五彩の海 (1991)    木版画9版25度摺
五彩の海 (1991)    木版画9版25度摺

画廊通信 Vol.161             光を求めて

 

 

 19世紀前半にバルビゾン派が現れ、その流れを継いだ印象派が19世紀後半に革命を起こすという西洋美術史を振り返った時、バルビゾン派と印象派の大きく異なる点は、絵画表現における「光」の扱い方である。戸外制作に重きを置いた点で両者は共通しているが、比較すれば一目瞭然、誰もが一見して感じる事は、バルビゾン派がまだ古典的なある種の暗さを引きずっているのに対し、印象派の絵画はそれまでになかった明るさを放つ。まるで長年の間締め切ったままの、かび臭く澱んだ暗い部屋の窓を、一気に大きく開け放って、そこに気持ちの良い風が吹き込んだかの如くである。このかつてなかった斬新な動勢は、ちょうどバルビゾン派の登場と時を同じくして写真技術が発明され、19世紀中頃には西欧全

土に熱狂を巻き起したという史実が一方にあり、それに

よって油彩表現の根幹にあった写実技法が、新しい技術

の前に危機に陥ったという深刻な状況から、今までの古

典絵画を打ち破る新たな表現が切実に希求されていたと

いう、ある意味切迫した時勢から必然的に生起したもの

と言える。それまで「光」は「影」との対比を成すもの

として、画面上に明暗のコントラストを作り出す、一つ

の効果として用いられていたが、印象派の画家達は世界

を光に満ちた空間として捉え、モチーフを浮び上がらせ

る効果としてそれを用いるのではなく、むしろ対象とす

るモチーフよりは、そこに注がれる「光」そのものを描

いた。これは、画期的な視点の転換だったと言えるだろ

う。この絵画上の革命を成し得た背景には、当時チュー

ブ入りの絵具が発明された事や、持ち運び可能な携帯用

イーゼルが普及した事から、戸外で全てを制作出来るよ

うになったという技術的な革新もあったが、もう一つ決

定的な影響を彼等に及ぼし、後の美術史家に、もしその

影響が無かったとしたら、たぶん印象派は生まれなかっ

たろうとさえ言わしめたものが、言うまでもなく日本の

浮世絵であった。思うに浮世絵の登場とは、当時のヨー

ロッパにとって、多大な衝撃をもたらして世を変革へと

導いた、紛れもない「事件」だったのである。

 

 有名な「印象・日の出」が出品された第一回印象派展

の開催が1874年、ちなみにこの頃の音楽界を見てみ

ると、ワーグナーが大作「ニーベルングの指輪」を完成

させ、ムソルグスキーが「展覧会の絵」を発表した年に

当っているので、まだまだロマン派が全盛を誇っていた

時代である。音楽に印象派の風を吹き込んだと言われる

ドビュッシーの「牧神の午後」が、やっと1894年に

発表されている事を考えると、美術界は音楽界に20年

を先んじて、革新の潮流を引き起した事が分る。この記

念すべき印象派展をさかのぼる事7年、つまり1867

年に開催された第二回パリ万博において、初めて極東か

ら日本が参加を果し、折からのジャポニズムの萌芽と相

まって、西洋に大きなセンセーションを巻き起した。こ

の年、当の日本では大政が奉還され、翌年の改元で明治

が始まるという大変革の最中だったから、国内は上を下

への大騒ぎ、悠長に万博なんぞに出かけている場合じゃ

なく、もう訳の分らぬ滅茶苦茶な有様だったと思われる

が、そんな時勢をかいくぐって出品された浮世絵200

点が、ヨーロッパ絵画の歴史を大きく変えた訳である。

 輪郭線による描画、単純化された画面、影のない明る

い色彩、遠近法の無視、驚くほど大胆な構図、かつてな

かった斬新な視点等々、何しろ浮世絵表現の全てが当時

の美術界にとっては、極めて新しい要素をはらんでいた

だろうから、そのもたらした影響を挙げていたら紙面が

足りなくなるので略すけれど、マネにしろモネにしろ、

ドガもルノアールもロートレックも、はてはゴーギャン

やゴッホに到るまで、当時の革新派の画家達がこぞって

浮世絵版画を買い求め、熱心にコレクションしていた事

からも、彼等に与えた衝撃の度合いが推測される。驚い

てしまう事にあの貧乏を地で行くようなゴッホが、何と

500点近くもの浮世絵をコレクションしていたのだ!

当然兄を崇拝する弟の協力もあったろうし、それに加

て、たぶん当時はゴッホでも買えるほど浮世絵が安か

たとか、生来何事も狂的に熱中してしまう性格だった

か、詮索すればコレクションを可能にした条件は、ま

色々と見つかるだろうけれど、それにしてもそれだけ

数を蒐集したゴッホの情熱には、ただただ頭が下がる。

むろんゴッホの活躍はもう少し後の年代になるが、先述

した1874年の歴史的な印象派デビューの背景では、

そんな画家達の浮世絵へのひたむきな羨望と憧憬が、大

きな原動力となっていたのは確かな事だろう。

 

 1880年代に入ると、印象派の技法を理論的に推し

進めた「新印象派」が登場する。スーラやシニャックが

その代表的な画家だが、特にジョルジュ・スーラは当時

の最新光学理論を駆使して、科学的な論拠に基づいた制

作をした事で知られる。印象派は更に、セザンヌやゴッ

ホ・ゴーギャンに代表される「ポスト印象派=後期印象

派」へと発展するが、彼等は印象派を起点としつつも、

批判的にそこからの超克を目指した画家達なので、印象

派とは異なる地点にスタンスを置いていたから、結局印

象派の方法論は、スーラにおいて極められたと言える。

 周知のようにスーラの創始した技法は、色彩を理論的

に分割して、無数の細かい色点で作画を成す、いわゆる

「点描」と呼ばれる画法である。これは、光は混色する

ほどに明るさを増す(加法混色)のに対して、絵具は混

色するほど反対に暗くなってしまう性質(減法混色)を

持つ事から、その現象を回避するために生み出された苦

肉の策であった。つまり、色を混ぜるから暗くなるので

あれば、混ぜないで画面上に並べればいい、細かい点に

して沢山並べれば、遠くから見たら混ぜたと同じように

見えるだろう、という訳である。この「視覚混合」と呼

ばれる光学現象を巧みに用いる事によって、絵具の「減

法混色」という難点は一気に解決され、光は本来の明度

も彩度も保ちながら、鮮やかな印象のままに再現される

事となった。この技法によって点描主義の画家達は、例

えば灰色といったくすんだ印象の色でさえ、ブルー系と

オレンジ系の点を並置する事により、明るく描き出す事

を可能にしたのである。「影でさえ光で描く」と言われ

る印象派の画法は、こうして理論的完成を見た訳だが、

同時に手法として完成されてしまったが故に、それ以上

の発展は絶たれたように思える。技法は手法として定着

した時、自らの希求を閉じるのである。閉じた技法から

は、新たな地平は拓き得ない。現在でも、点描を手法と

する画家は散見されるから、あまり無責任な事は言えな

いのだけれど、大方は似たような画風に落ち着いてしま

う現状を見ると、そこからかつてない斬新な表現を期待

するのは、やはり難しいのではないだろうか。

 一方で「視覚混合」という現象に頼らず、よって点描

という手法を一切用いる事なく、印象派とは全く違った

地点に立脚して、輝かしい色彩を生み出す事を可能とし

た作家が居る。その作家はここ日本に在し、しかも油彩

を描く洋画界からではなく、印象派に多大な影響をもた

らした浮世絵木版の側から出現し、その伝統技法を徹底

して突き詰める事によって、まさしく印象派に匹敵する

(時には凌駕すると言っても過言ではない)光の表現を

成し遂げたのであった。他でもない、牧野宗則である。

 

 江戸期より連綿と受け継がれて来た、ただでさえ高度

な伝統木版の技法を、更に極限まで発展させた牧野さん

の制作については、これまで何度もこの場に書いて来た

ので同じ話は避ける事にするが、結局牧野さんの歩んで

来た道というものは、確かに伝統を出発点とはしながら

も、一方では伝統を超える道程でもあった。長年をかけ

て浮世絵の技法を修得しながら、浮世絵を浮世絵たらし

めていた輪郭線(墨線)を廃止し、定番となっていた作

品の大きさを自由に拡大し、浮世絵では使われる事のな

かった色彩を大胆に用いて、浮世絵では成し得なかった

驚異的な重ね刷りを可能とした、これら牧野さんの成し

得た数々の革新は、全て伝統の桎梏を打ち破る闘いだっ

たと言える。そうした飽くなき挑戦から牧野さんが手に

したもの、それは新たな光の表現であった。浮世絵とは

明らかに違う新味を放ちながら、当初は所々に伝統的な

要素もかいま見せていた牧野さんの作風は、1980年

代の有明海を描いた連作の頃から、その様相を一変させ

る。それは正に海を彩る「光」の連作であり、かつて木

版画でそのような表現を成し得た作家は、おそらくは皆

無であったろう。もともと舞台となった諫早湾そのもの

が干潟の海であり、よってモノクロームと言ってもいい

ほどに色のない、誠に単調な風景だったと言う。しかし

作品に描かれた風景は、千変万化の鮮やかな光に満ちた

世界だったから、それらは海や干潟自体の色ではなく、

そこに降り注ぐ光そのものの色だったのである。その光

彩が時に幽玄に、時に華やかに、時に幻想的に描き出さ

れるその光景は、まさしく絢爛たる光の響宴であった。

 今あらためてその技法を顧みれば、多色摺りという木

版画独自の工程ゆえ、結果的に牧野さんも点描派と同じ

「色彩分割」の方法を取る。ただ、ここからが牧野木版

の特質なのだが、点描派がその名の通り色を「点」に分

割するのに対して、牧野さんは版画という技法を用いる

事から、色を「版」に分割するのである。つまり、点描

派が色点を横に「並べる」のに対して、牧野さんは色層

を縦に「重ねる」事になり、ここに同じ表現を希求しな

がらも180度異なる、全く対照的な方法が誕生する。

 色点を横に並べて光を表現した印象派の画家達、片や

色層を縦に重ねて光を表現した稀代の木版画家、さて、

どちらの方法がより可能性を宿して、未来に開かれた方

法であったか、それは前述した点描派の停滞を振り返っ

てみた時、言うまでもない事ではないだろうか。

 

 以前牧野さんに、なぜ何十もの色を重ねているのに、

色が濁らないのかをお聞きした事がある。実際牧野さん

の重ね摺りは、近年50度を超えるような凄まじい度数

に達しているのだ。むろん画面の全てに50数色が重ね

られている訳ではないにせよ、数十色の色版が重ねられ

ているのは紛れもない事実であり、これがもし油彩や水

彩による描画であれば、目も当てられない悲惨な状況に

なっている筈である。それが牧野木版においては、重ね

れば重ねるほどより透明度が上がり、色彩もいよいよ輝

きを増すかのようである。牧野さんはこう答えられた。

「強圧をかけて何度も摺り込んで行くので、きっと色は

紙の中で重なっていると思うんです。決して混ざってる

訳じゃない、だから濁らないのではないでしょうか」、

とうに牧野さんは、かつて画家を悩ませた「減法混色」

の問題を解決していたのである、しかもスーラのように

科学的な理論を用いるのではなく、伝統木版の可能性を

徹底して突き詰めてゆく、その飽くなき実践の中で。

 上記の問答から印象派に話が及んで、浮世絵の多大な

影響について、しばしの歓談をさせて頂いた後、牧野さ

んは爽やかに笑ってこう言われた。「私の先輩達は、そ

れほどの影響を西洋に与えた訳でしょう。だったら今度

は、こっちが返してもらわなくちゃね」、どのように返

してもらったかは、今回の展示を観に来て頂く他ない、

東洋の印象派・牧野宗則の成した光の軌跡を。

 

                      (16.12.18)