No.793   Acryl on paper / 91x67cm
No.793   Acryl on paper / 91x67cm

画廊通信 Vol.179             踊り続ける

 

 

 2008年からの開催となる「わたなべゆう展」が、今期で遂に第10回を迎える。この記念すべき節目に臨んで、何を書けば良いのか色々と考えたのだが、こんな時こそ今一度、ゆうさんの原点を語るべきではないかという結論に到った。よって以前に書いたものを再度繰り返す事になるが、作家ご自身の証言も随時交えつつ、以下に記したいと思う。物語は1960年代から始まる。

 

 約半世紀をさかのぼって、その時代を表象するアイテムを問われた時、迷わず「ライク・ア・ローリング・ストーン」と答えたとしたら、それに異を挟む者はいないだろう。言わずと知れたボブ・ディランの名曲がリリースされたのは1965年、上流階級の令嬢が転落してゆ

く様を「まるで転がる石ころのようだね」と皮肉ったそ

の歌は、いつしか本来の意味を離れた暗示的な解釈を呼

んで、やがて60年代を象徴する伝説となった。印象的

なオルガンのリフに乗せた「How does it feel ? ──ど

んな気分だい?」という問いかけを、当時の若者は意識

変革のメッセージと受け取り、Like a Rolling Stone と

いう言葉に、来たるべき新しい時代を重ねたのだろう。

 60年代、それは動乱の時代だった。一介のシニカル

なフォークロックを、本人の思惑を超えた先鋭的なメッ

セージ・ソングに変貌させるほど、時代は激しく変革を

求めていた。ケネディの歴史的な大統領選で60年代は

幕を開け、翌62年にはキューバ危機が勃発、63年の

ワシントン大行進で公民権運動が頂点に達する一方、同

年秋にはテキサス州ダラスにおいて、ケネディは非業の

死を遂げている。その間アジアでは、ベトナムの内戦が

東西陣営の代理戦争と化して混迷を極め、65年の北爆

開始で、更なる泥沼の様相を呈してゆく。片やそんな世

の趨勢に抗うかのように、反戦運動を発端として集った

若者達が、社会のあらゆる既成価値を否定したライフ・

スタイルを提唱し、それは一国を超えた世界的な動向へ

と拡大して行った。いわゆるヒッピー・ムーブメントで

ある。前述したディランの名曲は、正にそんな動乱する

時代の真っ只中に登場したものだったと言えるだろう。

 今こうして歴史を顧みれば、この若者を中心とした変

革の動勢は、アメリカのみならず国際的な潮流だった事

が分る。68年、フランスでは学生と労働者による「五

月革命」が、同年当時のチェコスロバキアでは「プラハ

の春」と呼ばれる改革運動が、そしてここ日本でも、新

たな安保闘争を展開する諸派の学生達が、機動隊との衝

突を繰り返していた。そしてヒッピーの一大祭典となっ

たあのウッドストック・フェスティバルで60年代が幕

を下ろす頃、デニス・ホッパー監督の「イージー・ライ

ダー」が日本でも公開され、それを憑かれたように十数

回も観たあげく、何を思ったか日常の安寧を残らず投げ

捨て、決然と荒野をめざした一人の青年がいた。肩より

長い髪に破れたジーンズ、時代の空気を一杯に吸い込ん

で、おそらくその眼には異様な光を湛えていたであろう

若者、彼の心にもまたあの自由と解放の風が、鬱然と吹

き荒れていたのかも知れない。それから数年の間、彼は

社会から一切の消息を絶ち、野を山を海を島を、たった

独り延々とさまよい歩いた、まるで転がりゆく石くれの

ように (ライク・ア・ローリング・ストーン) 。

 

 後年ゆうさんは「彼は誰時(かはたれどき)」と題し

た自伝風の随想に、「彼」という三人称を用いて、自ら

の放浪の日々を回想している。一部を抜粋してみたい。

 

「彼はすべてを捨てる事にした。どうしてもそうしなけ

ればいけない気がしていた。社会という大きな歯車の中

で、そのまま時間が過ぎてゆくのがたまらなかったし、

あらゆる価値・制度・つながりを捨ててみる必要を感じ

ていた。そうしなければ本当の自分に出会えないように

思えた。その頃住んでいたアパートの窓から、すべてを

外に投げ捨て、家族・友人とも音信を絶つ。そしてその

日から5年間ほど、日本国内をさまよい歩く事になる」

 

「山に入り森の中を歩き、草の上に寝た。海にもぐって

魚を追いかけ、神社や寺の庭に寝て蚊に悩まされる。有

明海の海岸で、目のとび出した魚達を見たのもこの頃だ

ったし、ある海岸にぶら下げられていた沢山の白い魚の

美しさに感動して、一日中見ていたのもこの頃だった。

風のニオイで春を知り、夏は突然やって来た。秋は、昔

の事を思い出すのでそれと分かる。冬の寒さは、月あか

りで出来る影が凍っているのを見て知る。このように季

節を体中で感じられたのは、何年ぶりの事だったろう」

 

「色々な島に渡る事が多かったようだが、時々町の中で

彼を見かける事もあった。新宿動乱の夜の、新宿駅近く

の路上。交差点をへだてた全学連と機動隊が、今まさに

投石と催涙弾の戦いを始める直前の不思議な静けさの中

を、頭陀袋を担いだ彼は、行く当てもなく歩いていた」

 

「あるひなびた漁村の、片足の不自由な海女さんの『海

にもぐっている時はすべての辛い事を忘れられる』とい

う単純な言葉の重さ。そして朝ご馳走になった、ワサビ

の茎のお茶漬けの素朴な旨さ。やせた土地の上を吹く冷

たい風を受けて、背中を丸め独り言を言い、時々ニヤリ

と笑いながらふり返る老婆。生まれもった土の上をはい

ずり回る人間の存在感…。彼の心の中に残ったものは、

その土地に生まれ生き続ける人間の忍耐強さと静けさ、

一つの事を淡々と続けるすさまじいエネルギーだった」

 

 以上、幾つかを抜粋させて頂いたが、どの文章からも

現地に膚で触れ体験した者としての、痛切な身体感覚が

伝わって来る。当時、時代の風に促され流浪の旅を目指

す若者は多かったと聞くが、その大半は生半可なヒッピ

ーの真似事に過ぎなかったろう。しかしゆうさんのそれ

は彼等とは全く次元を異にしたもので、何年もの間完全

に行方をくらまし、社会機構からドロップアウトしてし

まうという、極めて本腰の入ったものであった。新宿の

夜の記述には、そんな若者の切実な心情が滲んでいる。

 一触即発の緊迫した空気、にらみ合う体制と反体制、

ゆうさんはそのどちらにも与しない。主義主張を掲げて

アジテートする学生達も、それを押しつぶそうとする国

家権力も、いずれにせよそれは群れ集う「マス」である

事に変りはない。ゆうさんはその中で徹底して自らの内

奥を見つめ、ひたすらに「パーソナル」を貫いている。

暴力の予感が充満する、爆発の臨界点ギリギリの戦場の

中を、独り頭陀袋を担いで黙々と歩き往く青年、その姿

はそのまま「芸術」というものの在るべきスタンスを、

我知らず体現していたとは言えないだろうか。所詮芸術

とは徹して「個」であるべきだろう。如何なる状況であ

れ、創って送り出す「個」とそれを受け止める「個」、

その両者の出会うフィールドにしか、本物の芸術は生ま

れ得ない。その原理を画家は若年より生き方の根本に据

え、見えない答えを必死に探し求めていたのだと思う。

 長い漂泊の果てに、青年は都市の掃き溜めのような、

治外法権の街にたどり着く。ドヤ街と呼ばれたこの特殊

な無法地帯で、日雇いの港湾労働に明け暮れる日々、し

かしこの過酷な歳月がいつしか濃密な揺籃期となって、

画家・わたなべゆうを育んで行った。放浪の末に掴んだ

そんな自らの「答え」を、画家は後にこのように記して

いる──破壊や拒否や逃避では、本当の自由は得られな

いし解放もされない。社会からも組織からも、権威から

もまたは文化からも逃れられないのなら、その中に身を

置きながら、自身の表現を解放させていく以外にない。

その質の高さによって自由を得る道も開けるのだろう。

 

 十数年を経た30代半ばに、いよいよ作品の発表が開

始される。それから数年もしない内に、上野の森美術館

大賞・日本IBM大賞を初めとした数々の賞を立て続け

に受賞、それは当時の最高峰と謳われた安井賞の受賞で

頂点に到り、一気に「わたなべゆう」の名は全国に知れ

渡る事となった、以降の活躍は改めて記すまでもない。

当時の新聞に、制作技法に関する安井賞作家のこんな一

言が残されている──「何の教育も受けてないからやり

たい放題よ」、かねてより名うてのアウトロー・稀代の

個性派として知られていたゆうさんの、面目躍如たる言

葉である。これも当時の発言から──「いつまでも絵を

可愛がっていては、本物に近づけない。偽物が技術だけ

で百年残るよりも、今見て感動するものが五年で壊れた

方がいい。感動は百年残るから」、近年の流行作家にで

も、聞かせてあげたくなるような名言ではないか。むろ

んゆうさんの作品自体は、50年を経てもびくともしな

いような堅牢さを保つが、それでもあえて「たとえ五年

で壊れたとしても、今見て感動する本物でありたい」と

言い切るところに、常に「今」という状況と対峙し続け

る、現代作家としての強靭な覚悟がうかがえる。それか

ら四半世紀近くを経た現在でも、作家の根幹を貫くその

信条は、おそらくは微塵も揺らぐところがないだろう。

 How does it feel ? ──かつてボブ・ディランがこう

呼びかけた時代に、青年はここではない何処かを求めて

転がりゆく石くれのように転々と旅を続けた。そして、

その何処かとは幻想に過ぎないと知り得た時、青年は今

を暮らすこの地に生きる事を選んだ、何処かに「転がり

ゆく」のではない、ここで「踊りゆく」事を。ゆうさん

と出会った頃の個展カタログに、画家はこう記している

──「(日々) 画面の上で、天候に左右されながら農耕を

やっている。今日もいい天気だ…」、たぶんゆうさんに

とって農耕とは、生命の舞踏に他ならない。この言葉を

聞いていると、ディランの問いかけから数十年を経て、

ゆうさんはこう答え得たのだと思う── Feel so good !

 

 初回展から10年、色々な事があった。私などはその

初回展の最中に緊急入院となってしまい、しょっぱなか

ら作家には大変な迷惑をおかけした、それも今や懐かし

い思い出だ。そんな話はどうでもいいとして、その数年

後には反対にゆうさんが体調を崩されて、展示会を見送

った年もある。曖昧な希望だけでは済まされない諸事も

あったろうし、それらを背負って歩まざるを得ない状況

もあったろう、しかし、いつ如何なる時でもゆうさんは

徹して「画家」であった。徹して画家であるという事は

如何なる時も描く事をやめない、という事であった。た

とえどんな状況であれ、目前の絵の中に生きて、耕し、

育み、温かな大地の色を与え、躍動する描線を刻み、豊

穣の実りをもたらす、そんなたゆまざる魂の舞踏を、ひ

たすらに踊り続ける事であった。スランプにはならない

のかとお聞きした事がある。ゆうさんはこう答えられた

──「なった事もないよ、そんな高級なものは。スラン

プって事は、良い時があったんだろ? そんなものはな

かったから悪い時もない、いつも同じなんだよ。メシを

食うように、酒を飲むように、絵もそうやって描いて来

たんだ。メシを食うのにスランプなんてあるかい?」、

単純な事さ、描くとは生きる事じゃないかと、当然のご

とくそう言い切れるのが「わたなべゆう」という画家で

あり、だからこそ生み出せるのだろう、あのような命み

なぎる絵を。10年目を迎えて今言える事、これからも

ゆうさんはしなやかに踊り続けるだろう、命ある限り。

 

                     (18.05.07)