ピッチャープラント 鉛筆 / 21.8x12.0cm
ピッチャープラント 鉛筆 / 21.8x12.0cm

画廊通信 Vol.168       夢と謎の出会うところ

 

 

 睡眠に入ると、当然の事ながら視覚は働かなくなる。それだけではなく、深い眠りに入れば、聴覚・嗅覚・味覚・触覚といった他の機能も、ことごとく休止状態となる。そのようにして五感が停止すると、外界からの情報が遮断された意識は、勝手放題に動き始めるらしい。それは、時に暴走と言ってもいい程の、全く説明のつかない動きをする。いわゆる「夢」と呼ばれる現象がそれだが、フロイトによると夢は決してデタラメに展開される訳ではなく、記憶の深層に封印されていた欲求が、映像となって現れ出たものであると言う。つまり自分でも気が付かない内に溜め込まれ、抑圧されていた願望や欲求が、普段の束縛から解放される事によって、無意識層からわさわさ湧き上がって来るという訳だ。よって、夢は必ず何らかの願望や欲求と結び付いて、自分でも解らなかった深層の意識を教えてくれる。「夢判断」等の理論書を通して読んだ事はないので、あまり知ったような事は言えないが、フロイトは医師としての長い臨床研究を

通して、そのような結論に到ったのだろう。そして、自

分自身の夢を振り返ってみても、確かにそうなのだろう

と思える事例は多々ある。もっともこのところは、変な

夢を見たという記憶だけが残って、肝心の内容は綺麗サ

ッパリ忘れてしまっている事が多いので、正確な分析な

どとても出来ないのだけれど。それにしても、空を飛ぶ

夢とか何かから逃げている夢などは、以前から繰り返し

見る夢なので、それが何の願望や欲求の現れであるかぐ

らいは、特に精神分析など持ち出さなくても、なんとな

く自分でも解る。何しろ、飛んで逃げたいような事は、

幾らでもある訳だから。しかし一方で、どうしたって説

明のつかない夢がある事も、また確かな事である。どう

記憶を掘り下げてもそんなものは出て来ない、見た事も

無ければ聞いた事も無い、もちろん考えた事も無いし、

第一自分の考える範疇にそんなイメージは皆無である、

そのような、凡そ想像すら出来なかった映像や物語が突

如夢の中に現れて、見ている本人が驚いてしまうような

事も実際にある訳で、こんな全く説明の付かない不条理

の展開を、フロイトならどう解釈するのだろう。どうや

ら私達の深層に広がる無意識という領域は、確かに合理

的・理論的に説明出来る部分も在るにせよ、更に分け入

ったその遥かな奥底は、とても知性の範疇では捉えられ

ない、魑魅魍魎の跋扈する世界なのかも知れない。いず

れにせよフロイトの開いたその未知の領域を、学問的に

解明するというアプローチではなく、自ら足を踏み入れ

てその世界と交感し、意識表層を意図的に超える事を狙

ったのが、ご存知シュルレアリスムの作家達であった。

 

 シュルレアリスムの歴史めいた事は、以前にも書いた

ので繰り返さないが、彼らがどのような方法で無意識界

に触れようとしたのかは、まだ一考の余地があるだろう

と思う。まずは「オートマティスム」、「自動筆記」或

いは「自動書記」とも訳されるその技法は、出来る限り

何も考えずに手の動くに任せ、文字通り「自動的に」描

いてみようという手法である。例をあげれば、よく電話

をしながらそばに置いてあるメモ帳に、何の意味もなく

図形を描いたりしている経験は誰にでもあると思うが、

正にそれである。一般にはデタラメな落書きに過ぎない

ものも、シュルレアリスト達から見れば立派な一技法と

なる訳だ。そんなふざけた考えで、絵が描けるのかとい

う意見もあるかと思うが、お腹立ちはごもっとも、でも

やっている方は大真面目な訳で、古典絵画の呪縛から芸

術を解き放つという高邁な理想を掲げて、彼らはシュル

レアリスム街道を突っ走ったのである。ジョアン・ミロ

や一時期のアンドレ・マッソン等は、実際にこの技法を

用いて制作をした代表的な画家で、この流れは必然的に

抽象絵画を生み出し、やがては大戦を機にアメリカへと

渡り、ジャクソン・ポロックのドリッピングやデ・クー

ニング等の抽象表現主義に到る。「オートマティスム」

の話はこれくらいにして、もう一つシュルレアリスムを

代表する手法が「デペイズマン」という方法論である。

 以前にも抜粋した事があったが、19世紀フランスの

先駆的な詩人ロートレアモンの詩に、こんな一節がある

──「そして何よりも彼は美しい!ミシンとコウモリ傘

が解剖台の上で、思いも寄らず出会ったかのように」、

これはシュルレアリスムの思想を象徴したものとして、

よく引き合いに出される詩句だが、これが正に「デペイ

ズマン」の顕著な一例である。全く無関係な要素を組み

合せる事によって、思いも寄らない意外性を生み出し、

受け手を混乱・困惑させる手法──とでも言えば良いの

だろうか、事実この一節では「ミシン」「コウモリ傘」

「解剖台」といった互いに何の関連性もない要素を、不

意に一つ所に出会わせる事によって、説明のつかない不

思議な雰囲気を創りだす事に成功している。この手法は

絵画においても様々な展開を見せたが、その中でも最も

よく知られた手法がご存知「コラージュ」だろう。これ

は以前からピカソが提唱していた「パピエ・コレ(雑誌

の切り抜きや写真等、絵具以外の物質を画面に貼り込む

手法)」の考え方を、エルンストがデペイズマンの実践

法として取り入れたもので、今でこそ絵画の一技法とし

てすっかり定着しているが、当時としてはかつてない斬

新な手法であったに違いない。よってこの手法は、様々

に派生して新たな表現を生み出す事となり、ちなみに立

体におけるコラージュは「アッサンブラージュ」と呼ば

れ、後には地元・川村記念美術館の収蔵で有名な、ジョ

セフ・コーネルのボックスアートにまで到る事となる。

 

 今回で9回目の個展となる河内さんの世界も、このデ

ペイズマンの思想とコラージュの手法に貫かれている。

ただ、河内さんはコラージュを為す際に、資料の切り貼

りといった簡便な手法を全く用いない。既にご存知の方

も多いと思われるが、全ては手作業による描画である。

しかも、その組み合せの意外性にもかかわらず、一つ一

つの要素は大真面目な写実であり、その質感といい触感

といい、細密描写によって描き出されたそれぞれの部分

は、眼を瞠るような現実感を宿す。よってその内容がい

かに荒唐無稽なものであれ、コラージュの切り貼りなど

問題にならないようなリアルさを、手中に収める結果と

なっているのである。これは正に、高度な技術と斬新な

発想を併せ持った、河内良介という芸術家だからこそ成

し得る、独創的なデペイズマンの表現と言えるだろう。

 話を戻せば、前述した「夢」の領域も、まさしくこの

デペイズマンの世界と言える。気が付いたら思いもしな

かった場所に佇んでいたり、何の関係も無いもの同士が

突然出会ってみたり、飛ぶ筈のないものが楽々と夜空を

飛んでみたり、小さい筈のものがやたらと大きくなって

みたりと、正に混乱と困惑を引き起こす、不条理に満ち

満ちた世界である。おそらくシュルレアリスト達は、最

初はそんな夢の世界を、そのまま作品として描いたのか

も知れない。しかし表現の手法を手にした時から、夢は

「見る」というごく自然な行為から、人為的に「創り出

す」ものへと発展した。つまり、見た夢を描くのではな

く、描くことによって夢を見たのである。畢竟彼らにと

って「夢を見る」事と「描く」事は同義であった、正に

彼らは白昼に夢を見たのだろう。そして河内さんの世界

もまた、この白昼の夢に溢れている。と言うよりは様々

なシュルレアリスムの表現がある中で、河内さんの世界

ほど「白昼の夢」という言葉に、相応しい世界はない。

そこにはシュルレアリストの陥りがちな、暗澹とした意

識下のおどろおどろしい表現はない、スカッと突き抜け

たような遊び心の溢れる、軽やかな詩情に満ちた世界が

広がっている。現実の夢の過剰な混乱は、上質のファン

タジーへと転化され、しかしながら不条理は不条理のま

まに、斬新な詩的時空が、縦横に展開されるのである。

 

 巷を見渡せば、「絵画の謎を解く」「名画のミステリ

ー」云々といった書物が、相も変わらず新聞の宣伝欄に

載り、書店にも並べられている。人というものは随分と

ミステリーが好きなようで、映画やテレビ番組だけでは

まだ足りず、美術界にまで進出して来たものと見え、ま

あ一時的なブームなのだろうぐらいに軽く見ていたらそ

うでもないようで、未だにその類いのテレビ番組が制作

され、美術関連書が散見されるという事は、よほど謎解

きに餓えている人が多いのだろう。しかし思うのだが、

そんなに謎を解きたければ、エラリー・クイーンを読む

か、数学の難問に挑んだ方が、遥かに面白いのではない

か。絵画の謎などと言うものは、解いてみればどうにも

拍子抜けするようなものが多く、誰々のモデルは誰だっ

たとか、その誰には誰にも言えない秘密があって、それ

を画家は暗号にして絵の中に秘めたとか、その暗号を解

いてみたら実はその誰々は暗い過去を持っていたとか、

X線を当ててみたら絵の下から、その過去にまつわるも

う一つの重大な秘密が浮び上がったとか、まあそんな類

いばかりで、下手な探偵小説にもならないような、クソ

面白くもない(失礼、育ちが良くないものでつい)もの

がほとんどである。絵の場合、探偵小説やミステリーと

は違って、解ける程度の謎に大したものはない。何しろ

絵とは、まずは「見る」ものであって、謎解きの対象で

はないのだから。だから絵の謎があるとしたら、それは

徹して「見る」という行為の先にある。見れば見るほど

に不可思議なもの、見るほどに深まる謎めいた魅惑、そ

のような絵が自ずから身にまとった、解き得ないものこ

そ真の絵の謎であり、同時にそれは描いた作家からの、

言葉にならないメッセージなのである。先に私は、シュ

ルレアリスト達は夢を創り出したと述べた。夢が謎を体

現するものであるのなら、それは「謎を創り出した」と

言い換えても良いのだろう。彼らは謎を描き出す。そし

てそれが解き得ない真の謎である限り、謎は謎のままに

決して色褪せる事はない、覚める事のない夢のように。

 

 これも以前に引かせてもらった事があったが、エルン

ストがコラージュ制作のきっかけとなったある体験を記

した一文があるので、今一度ここに抜粋しておきたい。

「1919年のある雨の日、ライン河のほとりのある都

市にいた時、人類学や微生物学、心理学、鉱物学、古生

物学などを実用的に図解した、挿絵入りカタログのペー

ジが、突然、驚愕的に私の視線にとりついた」、正にこ

の瞬間、それらを切り取って貼り合せるコラージュが、

エルンストの脳裏に閃いたのだろう。この文章から感じ

られるのは、そんな未知の世界へのときめきであり、強

い喜びを伴った驚きである。デペイズマンの思想もコラ

ージュの手法も、当初はそんな「ときめき」と「驚き」

から始まったのだ。しかし、それがやがて一つの技法と

して定着すると共に、いつしかその純心は煙のように消

え失せてしまう。そのような避けがたい時の流れに在っ

て、顧みれば河内さんの世界には、かつてのシュルレア

リストの誰もが感じていたであろう新鮮なみずみずしい

情感が、未だイキイキと脈打っている。ここには「とき

めき」がある、「驚き」がある、だからこそその詩的時

空は、一見は静かな佇まいの中から、見る者を強くいざ

なって已まないのだろう。決して遅くはない、私達もも

う一度ときめいてみてはどうか、もう一度あの驚きを味

わってみてはどうか、白昼の軽やかに広がる夢の中で。              

 

                     (17.07.02)