庭そうじ          混成技法 / SM
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画廊通信 Vol.155         「表現」という事

 

 

 8年ほど前に「ピカソの世紀」という1000頁近い大部の書が発刊され、大変に読み応えのある充実した内容だったので、この欄にも一部を抜粋させて頂いた事があったが、この本には「キュビスム誕生から変容の時代へ/1881ー1937」という副題が付いていて、要するにピカソ50代半ばまでの評伝であった。という事は、当然その続編も日を置かず出るだろうと楽しみにしていたのだが、待てども一向に上梓の声を聞かないままに時は流れ、いい加減諦めかけていた昨今になってやっと続編が出たので、早速大枚はたいて買って来た次第である。後編は「ゲルニカと戦争、そして栄光と孤独/1937-1973」という副題で、つまり50代後半から91歳で亡くなるまでの伝記なのだが、通常は円熟へと向うであろうその年齢において、いよいよ隆盛を極め

る特異な女性遍歴も然る事ながら、相変らずその発言が

独特で面白い。まだ読んでいる最中なのだが、現時点で

見つけた印象的な言葉を、二三ここに抜粋してみたい。

 

「作品を完成させるなんて、とんでもない事だ。完成さ

せるという事は、自分と作品の関係を絶つ事、それを殺

す事、その魂を奪う事に等しい。つまり止め(とどめ)

を刺すのと同じ事、いわゆる“止めの一撃”ってやつさ」

 

独創性とは?──「独創的であろうとして躍起になるの

は、時間の無駄だし、間違った事だ。もし何かを得られ

たとしても、それは自分の好きな事を繰り返しているだ

けに過ぎない。更にそれを先に推し進めるのなら、結局

は自分に出来る事しかしないという事になってしまう」

 

「アイデアは単なる出発点に過ぎない。頭に浮んだアイ

デアを、そのまま画面に定着して終る事は稀だね。何故

なら描き始めるとすぐに、別のアイデアがペンの先から

生まれて来るからだ。一人の男が浮んで来たらそれを描

く、もし一人の女だったらそれを描くという訳さ。自分

の意志とは関係なく、ペンの先から自ずと生れ出て来る

ものの方が、アイデアなんかよりもよほど面白いんだ」

 

 ピカソという画家は、私にとっては未だ最大の謎の一

つで、これだけ絵に関わる仕事をやっていながら、正直

言ってどうもピンと来ない。ピンと来ないのなら仕方が

ないというだけの話で、何も拘泥する必要はないのだけ

れど、でもどういう訳か気になる。自分には「見えてな

い」だけで、きっとそこには何かが有る筈だ、未だそん

な思いを捨て切れないのである。だからと言って、評伝

をどんなに読んでみた所で何も見えて来ない事ぐらい、

自分自身が一番良く分っているのだが、それでもこんな

本が出ればつい買ってしまうという事は、まずはピカソ

という人間そのものに、ある種強烈な魅力を感じている

からだろう。ならば、魅力溢れる人間の描いた絵に魅力

の無い筈が無い、「感じられない」だけなのだ、今一度

しっかと眼を見開いて観てみよう──と思い直し、ため

つすがめつ眺めてみるのだけれど、やっぱりピンと来な

いものは来ない、こうして際限の無い堂々巡りからいつ

までも抜け出られないまま、今に到っている訳である。

 私事はこのぐらいにして、この場にピカソの言葉を幾

つか抜粋させて頂いたのは、そこに榎並さんの方法論と

ダイレクトに重なるものが見えたからである。もう何度

も書かせて頂いた事だが、榎並さんは真っ白なカンヴァ

スを前にこれから描き始めようという時(実際はパネル

に白布を貼って、支持体も自作されている)、そこにど

んな絵が描かれる事になるかは、ご本人も全く分ってい

ないと言う。小説家に例えれば、何のプロットも無いま

まに、まっさらな原稿用紙に向うようなものだ。一般に

私達は画家にしろ小説家にしろあるいは作曲家にしろ、

分野を問わず創作に関わる人達には、もともと頭の中に

構想なり計画なり完成予想図なりが「有る」と思ってい

て、創作とはそれを具体化・現実化する事に他ならない

と、当り前のように信じ込んでいる。というよりは、そ

んな無邪気な思い込みを疑った事もない。従って、アマ

チュア画家のほとんどの人は、実際にそのように絵を描

くだろう。題材をスケッチして、あるいは写真を撮り、

その中からこの場面をこう描こうと決定し、様々なエス

キースを試みた上で下絵を創り上げ、あらかじめ最終的

な完成図を頭に叩き込んでからカンヴァスに向い、後は

その理想に向ってひたすらに邁進するという訳だ。そし

てそのやり方は、決して間違ってはいない。いや、それ

こそが「正しい」絵の描き方なのかも知れない。しかし

ながら一方、世の中には「芸術家」と呼ばれる人達がい

る。往々にしてこの人達は、人が信じ込んでいるものを

「果してそうだろうか」と疑い、人が正しいと思ってい

るマニュアルには人生を懸けて抗う。つまり一般的な見

地(そもそも「一般的な見地」という言葉そのものが、

辞書には無い人達なのだ)から見れば、間違いなく「変

わり者」であり「異端者」である。だから、芸術は精神

修養であり人間を高めるものだと思い込んでいる人が多

いけれど、それは単なる勘違いで、そういう人はそうい

う学問に勤しんだ方がよほど身のためだ。芸術なんても

のに首を突っ込んだが最後、どんどんひねくれてあれよ

あれよという間に見識もねじ曲がり、気が付いたら「変

わり者」と陰口を叩かれるようになるのが落ちだろう。

 失礼、話がそれた。ちなみに短編小説で著名なフラナ

リー・オコナーに、こんな記述があるので参考までに。

 

「その短篇を書き始めた時、義足を付けた博士号取得者

がそこに出て来るなんて、自分でも知りませんでした。

まして、聖書のセールスマンが登場して、その義足を盗

む事になるなんて、その十行前になるまで私にも分らな

かったのです。でもそれが分った時、私はこう思いまし

た。これこそ起こるべくして起こった事だったんだと」

 

 榎並さんは「ブログ」という用語が出来る以前から、

長年に亘ってブログを書いて来られた方で、画家として

は珍しいほどに様々な事を「語る」人である。かく言う

私も、榎並さんと知り合ったのはブログを介してであっ

た。私のような画廊側から見れば、未知の部分を少し残

しておいてくれた方が、謎めいた魅力があって演出もし

易いのだが、「作家である以上は全てをさらけ出さなけ

ればならない」との信条の基にブログを続けて来られた

ので、それはそれで確固とした誇るべき信念であり、私

なぞがあれこれ口を挟む事ではない。むしろその言いた

い事をズケズケと言い放つ率直な物言いが面白く、最近

は絵よりもまずはブログで榎並さんを知ったというファ

ンが散見される程で、これまでにも何度かその発言をこ

の欄でも取り上げて来たのだが、それを読まれた方は既

にご存じの通り、榎並さんは自身の編み出した技法や細

かな制作過程等、通常は後生大事に企業秘密にしておく

ような奥義を、全ていさぎよく公開されてしまう。その

制作に関しても、何度かここに取り上げて来たので繰り

返さないが、要は通常の眼で見た場合、いったいいつに

なったら絵を描くのだろうといぶかしく思うぐらい、そ

の制作には「描画」という行為が出て来ない。様々な布

切れをコラージュし、その上に絵具をたらし込み、時に

墨をかけ流し、壁土を塗り込め、更に金泥をかけて……

と言った具合で、私達が普通にイメージする「筆で絵を

描く」という行為が、待てどもなかなか出て来ないので

ある。しかしそんな飽く事の無い作業を繰り返す中で、

画家はじっくりと自己との対話を続け、何かの「端緒」

が図らずも立ち現れる「時」を待っているのだ。榎並さ

んの制作方法を見ていると、通常は受動的な意味で用い

られる「待つ」という行為が、実は能動的な意味も持ち

得るのだという事が分る。画家は支持体上に様々な変容

を仕掛け、それによって画面に揺さぶりをかけて、時に

は大胆な破壊も加えつつ、いつか何かが立ち現れ、ある

いは何かが降り立つその瞬間に眼を凝らす。それが即ち

榎並さんにとっての「待つ」という行為であり、延いて

は「描く」という行為に他ならない。やがて幾重にも重

なり混じり合った布や絵具や壁土の狭間に、画家の眼は

ゆくりなくも何かを見出し、そのフォルムは白線でなぞ

られてあぶり出される。そして私達は、その画面上にい

つの間にやって来た、どこの民とも知れぬ人々が浮び上

がる様を、目にする事になるだろう。それはむろん、画

家の描き出したものである事に違いはないが、しかし画

家の側から見れば、どこからか奇跡のように降り立った

「客人(まれびと──榎並さんが用いるキーワードの一

つで、異界より来訪する存在を言う)」達なのである。

先述したブログで、榎並さんはこんな事を述べている。

 

「物を描写するだけの絵はいくら続けても、上手くはな

るけれどそれ以上にはなれない。それ以上になる事を、

望んでいないからだ。ならば、反対に物を描写しない絵

というのはどうやって描くのだろう。描かないで描く。

簡単に言ってしまえば、絵の中に絵を見つけるという事

かな。描くのではなく見つけるんだな。他力本願かも知

れないが、自ら進んで描くのではなく、絵が出てくるの

を待つ、見つけるという事。だから私の形や色を見つけ

る訳で、即ち自分自身を見つけるという事になる訳だ」

 

自分にしか出来ない事などない。そう思いたい気持ち

はよく分る。オンリーワンでありたいと思うのと同じ事

だろう。でも、オンリーワンを狙って出来る事などほと

んどない。自分にしかできないことを狙っている限り、

いつまでたってもそれを見つける事は出来ないだろう」

 

 先程のピカソの言葉を思い出して欲しい──「自分の

意志とは関係なく、ペンの先から自ずと生れ出て来るも

のの方が、アイデアなんかよりもよほど面白いんだ」、

ここでピカソの述べている方法論も、やはり自らの意志

を離れたものとの、思いもかけない邂逅に他ならない。

あるいは「独創的であろうとして躍起になるのは、時間

の無駄だし、間違った事だ」といった言葉、これらの二

者の言葉は、それにしても何と良く響き合う事だろう。

 私達が普段何気なく使っている「表現」という言葉、

それを私達は「個性の発露」と解して疑わない。むろん

それは間違いではないが、本当にそれだけの事であるの

なら、表現は個性の母体である自我を超えられず、自分

という狭い枠から遂には出られない事になる。表現とい

う言葉がどのような経緯で成立したのかは知らないが、

表現という行為の持つ本質的な意義を、この言葉は実に

的確に提示していると思う。表現には「表す」という通

常の意味の他に、もう一つ「現れる」という意味も含ま

れている。ピカソの言っている事、榎並さんの語ってい

る事、それはどちらかと言えば後者の方を指している。

表す事によって現れる、現れる事によって表す、つまり

「表」と「現」が分ち難く融合した時こそ、表現は自我

という狭い枠を超えて、作家本人にさえ全く予測も付か

なかった、思いがけない出会いをもたらすのだろう。そ

して、それを成し得る人こそが「芸術家」という名称に

ふさわしい、これは決して禅問答ではない。何故なら榎

並さんの作品を見る時、人は表現という言葉の豊かな両

義を、そこにありありと目撃する事になるだろうから。

 

 

                    (16.07.04)