菜 (2012)    混合技法 / 41x55cm
菜 (2012)    混合技法 / 41x55cm

画廊通信 Vol.163       初めて見る花のように

 

 

 昨年、個展が始まる前の話である。仕上がって来た案

内状と、四苦八苦して書き上げた画廊通信を、いつもの

ように作家宅へお送りしたところ、日を置かず中西さん

から電話がかかって来た。実は画廊通信に間違いがあっ

てね、と前置きされた後、アンパンマンなんだよね、と

おっしゃる。何の事か分らず、え?と聞き返したら、ち

ょっと笑いながら、アンパンマンだったでしょう、と再

度同じ台詞である。はて、何の事だろうと考えかけた刹

那、頭の中で突如焦点が合って、ハッと思い当たった。 

 しまった! いつの間に記憶の中で、ドラえもんとす

り替わってしまっていたのだ。一年前に中西さんのアト

リエで見たあの置物は、確かにアンパンマンだった筈な

のに、いつしかドラえもんと勝手に思い込んでしまい、

年明けて画廊通信を書く頃には、私の脳髄にはもうすっ

かりドラえもんが、確固として居座っていたのである。

よって私はその間違った記憶を基に、拙文を書き進める

羽目になった訳だが、それにしても「思い込み」という

ものは恐ろしいものである。一旦思い込んでしまうと、

如何に疑念の余地なく確信してしまうものか、それをこ

こで少々検証してみるのも、無駄にはならないだろう。

以下は、昨年の画廊通信から。

 

(前年伺った折は)無念にも、山桜を望む事は出来なか

った。その代わりと言っては何だが、アトリエにドラえ

もんが居た。いつもお茶を戴く部屋の畳の上に、かなり

大きな図体で鎮座していて、しかも内側に照明が仕組ま

れてあるらしく、全体がほんのりと柔かな明かりを放っ

ている。寂然たる山房の茶室に、チープに光るドラえも

んという、その不条理の妙味が分らない訳ではないが、

しかし、どうも中西さんのイメージとは合わないように

思えたので「このドラえもんは、いったいどうしたので

すか?」と正直にお尋ねしてみたところ、「画廊通信が

だんだん行き詰まって来て、このところ山口さんも大変

なようだから、ちょっと話題を提供してあげようかと思

ってね」と、ニヤニヤされている。ご自分のイメージを

そのように壊してまで、私のような者に協力したいとい

う、画家の温かなご好意に心打たれ、「ありがとうござ

います、来年はドラえもんで行きます」と、つい宣言し

てしまったものだから、こう見えて私は以外と律儀な方

で、よって人からいただいたご恩と恨みは決して忘れな

いたちなので、こうして昨年の約束を実直に守るべく、

ドラえもんとの邂逅から話を起している訳である。

 

 いやはや、頭からドラえもんと信じ切って、「もしや

あれは、アンパンマンじゃなかったろうか」などという

疑念の、微塵も入り込む余地のない様が、実によく分る

話し運びではないか。しかも、そこでやめておけばまだ

良かったのに、この後ドラえもんを端緒に、現代のテク

ノロジーへと話を広げ、成り行き上、賢しらに文明論め

いたものまで一席ぶってしまい、あげくにタイトルまで

「猫型所懐」なんて洒落てしまったものだから、全くの

ところ、恥ずかしいったらありゃしない。

「せっかく色々と書いてくれたんだし、また書き直すの

も大変ですから、いいですよこのままで。その代わりあ

の話が嘘にならないように、ドラえもんプレゼントして

もらわなくちゃね」、中西さんのそんな寛容な言葉で、

私は幸い書き直しをご容赦頂いたのだったが、会期中何

人かのお客様に「あの、ドラえもんの話なんですが…」

と親切に言及頂き、その度に「実はあれ、アンパンマン

の間違いでして…」と弁明しなければならない羽目にな

ってしまい、それが「あら、そうなの。アハハハハ」と

意外にウケてしまったりして、まあ、愚かな間違いでは

あったけれど、結果的に悪い間違いではなかったようで

ある。それに加えて今思うのは、勘違いのままに書いて

しまい却って良かった、もしアンパンマンについて書こ

うとしても、私にはとても書けなかったろうという事で

ある。何しろ、困っている人が居たら自分の顔を食べさ

せてしまうのだ、そんな「救済」や「慈悲」といった深

遠なテーマを、どちらかと言えばそのような恩恵に与か

って来た側である私に、論じられる筈がないのだから。

 昨年お電話を頂いた後、いつものように鎌倉のアトリ

エまで作品を戴きに上がったのだが、中西さんは私を部

屋に通してくれるなり、「ほらね」と言った。確かにそ

こにはちゃんとアンパンマンが居て、ほのかな明かりを

放っていたという顛末、私はその愛嬌のある丸顔を見な

がら、それにしてもどうしてこの茶色いアンパン顔と、

真っ青なロボット猫が入れ替ってしまったのだろうと、

釈然としない思いがいつまでも消えなかったのである。

 

 今一度繰り返せば、上記の出来事であらためて思い知

った事は、「思い込み」というものの恐ろしさである。

さらに言えば「思い込み」そのものよりも、それに全く

気付いていないという状態の方が、より問題にすべき事

なのかも知れない。思えば私達の生活のほとんどは、勝

手な思い込みの中で成り立っている。ごく身近な例をあ

げると、例えばスーパーに行って大根と白菜を買ったと

しよう。その人は購入にあたって、大根と白菜を確かに

「見た」のには違いない、しかしおそらくその情報は脳

中の感性領域には届かず、反対に理性領域の方に飛んで

「食材」としてインプットされている筈だ。つまりその

人は、目前の対象を見てはいるのだけれど、大根と白菜

「そのもの」を見ている訳ではない、大根と白菜の「意

味」を見ているのである。何故そのような現象が起きる

のかを考えると、やはりその人が大根と白菜を「食材」

と思い込んでいるからだろうし、一旦そう思い込んだが

最後、純粋なフォルムとして見る事は出来なくなるから

だろうし、しかも困った事には、そのような物の見方し

か出来なくなっている事に、自身が全く気付いてさえい

ないからだろう。もしも感性の眼で、虚心に対象と向き

合えたとしたら、きっとその人は大根のみずみずしい量

感に、思わず目を見張るだろう、あるいは白菜というか

けがえのない命の尊さに、心打たれる思いをするに違い

ない。そしてその時、初めて人は「見る」というおよそ

単純な行為の、本当の素晴らしさを知るのである。あた

かも垢のように積もり積もったそんな「思い込み」を、

清々と払い去って心中をリセットすれば、世界はまるで

違った顔を私達の前に顕す、その美しい事実こそ、中西

さんの絵が教えてくれた真理であった。

 

 中西さんの作品は、正にその思い込みから全く解き放

たれた、極めて純粋な絵画だと思う。実際、大根にして

も白菜にしても、色々なヴァリエーションで何度も描か

れているから、目にしている方は数多いと思われるが、

一目見て誰もが感じるのは、同じモチーフの他作品とは

明らかに違う何かが、紛れもなく眼前に「在る」と云う

事実である。確かにそこに描かれている物は、見慣れた

大根や白菜なのだが、私達の見慣れた(と思っている)

大根や白菜とは、決定的に何かが違うのである。これま

でその「何か」を私なりの考えで、幾度もこの場に書き

散らかして来た訳だが、結局それは言おうと思えば幾ら

でも言えるし、賢しらに哲学的な解釈だって可能だ、し

かし、幾ら言葉を尽くして述べ立ててみたところで、所

詮百聞は一見に如かずと云う諺の正しさを、改めて知る

事になるのが関の山なので、いっそ今回は知ったような

事を書き立てるのは已めて、とにかくは画廊に足を運ん

で頂き、今一度その「何か」と、虚心に向き合って頂け

たらと思うのである。きっと絵の前に立つ人は、限りな

く豊かな答えを絵の中に見出すだろう、そこに描かれて

いるものは、さんざん見慣れた筈の日常であるのに。

 以前にも引用した事があったが、中西さんの芸術の正

鵠を射るような一節を、再度この場に引用させて頂きた

い。以下は20年ほど前に、中西さんの初めての画集に

寄せられた、齋鹿逸郎という画家の一文である。

 

 何の變哲もないありふれた日常をモチーフにしたから

といつて、それだけで生活感がだせるわけのものではな

い。生活感とは鮮度の代名詞である。鮮度は魚屋のやう

に二日と持たないものであつて、一點描くごとに、その

ために頭のなかの要らないものを除かないと、いい鮮度

は保てない。中西和が生活感に賭けてきた歳月も、つね

に新鮮であらうとする努力も、自分を見失うことが無か

つたことも、鮮度との格闘なしにはあり得なかつたと言

つてもいい。鮮度とは、自分の身を切つて満身創痍で立

上がるやうなものである。

 ここで付加へておきたいのは「一本のバラを描くこと

にもましてむづかしいことは、何もないと思ひます。そ

れを描くには、彼はまづこれまで描かれたバラを一切忘

れなければならないからです。すべての生活を子供の時

のやうなうひうひしい目で眺めなければ、それはできな

いことなのです。」といふマチスのことばである。

 

 ついでだからもう一つ、これは2冊目の画集に掲載さ

れていた、作家自身による前書きからの抜粋である。先

述した「何か」は、私如きがことごとしく言い立てずと

も、上記の抜粋と以下の一節をよく味わって頂ければ、

ここに全て言い尽くされていると思う。

 

 私にとって「美」とは、「創造」などという前に「発

見」、いや「気付く」ものなのです。そして「気付く」

ことをひとつひとつ重ねることによって、あたりまえの

「人」に少しずつ、近づいていけるのだと思うのです。

 私のしてきた仕事は、「気付く」ごとに「ハイ」とう

なずき、「一礼」してきたようなもので、これからの仕

事も同じように連ねていくにすぎません。

 好きな一文を引用します。

 

 光というものは、開かれたばかりのまなざし、あるい

はまさに閉ざされようとするまなざしにしか、その完全

な純粋さにおいて示されないものである。

          ─── ギュスターヴ・ティボン

 

 仏教に「還相(げんそう)」という言葉がある。行者

が解脱して悟りを開いた後、あえて浄土に留まらず、元

の穢土に帰る事を言うらしいが、中西さんの芸術を見て

いると「還相の絵画」という言葉が心に浮ぶ。解脱云々

といった難儀な事はさておいて、中西さんはきっと何処

かに達して、清々と帰って来た人なのだと思う。だから

いつもその絵には、我慢や偏執がキレイに取り払われた

澄み渡る気韻が満ちている。今回の案内状を飾る新作の

見事な火焔も、決して煩悩の燃えたぎる業火ではない、

清らかに燃え盛る魂の浄火だ、私にはそう見える。

 蛇足になるが、昨年の個展を終えて後日、作家に電話

を入れた折に「ドラえもんが来ましたよ」と言われた。

具体的に何かは忘れたが、とにかくも現在、中西宅には

確かにドラえもん型の機器があって、しっかりと役に立

っている模様なのである。間違いのお詫びにプレゼント

をする約束だったのだが、もしやそれをしなくても済む

ようにと、作家が細やかなお気遣いをしてくれたのであ

れば、私はその大いなる慈悲心に、深い感謝を捧げなけ

ればならない。やはり中西さんは、還相の人であった。

 

                     (17.02.16)