塔型風車      鉛筆 / 25.0x14.3cm
塔型風車      鉛筆 / 25.0x14.3cm

画廊通信 Vol.156      15時のヴンダーカンマー

 

 

 東京駅を丸の内側に出ると「KITTE」と呼ばれるショッピングモールがあって、ここは日本郵便が経営するモダンな複合施設なのだが、その2階から3階の部分に、場違いな程にひっそりと静まり返った博物館があるのをご存じだろうか。「インターメディアテク」という現代風な名称ではあるけれど、東京大学の博物館が明治期の開学以来蒐集して来た学術標本や研究資料等、その膨大な歴史的遺産を移転して常設展示している施設で、昔ながらの風情すら感じる本格的な博物館である。あるお客様に教えてもらって訪ねたのが最初だったが、当時はその所在があまり知られていなかったせいか、一歩足を踏み入れると東京駅前とは思えない程に深閑と人気がなく、ありがたい事に無料という事もあって、都会の喧噪からいっとき逃れるには格好の穴場であった。最近は段々と知られて来たようで、以前のように広いフロアを独り占めという訳には行かなくなってしまったけれど、

それにしても博物館というものは、何故あのような同じ

「匂い」を湛えているのだろう。あれは長い歴史の堆積

した匂いなのだろうか、ほの暗く澱んだ独特の黴臭さ・

埃臭さが、唯でさえ非日常的な「博物館」という特殊空

間に、ある種不健康な陰気さをかもしつつ、より一層の

奥深い威厳をもたらしている。数え切れない程の骨格標

本、地球史の痕跡である数々の鉱物を収めた陳列棚、旧

い木製の巨大な地球儀や天球儀、錆び付いた遥かな過去

の器械類、ガラス瓶の中でホルマリンに浮ぶ奇妙な動植

物、永遠の時にたたずむ様々な剥製達、ファラオの往古

から眠り続ける朽ち果てた棺桶等、それら博物学の故郷

とも言えるおびただしい展示物に囲まれていると、何や

らそこはかとなく怪しげな愉楽に、心身がいつしか心地

良くむしばまれて往くのだ。「博物館」という施設のか

もし出す、この学術にあるまじき不可思議な背徳の匂い

は、いったい何を源泉とするのかを考えた時、図らずも

私達は数世紀をさかのぼった西欧の、ある奇怪な忘却の

史実に行き当るだろう。「ヴンダーカンマー」である。

 

 現在はその名残りを留めるに過ぎないと思われるが、

「驚異の部屋」と訳されるヴンダーカンマー(独)は、

15世紀から18世紀辺りにかけて隆盛した、世界中の

様々な博物学的珍品を蒐集展示した陳列室である。イタ

リアの諸侯や貴族の間で流行した事に始まり、ドイツ語

圏を経て次第にヨーロッパ全土へと伝播し、後には学者

やブルジョア等の知識階級にも広まったと言われ、動植

物や鉱物・化石等の博物学的な品々を始めとして、天文

学や医学の道具類・考古学的な発掘品や遺物類・異国の

物珍しいアンティークの数々・技術の粋を極めたオート

マタ(自動機械人形)・マニエリスムの細密的な奇想絵

画・ 怪しげな錬金術の文献や資料・ 果ては人魚の鱗や

ユニコーンの角といった眉唾物に到るまで、とにかく分

野を超えたこの世のありとあらゆる珍品が、果てなき欲

望に飽かせたコレクションの対象となった。その異様な

展示風景は、描かれた数々の資料で見る事が出来るが、

その悪趣味を極めたような光景には度肝を抜かれる。四

方の壁から天井や床に到るまで、空間という空間に隙間

なくギッシリと陳列された展示物、その数知れない奇妙

奇天烈な珍品が跋扈する、圧倒的な非日常の異界を見て

いると、そこからは人間の飽くなき蒐集癖がもたらした

狂気が、津々と滲み出して尽きない。おそらくそれは、

この世にまだ闇と怪異が存在した頃の悦楽であり、謎め

く幻想や異聞に胸躍らせた人々の、抑え難いときめきの

証なのだろう。しかし18世紀後半に始まった産業革命

によって、怪奇幻想は科学技術に取って代わり、急激に

押し寄せる「近代」の光で、世界から闇が払拭されるに

伴い、さしものヴンダーカンマーも衰退の一途を辿り、

遂には消滅へと到ったかに見えた。ところがどっこい、

思えばあれだけの膨大なコレクションの、長い星霜を掛

けた気の遠くなるような堆積が、そう易々と蒸発し消滅

する筈がない。実はそれらは科学興隆の華やかな潮流の

陰で、いつしか博物館の収蔵品へと姿を替えて、密やか

に脈々と受け継がれたのである。例せば世界屈指の収蔵

を誇るあの大英博物館も、当時の著名な蒐集家であった

ハンス・スローン卿のヴンダーカンマー・コレクション

をベースにしたものと言われる。斯様にして、今では学

術の府として君臨する厳粛な博物館も、その起源は有り

と有る怪異をこれでもかと集めた、あの狂気の館に有っ

た(ちなみに蒐集を美術品だけに特化したものが美術博

物館、即ち今で言う「美術館」である、蛇足ながら)。

とすれば、前述した博物館特有の謎めいた匂い、それは

かつてのヴンダーカンマーの匂いだ。よってその不可思

議の香りは、現代資本主義のど真ん中・東京駅前にそび

え立つ最新ビルの中階でも、見えざる怪奇幻想のヴェー

ルとなって、今日も密やかに揺らめいているのである。

 

 常々、私のしたり顔で語る知識の大半は「知ったか振

り」である事を公言しているが、こうして滔々と書き連

ねて来た「ヴンダーカンマー」も、元はあるお客様のご

婦人から聞きかじったものである。そのご婦人は、私の

数少ない大江健三郎仲間でもあるのだが、まあそれはさ

ておき、数年前の河内良介展に見えられた折に、会場を

ザッと見渡された直後、俄に煌めくような笑みを浮べて

「ヴンダーカンマーという言葉、知ってますか?これは

正にその世界ですね!」と言われた。初めて耳にするそ

の魅惑的な言葉に、何やら秘教めいた響きを感じた事を

覚えているが、あながち私の直感も間違ってはいなかっ

た模様である。その時は「いずれ、欲しいと思ってます

から」と程なく帰られたのだったが、それから数年を経

た昨年の個展で、やはり美術をこよなく愛するご主人と

共に、アンティークな機械式置時計の上に何故かゾウの

鎮座する、正にヴンダーカンマー的な「ゾウの時間」と

いう作品を買って頂いた。河内芸術とヴンダーカンマー

の出会いには、そんな忘れ得ぬ思い出が伴うのだが、あ

らためて今、あの時のご指摘はまさしく正鵠を射ていた

と思える。試みに、現在手元にある作品画像から、ラン

ダムにその題材を拾ってみよう。船の操舵桿・潜水用鉄

兜・使われなくなった測定機器・過去の器械類・オイル

ランプ・ガスランプ・タングステン球・機械式マニュア

ルカメラ・ラッパ付蓄音機・旧式電話機・最初期の蒸気

機関・複葉機・羅針盤・ジャイロスコープ・六分儀・地

球儀・天秤・革張りの古書・アンティークドレス・燕尾

服・修道院のワインボトル・中国の陶磁器・エジプトの

神像・アンモナイトの化石・骨格標本・世界中の様々な

動植物・チェシャー猫・ドードー鳥・トランプの兵隊・

置時計・柱時計・懐中時計等々、まだまだ色々あるが、

いずれにしろこうして書き出していると、いつしかあの

独特の「匂い」が漂って来るのだ。確かにここからは、

まるでヴンダーカンマーの収蔵品目録ではないかと錯覚

してしまう程の、著しい類似傾向が見て取れるだろう。

 今回の個展は8回目になるので、丸々7回分私はこの

欄を使って、河内さんの魅力を語って来た。鉛筆による

瞠目の細密描写について、その無限のグラデーションの

美しさについて、手法とされるコラージュの斬新な方法

論について、必然的にそこから生み出される独自のシュ

ルレアリスムについて、更にはシュルレアリスム史を遥

かにさかのぼって作家が源泉とされる、ヒエロニムス・

ボスやブリューゲルの異端芸術に到るまで、手を替え品

を替え色々に記して来たけれど、しかしながら後一つ、

重要なファクターが欠けたままになっていて、それが埋

まらない限りは、河内さんを廻るパズルは完成しないと

いう思いがあった。最後のファクター、つまりはそれが

上述した博物学的偏愛であり、しかもそれは決して厳め

しい学術的・考究的なものではなく、もっと人間的・世

俗的な、ある種めくるめくような好奇に根ざしたもの、

言うなれば「ヴンダーカンマー的」偏愛なのだと思う。

その最後のピースがカチリと納まった時、河内芸術を構

築するパズルは遂に完成へと到り、同時にあの軽やかな

ワンダーランドへの扉が、音もなく開かれるのである。

 

 面白い事に、河内さんの源泉はシュルレアリスムには

無い。こう言うと逆説めいて聞えるが、事実「シュルレ

アリスムの作家で、影響を受けた人はいない」というお

話をご本人から聞いた事があるし、確かにコラージュと

いうシュルレアリスムの手法を用いながらも、その無意

識の領域へと下降するフロイト的な世界観とは、河内さ

んの世界は出自を異にする感がある。それに関しての詳

しい考察は、もう紙面も残り少ないので別の機会に譲る

が、それなら何処に源流があるのかと問われれば、前頁

でも少し触れた通り、もっと数世紀ほど時代をさかのぼ

らなければならない。ボスやブリューゲルについては、

以前にも何度かこの欄で取り上げた事があるが、「中学

生の頃ブリューゲルの版画を見た事が、この世界に入る

キッカケとなった」というご本人の弁もあって、この辺

りに原点が有ると考えてまずは間違いない。もっともそ

うお聞きした時は、分ったようなつもりになって調べる

事もしなかったのだが、後日故あってブリューゲルの版

画図録を目にした時は、絶句した。「何だ、これは…」

というのが、偽りなき感想である。画面をギッシリと埋

め尽くした訳の分らない生き物や妖怪の数々、彼ら無数

の魑魅魍魎がこれでもかと繰り広げる奇想天外の乱痴気

騒ぎは、後代のシュルレアリスト達でさえ瞬時に面目を

無くすような、一種異様なイマジネーションに満ち満ち

ている。ただ、その常規を逸した世界観が、河内さんの

上質なファンタジーとどう結び付くのか、直ぐには判然

としなかったのだが、今なら腑に落ちる。もしボスやブ

リューゲルの描き出す魑魅魍魎の数々を、剥製やホルマ

リン漬けや骨格標本にして一堂に陳列したら、これはも

うヴンダーカンマーの光景そのものではないか。と考え

れば、あの狂気のような蒐集に血道を上げた往古の人達

は、もしやブリューゲル等の描いた荒唐無稽の異界を、

自らの館に再現したかったのだろうか。実際、彼らフラ

ンドル派の活躍とヴンダーカンマーの発生が、ほとんど

時期を同じくしている史実を考えれば、それもあながち

空論とは言えないかも知れない。こうしてブリューゲル

の異界と河内さんの世界は、「ヴンダーカンマー」とい

うキーワードで一直線に繋がる。河内さんの描き出す白

昼のファンタジーから、そこはかとなく放たれるあの不

可思議な磁力の源泉は、やはりこのルネサンス期から密

かに繋がり来た、不条理の系譜にこそあるのだと思う。

 

 今振り返ってみると、私は河内さんの個展タイトルに

「午後」という言葉を繰り返し使っている。「器械仕掛

けの午後」「不条理の劇場は真夏の午後に開く」、そし

て今回の「ローマン・カモミールの降る午後に」といっ

た具合に。思うに朝や午前は全てが明瞭で、幻想の紛れ

込む余地は無い。よって河内さんの世界が息づくのは、

やはり白日夢の午後だろう。かと言って、太陽の高い昼

下りではまだ早い、時刻にして午後3時辺りだろうか、

ちょうど白昼と黄昏の狭間、こんな人知れず空いた時の

陥穽に、幻想は音もなく入り込む。だから真夏の午後、

炎熱の街角を曲って画廊の扉を開ければ、あの博物学的

偏愛に彩られた異界からの声が、きっと夢のように響い

てその人を迎えるだろう、「驚異の部屋へようこそ!」

 

 

                     (16.08.04)