夢明かり (1986)   木版画12版20度摺
夢明かり (1986)   木版画12版20度摺

画廊通信 Vol.175            東風の行方

 

 

 昨年静岡伊勢丹において、久々の親子展として開催された「牧野宗則・風鈴丸二人展」のパンフレットには、副題として「パリ万博から150年のジャポニズム」というフレーズが添えられていた。初めて浮世絵が出品された第2回パリ万博が1867年の開催だったので、ちょうど昨年が、その150年後に当っていた訳である。この「150年」という時間の長さをあらためて考えてみると、仮に30年を一世代として計算すれば、きっかり5世代分の長さとなる。ならば、この「5世代」とはどういう長さかと言えば、例えば昨年が還暦だった人にとっては、祖父母の親が生まれた年に当る。つまり言い方を換えれば、祖父母の祖父母が壮年の働き盛りだった頃、とも言える。ちなみにもう一代さかのぼってその祖

父母の祖父母が生まれた時分は、さてどんな時代だった

かを顧みれば、それは1837年(天保8年)当時とな

るから、ちょうど天保の改革の真っ最中、大塩平八郎が

決起して反乱を起し、長く続いた太平の世もそろそろ揺

らぎ始めた頃である。片や美術界に目を転じてみると、

この1830年代という時代は、ご存知北斎が「冨嶽三

十六景」「富嶽百景」等の傑作を刊行し、対抗して広重

が「東海道五十三次」等々の名作を矢継ぎ早に発表する

という、正に浮世絵が百花繚乱を極めた時代であった。

この一世代後、浮世絵は維新の激動の最中に海を渡り、

遥か西欧の地でセンセーションを巻き起した訳である。

 150年、この時間が長いか短いかは様々な見方があ

るだろうけれど、その長短を云々する前に一つ言える事

は、150年前という過去の一時点を顧みるにおいて、

それは自分とは全く関わりのない或る歴史上の時点と、

誰もが無意識裡に思っているだろう事である。しかしそ

れは上述した通り、例えば現在還暦前後の人から逆算す

れば、たかだか曽祖父母の生まれた頃に過ぎない。もう

一世代下がって30前後の人から見たとしても、やはり

たかだか曽祖父母の親が生まれた辺り、そう考えてみる

と、現在の私達とはそうかけ離れた時代ではない、それ

は意外と「近い」時点なのである。ただ、そのわずか五

世代の間に、古い体制の崩壊があり、維新によって新た

な国体が誕生し、急激な富国強兵を経て、二度の大規模

な大戦があり、戦後の復興と目覚ましい成長の果てに、

経済の急落による低迷の時代が来た、そのような近現代

特有の急速な社会変移による、高密度な時事変事の凝縮

ゆえに、150年5世代という時間の間隔は、より引き

伸ばされて感じられるのだろう。だから美術館の浮世絵

展に際しても、私達は遥かな過去の美術遺産としてそれ

を見るだろうし、おそらくは学芸員諸氏もまた同様に、

現代とは隔絶した視点でそれを論ずるに違いない。しか

し「パリ万博から150年のジャポニズム」と自らの展

示に冠した時、牧野さんは150年という時間を、その

ように見てはいないだろう。何しろ牧野さんが若き日に

教えを受けた刷師には、祖父が広重を刷っていた人も居

たというのだから、牧野さんにとって150年前という

時点は無論の事、もう少しさかのぼった広重や北斎の時

代でさえも、先輩を少々たどれば直ぐにでも行き着くよ

うな、極めて身近な時間なのだと思う。きっとこの時間

感覚は、伝統木版の現場を生きて来た者だからこその感

覚であろうし、よって浮世絵を研究対象として外側から

見ているだけの学究連にとっては、決して解し得ないも

のだろう。ただ、この時間意識を抜きにしては、牧野宗

則という稀有の版画家は語れない。150年という距離

を手が届きそうなほど近くに体現し、その矜持も技術も

ダイレクトに継承して現在へとつなげ、それを過去に死

せるよりは現在に生きる方法論として発展させて、遂に

は伝統を遥かに超える地平にまで到った、牧野宗則はそ

ういう版画家なのである。ならば、150年前のヨーロ

ッパを吹き荒れたジャポニズムの風は、版画家の中では

ついこの間吹いた風であり、のみならず現在も颯々と吹

き渡っているに違いない、衰えざる未来への風として。

かつて西洋美術を揺るがしたあの奇跡のジャポニズム、

それは牧野さんの中で、未だ終ってはいないのである。

 

 昨秋から今年初頭にかけて、東京都美術館においてゴ

ッホ展が開催されたが、またしても行けないで終ってし

まった。「またしても」というのは、今まで数々の機会

があったにも拘らず、未だ行けないでいるからである。

作品は諸所で見ているにせよ、ゴッホ「だけ」の個展は

見た事がない。一度見たいものだと思いながら、また機

会を逸してしまった。あの物見遊山の行列を見るだけで

腹痛を起しそうになる私の性癖もいけないのだが、それ

でも見てやるぞという覇気と戦意に欠けるのも事実で、

このままでは一生見られずに終るかも知れない。話が逸

れたが、今回の展覧には「巡りゆく日本の夢」という副

題が付いていて、しかもその第1部は「ファン・ゴッホ

のジャポニスム」というテーマである。パンフレットを

見るとあの花魁の模写も出品されたようで、少々その出

来には無理があるとしても、如何にゴッホが浮世絵を敬

愛していたかが、その懸命な筆運びからも窺い知れる。

周知のようにゴッホのみならず、当時の先鋭的な画家は

ことごとくその影響を受けた訳だが、具体的に何がそれ

ほどの衝撃をもたらしたのかについて考えてみるのも、

無駄ではあるまい。ゴンブリッチ著「美術の物語」には

「印象派の勝利は、二つの援軍がなかったならば、これ

ほど速やかな徹底したものにはならなかった筈だ」とい

う提起があり、援軍の一つが「写真」であった事が論じ

られた後に、以下のような論考が続けて記されている。

 

 印象派が新しいモチーフと色使いを求める冒険の旅に

出た時、第二の援軍となったのが日本の浮世絵だった。

中国美術から発展した日本の美術は、およそ1000年

に亘ってその路線を歩み続けたが、18世紀になると今

までの伝統的なモチーフを離れて、庶民生活に取材した

色刷りの木版画を作るようになった。それは極めて大胆

な発想と、磨き抜かれた完璧な技術から生れたものだっ

たが、当時の教養ある趣味人達は、そういった安物の版

画をあまり評価しなかった。19世紀半ば、日本は欧米

と通商条約を結ばざるを得なくなり、その折に輸出品の

包み紙や詰め物として使われたのが浮世絵で、結果ヨー

ロッパの茶葉販売店等において、それは安価で手に入る

ようになった。その美しさにいち早く気付いたのがマネ

や周辺の画家達で、彼らは浮世絵を熱心に蒐集した。折

しもアカデミーの約束事や紋切り型を抜け出すのに苦労

していた最中で、そんなものには全く毒されていない浮

世絵を見ていると、自分達がそれとは気付かぬままに、

如何にヨーロッパの伝統を背負わされていたかが分った

のである。日本人は、因習に囚われない予想外の視点か

ら世界を眺めて楽しんでいた。北斎にせよ歌麿にせよ、

ヨーロッパ絵画の基本法則がこんなにも大胆に無視され

ている事に、彼らは強い衝撃を受けたのである。そして

この基本法則こそが、知識が視覚を支配する古い伝統の

最後の隠れ家であった事に(ならばその隠れ家を出れば

その先に自由がある事に)彼らは気付いたのであった。

 

 前回も印象派について書いたので、その補遺のように

なりつつあるが、彼らが色彩追求の果てに点描法に到っ

た事は、その折に言及した通りである。それは絵具の減

法混色(混色する程に暗くなってしまう現象)を避ける

ために案出された技法で、色を混ぜないで細かい点にし

て並べれば、離れて見たら混色して見えるという、一種

の錯覚を巧みに用いたものであった。つまり、青い点と

黄色い点を沢山描いて遠くから眺めれば、緑色に見える

という訳である。しかしこの技法は、必然的に画風が点

描に制限される事になり、結果その合理的な方法論ゆえ

に、自らの発展を閉ざす仕儀となった、以降の美術史を

たどればそれは明白だろう。対して、牧野さんの多色刷

りをその理論的側面から、私は昨年このように記した。

 

「多色摺り」という伝統木版独自の工程ゆえ、結果的に

牧野さんも点描派と同じ「色彩分割」の方法を取る。た

だ、ここからが版画表現の特質なのだが、点描派がその

名の通り色を「点」に分割するのに対して、牧野さんは

版画という技法の性質上、色を「版」に分割する。つま

り点描派が色点を「横に並べる」のに対して、牧野さん

は色層を「縦に重ねる」事になり、ここに同じ表現を希

求しながらも180度異なる、全く対照的な方法が誕生

したのである。色点を横に並べて光を表現した印象派の

画家達、片や色層を縦に重ねて光を表現した稀代の木版

画家、さて、どちらの方法がより可能性を宿し、未来に

開かれた方法であったか、それは前述した点描派の停滞

を振り返った時、言うまでもない事ではないだろうか。

 

 上記に補足すると、点描法のより精妙な展開を求めれ

ば、点を細密化する他ない。しかしそれにも限度がある

から、方法上の発展はそこで止まるのである。ならば多

色摺りはどうか。それはこれまでの牧野さんの歩みが、

その可能性をそのまま物語っていると言える。かつての

浮世絵では10度程度が限界であった摺り度数を、徐々

に20度・30度と拡大して、ついには50度を超える

驚異的な重ね摺りへと到った、その足跡そのものが「色

層を縦に重ねる」という多色摺りの開かれた可能性を、

正しく立証しているだろう。それは色彩表現の多様性・

自由度という観点から見れば、正に肉筆画を超えた版画

ならではの成果と言える。そして、現に今も牧野さんが

新たな挑戦を続けているように、未だにその可能性は、

未来へと開かれているのである。斯様な「版」による色

分解は、どんなに特筆してもし過ぎる事はないだろう、

印象派の誰もが出来なかった事を、牧野さんは可能にし

たのだから。ただ、ここには大きな難点が付きまとう。

技術力の問題である。それだけの多色摺りを可能にする

ためには、伝統木版の高度に磨き抜かれた技法を修得し

なければならない、それには長い雌伏の歳月が必要とさ

れるだろう。それに耐え得る強靭な雄志の人才は、残念

ながら、現状では未だ出現していない。「牧野の前に牧

野なし、牧野の後に牧野なし」と言われる所以である。

 

 さて150年前、あれだけの激震を西洋に与えたのが

浮世絵という「版画」であったのに、その影響下で開花

した印象派の革新は、油絵という「肉筆」で成された。

版画による印象派の表現は、ついぞ無いままに終ったの

である。片やあれだけの影響をもたらした浮世絵は、そ

の後無念にも衰退の一途をたどった。一時川瀬巴水や吉

田博等の新版画が注目され、海外でも人気を博したと聞

くが、おそらくオリエンタリズムの域を出るものではな

かったろう。ジャポニズムとオリエンタリズムは違う。

前者は時代を揺るがす潜在力を孕むが、後者は異国趣味

の一種に過ぎない。こうして150年を顧みると、牧野

木版とはかつての印象派が成し得なかった、版画による

印象表現の新たな展開とは言えないだろうか。それは同

時に浮世絵という伝統技法に今一度息を吹き込み、更な

る可能性を拓いた、独創的な革新でもあった。こうして

今150年の時を経て、西洋の印象派と日本の伝統木版

は、牧野宗則という稀有の接点で、新たなる再会を果す

のである。ジャポニズムの風は、未だ止んではいない。

 

                     (18.01.18)