秋映え      混合技法 / 41x27cm
秋映え      混合技法 / 41x27cm

画廊通信 Vol.150              猫型所懐

 

 

 中西さんの個展は毎年3月頃にお願いしているので、展示会を終えて作品をお返しに上がる時節になると、画家がアトリエを構える鎌倉の山々は、諸処に山桜の白い花々がその清楚な顔を覗かせる、穏やかな春景色の郷となる。ところが昨年は、こちらの勝手な都合で会期をひと月ほど早めてしまったものだから、展示会を終えて作品の返却にお伺いしたのはまだ2月末という辺り、その時節ではやはり春には一足早く、よって無念にも山桜を望む事は出来なかった。その代わりと言っては何だが、アトリエにドラえもんが居た。いつもお茶を戴く部屋の畳の上に、かなり大きな図体で鎮座していて、しかも内側に照明が仕組まれてあるらしく、全体がほんのりと柔かな明かりを放っている。寂然たる山房の茶室に、チープに光るドラえもんという、その不条理の妙味が分らな

い訳ではないが、しかし、どうも中西さんのイメージと

は合わないように思える。別に何処にどう居ようとそれ

はドラえもんの自由だし、あれこれと意見される筋合い

もないのだろうけれど、ちょうど中西さんがネスカフェ

のコーヒーマシンを下げて見えられたので、その意外な

組み合わせにもまた感嘆しつつ、「このドラえもんは、

いったいどうしたのですか?」と正直にお尋ねしてみた

ところ、「画廊通信がだんだん行き詰まって来て、この

ところ山口さんも大変なようだから、ちょっと話題を提

供してあげようかと思って」と、ニヤニヤされている。

ご自分のイメージをそのように壊してまで、私のような

者に協力したいという画家の温かなご好意に心打たれ、

「有り難うございます、来年はドラえもんで行きます」

と、つい宣言してしまったものだから、こう見えて私は

以外と律儀な方で、よって人から戴いたご恩と恨みは決

して忘れないたちなので、こうして昨年の約束を実直に

守るべく、ドラえもんとの邂逅から話を起している訳で

ある。中西さんの快く予想を裏切る言動には、いつも舌

を巻く。やっと追い付いたかと思うと、もう何歩も先に

居る。私はその後を喘ぎながら追いかけ、その豊かな芸

術と思考に瞠目しつつ、陰ながら私淑するのみである。

 

 ドラえもんの事はよく知らない。ウチには知的障害の

娘が居て、もう既に30を超えるのだが、未だに飽かず

「おかあさんといっしょ」ばかり観ている。その娘も、

ついぞドラえもんには一かけらの興味も示さなかった。

何故かは、教えてくれないので分らない。よって子供が

有りながらこの歳になるまで、ドラえもんに親しむ事が

なかったものだから、私の場合、ドラえもん的知見には

甚だ欠ける事をご了承願いたい。その上で貧弱な考察を

申し上げれば、現在猫も(別にシャレではない)杓子も

愛用している「スマホ」と呼ばれる機器は、正に現代の

ドラえもんだと思う。あるいは、ドラえもんが最も重要

な機能とする「四次元ポケット」に類比させた方が、よ

り正確と言えるだろうか。ご存じのように、ドラえもん

と共に主人公として活躍するのび太君は、優しいけれど

気が弱く、何をやっても様にならず、困った事が起きる

と直ぐにドラえもんに泣き付く。ドラえもんはその依存

的な性格を叱咤しつつも、結局は「四次元ポケット」と

呼ばれる腹部の特殊装置から、未来の便利な道具を次々

と引っ張り出しては、のび太君を自力で問題を解決させ

る事なく助けてしまい、夢や願望も苦労する事なく叶え

てあげてしまう。時折それが行き過ぎて、何らかのしっ

ぺ返しを食らうというのが、よく知られた物語の定番ら

しいが、前述のスマホはその四次元ポケットに、いよい

よ近付いてはいないだろうか。スマホの機能として作成

されている数限りないアプリケーションは、さながら四

次元ポケットから取り出される「ひみつ道具」の数々に

類比されるだろう。周知のようにドラえもんは、のび太

君の子孫が未来から派遣した猫型ロボットとの事だが、

その連載の開始が1969年と有ったから、もうそろそ

ろ50年になんなんとしているという事は、考えてみれ

ば時の経過と共に、ドラえもんの居た未来に徐々に近付

いている訳である。ならばそのいよいよ際立つ類似も、

なるほどと腑に落ちるのだけれど、加えてテレビ等で盛

んに放映されるスマホのCMを観ていると、それを使う

側である現代の人々(特に日本人)も、何とまあ揃いも

揃って「のび太君化」に拍車を掛けている事か。このま

まゆけば老いも若きも、いずれ全ての人が「のび太君」

になってしまうに違いない。道が分らないと泣きつけば

懇切丁寧に教えてくれる、いい店が知りたいと呟いただ

けで沢山の候補を羅列してくれる、誰が何処に居るかを

知りたければGPS衛星に探し出してもらえる、音楽が

聞きたくなったら古今東西世界中の音楽を直ちに演奏し

てくれる、鍵を掛け忘れたら遠隔操作で施錠してくれる

等々、数え切れない程のアプリケーションが私達の生活

を豊かにし、同時に私達の知能は思考の不要によって限

りなく低下の一途を辿り、その性質は様々な面倒を代行

してもらう事によっていよいよものぐさな懈怠へと堕す

だろう。こう考えてゆくと現代のドラえもんは、昔の素

朴な時代のドラえもんのように、単純に夢と希望をもた

らしてくれる存在とは言えないようである。話題がドラ

えもんなのだから、せめて明るく楽しく行こうと思った

のだが、考えるほどに思惑からは逸れて、話はマイナス

の予測へと向わざるを得ない。結局テクノロジーが豊か

になればなるほど、それを享受する側の払うべき代償も

増え続け、いずれ私達はその更なる報復を受ける事にな

るだろう、その昔ひみつ道具に頼り過ぎたのび太君が、

必然的に受ける事となった手痛いしっぺ返しのように。

 

 さて、この急勾配のスロープを滑り落ちてゆくが如き

文明の「ドラえもん化」と、それを安易に享受する側の

とどまる事を知らない「のび太君化」から、現に今この

時も、最も遠い場所に有り続けている分野がある。そこ

にはこの時代において、正に奇跡的と言ってもいいぐら

いに、ドラえもんの入り込む余地は無い。言うまでもな

くそれは、当のドラえもんの居たアトリエの持ち主が、

長年にわたってそこで日々を生き続け、人生を懸けて歩

み続けて来られた分野である。どうせ「人生を懸けて」

などと大仰な言い方をすると、中西さんに「それは何処

に懸けるのかな?」などと揶揄されるのが落ちだから、

これ以上は言葉を慎むけれど、本当の事なのだから仕方

がない。それはさておき、本質的にこの「美術」という

分野だけは、その思考においても制作においても未だ小

気味がいいほどに手作業のままで、感じるのも自分、考

えるのも自分、それを基に表現するのも自分、要は代行

が全く不能な領域の中で、あくまでも「自分」を主体に

展開しゆく分野と言える。それは何も創り手の側だけで

はなく、私達受け手の側にしても同様で、鑑賞にしろ評

価にしろその全てを取り仕切って判定を下すのは、他の

誰でもない「自分」の眼だけ、そこに代行者は居ない。

思うにそれは、このドラえもんとのび太君ばかりがはび

こる世の中で、なんと清々しく気持ちの良い事だろう。

 こうして話は美術に到り、いよいよ中西さんへと進展

する訳だが、ドラえもんから中西さんに辿り着くのに、

ほぼ2ページを費やしてしまった。元より物事をまとめ

る能力に甚だしく欠けるので、これはもうご容赦頂く他

ないが、残り少ない誌面で中西さんを語るに当り、まず

一点述べなければと思う事は、その表現者としての在り

方である。芸術においては如何なる代行もない、全ては

自分であると上述したけれど、中西さんの場合その自分

の在り方が、通常とは大きく異なるのである。自己表現

とは、画家であれば至極当然の行為に思えるが、言うは

易く行うは難しとはこの事で、誰だって自分を飾りたい

ものだから、自己表現とは言いつつも、実は単なる自己

主張・自己顕示の域を出ないものが多く、やがてそれは

自己という狭隘な領域から、逃れられない桎梏を形作っ

てしまう。中西和という画家は、そのような自己への固

執や拘泥から、奇麗さっぱりと脱け出てしまった作家で

ある。自己からさえ自由なその在り方を、以前この欄に

書いた事があったので、今一度ここに引用してみたい。

 

 中西さんは油絵を嚆矢として、西洋は元より東洋から

本邦に到るまで、古今東西にわたる有りと有る美術を、

幅広く研究されて来た人である。画材・技法・様式・理

論等々、あらゆる角度から研鑽を積まれた筈だが、その

果てにたぶん何を標榜する事もなく、手ぶらで清々と立

ち戻られたのだと思う。その心の内を思い量れば、それ

は個性という名の下に作為を競合する、近代西洋の概念

を豁然と超えて、ただあるがままに広がる、無為の境涯

だったのではないか。だからそこには「どんな絵を描こ

う」「どのように描こう」というような思惑が、既にな

い。畢竟それは中西さんにとって、個性を表出せんがた

めの迷いに過ぎないのだろうから。花は花の如く、実は

実の如く、ただ純粋に描くという当り前の行為を、以降

画家は淡々と貫いて来た。あるがままに描かれた絵の凄

さというものを、その作品は無言の内に物語っている。  

 

 中西さんの描くモチーフは、それが野菜であれ果実で

あれ何であれ、常に静かな尊厳を湛えている。声高に主

張する事さらさらなく、むしろ密やかにして寡黙な様相

であるのに、それは何故かしらある種の尊さを宿す。例

えば大根やウドといった身近な野菜を、中西さんは好ん

で題材に取り上げるのだが、画家の筆でそれが限られた

画面の中に、しごく無為なたたずまいで置かれた刹那、

ごくありふれて気にも留めなかった食材は、どこか尊い

気韻をしんしんと放ち始める。と言うよりは、大根やウ

ドに染み付いてしまった「食材」という「意味」を、中

西さんの筆はものの見事に消し去り、見る者に「虚心の

眼」をうながす。だから作品を前にする人は、描かれた

モチーフをまるで初めて目にしたかのように、新鮮な眼

差しでその絵と向き合う事になる。そして人は気が付く

だろう、意味という衣をはいでただ虚心に物を見つめた

時、今までは単なる食材でしかなかった見慣れた野菜達

が、実はいかに美しく尊い存在であったかという事に。

 

 自我の桎梏を離れる──と聞くと、何やら哲学的で難

解な響きがあるが、つまりはそういう事だと思う。自我

や個性を云々する前に、まずは何のこだわりも持たずに

世界と向き合えば、絵はこのように描けるのだろう。目

前の存在にただ眼を見張り、まるで初めて目にした時の

ように描き出す、それが本当に出来た時、きっと絵はこ

んなにも清々と澄み渡るものなのだ。最もシンプルにし

て、しかしそれ故に、最も困難な事なのだろうけれど。

 先日の打ち合せの中で、案内状に載せる作品はこのと

ころ渋い趣の作品が続いたので、今回は出来れば春めい

た明るい作品を……と、中西さんにお願いをしたら、快

くお引き受け頂いた。私はみずみずしい新緑のようなイ

メージを脳裏に描きつつ、どんな作品が来るだろうと楽

しみに待っていたのだが、そこに届いたのが今回の案内

状の作品である。一瞬私は絶句した。そして、私の月並

みな予想など軽々と裏切るその大胆な選択に、唸るほど

感心した。こう来なくちゃいけない、これだから芸術は

面白い。という訳で、昨年のドラえもんが今年は招き猫

へと変身を遂げ、皆様のお越しをお待ちする運びとなっ

た。気が付けば厳冬も、いつしか緩み出す時節である。

 

                    (16.02.11)