Small Collection No.319        Oil on board / 30x30cm
Small Collection No.319        Oil on board / 30x30cm

画廊通信 Vol.166               唯農論

 

 

 仕事がら、何人もの作家とお付き合いをさせてもらって来たが、新作を最も早く送って来てくれるのは、ゆうさんである。通常は個展の2ヶ月前には届く。ある日突然、ガムテープでぐるぐる巻きになった荒々しい段ボール箱(と言うよりは、段ボールの塊)が送られて来て、ああ、ゆうさんの個展が近づいているんだなと、かえってこちらが気付かされる次第なのだ。個展の直前まで描いている画家も多いのに、これは異例の早さである。そして当店の個展が始まる頃には、もう次の個展に向けての制作を開始されているというのが、いつものパターン

なのである。今年は色々と立て込んでしまい、発送が遅

くなったとのお話だったが、それでも個展の1ヶ月前に

は、きっちりと新作が届いた。ガムテープをベリベリと

引き剥がし(これだけでもかなりの時間がかかる)、お

もむろに段ボールの梱包を開けると、エアークッション

で包まれた新作が出て来て、同時に独特の油絵具の匂い

が、フワッと辺りに広がった。面白い事に、同じ油絵具

でも作家によってその匂いは異なる。これはゆうさんの

匂いだ。久々にこの匂いを嗅いだなと思った。

 ゆうさんの油彩展は4年ぶりである。今まで、油彩展

とドローイング展を毎年交互に開催して来たのが、前回

(一昨年)の油彩展が「ボックスアート展」に変更とな

り、その分が一回抜けた計算になるため、4年ぶりの開

催となった訳である。ゆうさんの油彩は重い。印象的な

重量感もあるが、まずは物理的に重いのである。その大

きさにもよるが、時に大きさからの予測を超えて重い事

もあり、「想定外」と言っても過言ではない強者(つわ

もの)だって居る。梱包から作品を取り出しながら、そ

のずっしりとした心地よい重さにも、久々の懐かしさを

感じる風であった。今回の案内状に掲載した作品も、実

際に実物を手にしてみると、想定を遥かに超えた強者で

ある。受取報告のお電話で「いや~、重いですね。この

重さ、久しぶりに味わいました」と申し上げたら「それ

10年描いてるからね」とのお返事、ゆうさんの重さと

は、つまりは時間の重さである。畢竟時間の重さとは、

堆積した精神の重さに他ならないのだろう。

 

 昔、誰かが言っていた。「表現の可能性は、コンセプ

 トよりも原初性にある」、いまだにそういう立ち位置

 で私は創り続けている。現代の作風としては非常に古

 典的な、いや、むしろ美術が発生した原点を発掘する

 考古学者の様な立場なのかもしれない。

 また、地・水・火・風・空(五大)の混沌としたエネ

 ルギーの中に、まだ可能性はあると考えている。

 新しい表現にも目を向けながらも、自分の風土は見う

 しなわずに続けていく事になるだろう。

 

 これは、5年前の吉井画廊における個展の際に、画集

に添えられたゆうさんの言葉である。「現代の作風とし

ては非常に古典的な」と作家は謙遜しているが、ここで

語られている事は、極めて斬新である。別な言い方をす

れば、現代という全てが人工的なこの時代に、その言葉

はいよいよ斬新な響きを放つ。詰まるところ、現代のテ

クノロジーが目指す地点は「脳化」である。美術でさえ

その席巻は逃れられない。今の美術シーンに流行する写

実派の絵画を見れば、それはあまりにも明らかだろう。

自らの眼を武器とした古典派と違って、現代の写実派の

武器はデジタルカメラである。五感中の視覚だけを特化

したデジタルカメラは、人間の視覚が捉える画像ではな

く、脳の延長である機械の捉えた画像を写し出す。隅々

までクリアなそのパンフォーカス画像は、最早人間の見

ている風景とは異なるものだから、ある意味観念の映像

とでも言うべきものか、それをそのままコピーする写実

派の手法を、脳化と言わずして何と言うのだろう。もう

一つのブームであった、サブカルチャー派のアニメ表現

に関しては、言わずもがなである。現実との接点が無い

アニメ画像は、そもそもが脳内の産物に他ならないのだ

から。ゆうさんが当初からやって来た事は、言うなれば

この「脳化」への反逆と言ってもいい。元来は観念の世

界に在ったものを、テクノロジーの力によって具現する

この「脳化」という手法は、別な視点から見た場合、現

実を脳化することによって、かえって現実を希薄にして

しまう。この現象を一般に「バーチャル」と言っている

訳だが、ゆうさんの芸術はその流れに真っ向から抗う。

ゆうさんの世界に「仮想」は無い。作家は脳の創り出し

た仮想現実よりも、実際に手で掴む事の出来る現実を、

その物質の有り有りとした手触りを、その醸し出す匂い

を、そこに生き生きと脈動するだろう生命の漲りを、延

いてはそれらを限りなく敷衍した自然を、明確に信じて

いる、それが画家の言う「原初性」であり、取りも直さ

ず「わたなべゆう」という作家の在り方なのである。

 

 現代とは、要するに脳の時代である。情報化社会とは

 すなわち、社会がほとんど脳そのものになった事を意

 味している。脳は、典型的な情報器官だからである。

 都会とは、要するに脳の産物である。あらゆる人工物

 は、脳機能の表出、つまり脳の産物に他ならない。都

 会では、人工物以外のものを見かけることは困難であ

 る。そこでは自然、すなわち植物や地面ですら、人為

 的に、脳によって配置される。我々の遠い祖先は、自

 然の洞窟に住んでいた。まさしく「自然の中に」住ん

 でいたわけだが、現代人はいわば脳の中に住む。

 

 これは養老孟司「唯脳論」の冒頭を飾る一節で、刊行

は1989年となっているから、随分と以前の著作なの

だが、今こうして読み返してみても、見事に現代という

時代を言い当てていると思う。当時から30年近くを経

た今、時代の脳化はいよいよ拍車が掛かり、身辺の物理

的な利便にとどまらず、人間の思考作用さえも機械が取

って代るようになり、一例を挙げるなら、今やスマホと

いう「外部脳」が無ければ生きて行けないという、ある

意味健全な脳作用の欠落した人間さえを、産むに到って

いる。ここまで来てしまうと、最早時代は深く「病んで

いる」事を、自らに告知せざるを得ない段階を迎えてい

ると思うのだが、正にこのような時代だからこそ、ゆう

さんの芸術はひときわ斬新な光を放つのだろう。何度も

申し上げた事だが、ゆうさんはしばしば、自らの制作を

農耕に例えて来た。極言すれば、ゆうさんにとって「描

く」とは「耕す」事だ。画家にとって画面を耕すとは、

精神を耕す事に他ならない。数多の画家が小賢しいコン

セプトを振りかざし、余計な観念をこねくり回している

間に、ゆうさんは独り汗をかいて、ひたすらに精神の農

場を耕し、魂の種を植える。それは時に何年もの時間を

要する事もあるが、やがて豊穣の果実が農場を潤す頃、

それらはヤワなコンセプトなどは問題にもならない、強

靭な精神の力を孕んで見る者を打つ。それを目の当たり

にした時、私達は「表現」という行為の本質を知るので

ある。詰まるところ表現とは、精神を物質化する行為で

ある事、ならば表現の結果としての作品は、何よりもま

ずは「物質」である事、その血が通い、体温を持った、

生きた物質としての手触りを、ゆうさんの芸術は濃厚に

体現している。それは「マチエール」という言葉だけで

は足りない、もっとその内奥までをも濃密に含むもの、

切れば血が噴き出すような、言わば「生命の手触り」な

のである。現在の表現者に最も欠けているものが、正に

そのリアルな「手触り」ではないだろうか。ゆうさんを

知った頃、ゆうさんはこんな文章を当時の個展に寄せて

いた。以前にも引かせてもらった事があったが、以下は

吉井画廊2006年の個展に際してのコメントである。

 

 原始人の創ったものなどには、人間が何故ものを創る

 様になったのかという、美術の最初の根っこの部分み  

 たいなところがある。そしてそこには生きる事と、も

 のを創る事が直結した原初的な力がある。私の出発点

 もそんなところにあって、自分の中にある精神的風土

 を掘り下げることで、現代人が見失いつつある精神的

 豊かさを喚起したい。そして「土のニオイ」とか「自

 然の中の風」みたいなものを形にできたらと思い、画

 面の上で天候に左右されながら農耕をやっている。

 今日も、いい天気だ……。

 

 この話をどう履き違えたのか知らないが、「農業をや

りながら絵を描くのは、とっても大変でしょうね」とゆ

うさんに言ったら、怪訝な顔をされたという話を、つい

先日女房から聞いて、開いた口が塞がらなかったが、そ

んな話はどうでもいいとして、この時から11年を経た

今も、ゆうさんの考え方は全く変ってないと思われる。

と言うよりも、安井賞を受賞するその遥かな以前から、

既に画家は揺るぎない「わたなべゆう」という精神の根

を、内奥に深く伸ばしていたのだろう。先述の「五大」

に関する発言にしても、古代インド思想やギリシャ哲学

を出典とはしつつも、ゆうさんは決して観念の空理を語

っている訳ではない、それはあくまでも自身の実体験か

ら出た言葉なのだと思う。「地」が何を表し、「水」が

何を意味し、「火」が何を象徴し……と、思想の理念を

云々する前に、青年時に数年をかけて国土を放浪し、大

地を歩き、海を渡り、火に癒され、風に吹かれて、独り

空を仰いだ、その肉体を通して刻み込まれた、消そうに

も消せない鮮烈な記憶が、作家をしてそう言わしめてい

る、そう考えた方が妥当ではないだろうか。そこには、

賢しらな理屈など軽く吹き飛んでしまうような、苛烈に

刻印された原体験があるのだ。所詮芸術において、思想

やコンセプトや方法論といったいわゆる観念の遊戯から

は、何物も生まれ得ないだろう。深く心身の奥底にまで

染み込んだ、拭おうにも拭えない原点としての記憶から

表現は生まれ、表現はやがて精神を或るフォルムへと異

化する、その時自ずから表現は思想となるのである。そ

の道理をゆうさんの制作は、無言の内に教えてくれる。

故にその作品と向き合う時、見る人はいつしか知る事に

なるだろう、自身もまた土から生れ、水を湛え、火の熱

を保ち、風を導き入れ、心に空を持つ存在である事を。

 

 以上の文章を、私はゆうさんから送られて来た新作の

中から、最も小振りな作品をデスクの正面に掛けて、じ

っくりと見ながら書かせてもらった。文章を綴るのは困

難であるにしても、それは至福の時間であった。絵肌に

無数に刻まれた大小のキズ、鋤き返しては耕したかのよ

うな凹凸、それは幾重にも重ねられたその下層を、様々

な表情を伴いつつ諸処にかいま見せる。そして色。赤土

の色、黒土の色、黄土の色、砂礫の色、そう、これは大

地の色だ。今、作家の内なる大地は、豊穣の香りを放つ

強靭なフォルムとなって、ここに確固として現前する。

 こうして見ている内に、良からぬ思いが湧いて来た。

これ、売れなければいいな……、展示会の主催者として

あるまじき思いである。でも正直に申し上げて、この作

品は売れて欲しくない。過分にも幾つか作品を持ってい

るのだが、油彩はまだなのである。ゆうさんのファンで

あれば、やはり油彩は外せないだろう、逡巡などしてい

る場合ではないのだ。いっそ赤丸を付けてしまおうか、

いや、それはやはり……、迷いは尽きないのである。

 

                     (17.05.06)