえどんなに言葉を尽してみた所で、所詮言葉は脳中の

「観念」であり、絵画は目前の「事実」である。まして

その印象が強ければ、それは「事件」とさえ言える。真

に力ある芸術は、それが美術であれ音楽であれ文学であ

れ、有無を言わせぬ事件性を孕む。その前で言葉による

ロジックは、徹底して無力である。思えば私にとって舟

山作品との出会いは、正に「事件」そのものであった。


 京橋のギャラリー椿と言えば、界隈でも有数の面積を

誇る画廊だが、私が初めて舟山一男展に伺った当時は、

地下1階で営業する通常規模の画廊だった。ただ、今ほ

どの広さと明るさは無い代りに、地下ならではの独特の

雰囲気があって、階段を降りてドアを開けたその刹那、

忽然として私は舟山さんの別世界に立っていた。薄暗い

空間にひっそりと並んだその作品群を見た時の衝撃は、

今でも忘れられない。概ねは0号から10号以下の小品

で、やはりサーカスを題材とした人物像がメインだった

が、沈黙の中でその物言わぬ男女達は、何と多くの想い

を雄弁に放射していた事か。仄暗い窓の中で演じられる

果てのないパントマイムは、時に戦慄的ですらあった。

 出来るなら私もいつの日か、誰知らぬ地下の画廊で、

舟山さんの個展を開いてみたい。扉を開けるとそこには

静謐の闇が満ちて、距離を置いて並んだ小さな額絵だけ

が、壁に落ちるスポット光に淡く浮び上がる。憂えるア

ルルカンがいる、物想う踊り子がいる、綱渡りの少年が

いて、幕間に憩う少女がいる、そして天幕の下に渦巻く

有りと有る哀歓が、止められた時の中に佇む。きっと絵

の前に立つ人は、いつかその小さな窓の奥へと分け入っ

て、異郷のサーカス小屋で絵筆を握る、澄んだ眼の詩人

に出会うだろう。やがて彼の声なき朗唱が、密やかに聞

えて来たとしたら、それが私の「舟山一男論」である。


                    (15.11.20)