あのブルースを聴きながら (2015)  3F
あのブルースを聴きながら (2015)  3F

画廊通信 Vol.180       ジャスト・ア・ジゴロ

 

 

 あくまでも私見だけれど、中佐藤さんの絵にはセロニアス・モンクの音楽が良く似合う。クラシックの世界にも、例えばエリック・サティといったような一風変った人は居るから、探せばぴったりの楽曲は色々と出て来るだろうが、やはりモンクだ、これ以上の人は思い浮ばない。少々ジャズを囓った人なら、セロニアス・モンクの一・二枚は持っておられる事と思うが、しかし「何だか変だ」という一事で理解したような気になってしまい、本当にその音楽を聴き込んでいる人というのは、意外に少ないのではないだろうか。確かに変っている。その一点で言うのなら、個性派ジャズ・ピアニストは数多かれ

ど、この人にかなう人は居ないだろう。もしどのぐらい

変かをお知りになりたいのであれば、これも私見ながら

「バグズ・グルーヴ」というアルバムをお薦めしたい。

 これは、ご存じマイルス・デイヴィスの初期を代表す

る名盤だが、当時の新鋭スター奏者が一堂に会したよう

なセッションだから、自然お互いの腕比べのような状況

となって、各自が気合の入った熱演を繰り広げている。

この盤の一曲目だけでもいいから、興味ある方は是非じ

っくりと聴いてみて欲しい。哀調を帯びたテーマが繰り

返された直後、マイルス・デイヴィスのソロが始まる。

リーダーらしい貫禄を湛えた輝かしい演奏で、いわゆる

ハード・バップの王道をゆくような、整然とした模範的

ソロである。続く2番手はミルト・ジャクソン、ここで

いきいきと展開されるヴァイブ・ソロは、当アルバムの

白眉だろう。その機知に富んだフレーズが淀みなく次々

と繰り出される様は、見事としか言いようがない。そし

て3番手、ソロはさりげなくモンクへと受け継がれるの

だが、演奏が進むにつれて徐々に空気が変って行く。何

と言おうか、先発2人がせっかく盛り上げた熱気ある健

康的な音場が、いつしか奇妙に冷めたシュールな異空間

へと変質するのである。何しろ、通常なら10音ほどは

発するだろうと思われる間に、モンクは3~4音も出さ

ない。過激なほどに少ない音数で訥々と綴ってゆく、そ

の極めて異質なソロを聴いていると、実際下手なのか本

当は上手いのか、それ以前にこの人には常識というもの

が働いているのかどうか、その辺りが皆目分からない。

よく言えばユニーク、別な言い方をすれば奇妙奇天烈、

しかし一曲を聞き終えてみると、何故かしらその変哲な

演奏を、また聞きたくなるから不思議だ。よってもう一

度最初から聴き直し、来るぞ来るぞとワクワクしながら

その登場を待ち望み、あの朴訥とした単音が聴こえて来

た瞬間、やっぱり変だとほくそ笑む、その時すでにその

人は、我知らずモンクの術中にはまっているのである。

 

 さて、この「変っている」と感じる原因は何処にある

のだろう。前述した如く、少ない音数もその大きな要因

ではあると思うのだが、それだけを問題にするのなら、

例えばカウント・ベイシーのような正統派だって、モン

クに勝るとも劣らない極めて節約した音使いをする、け

れど「変」とは感じない。はてこの違いは何かと考えた

時、結局その最大の要因は、使っている「言語」の相違

に尽きるのではないだろうか。ジャズが即興による演奏

であるとは誰もが知る常識だが、しかしその即興によっ

て生まれるフレーズは、個々人が一から作り出している

訳ではない。これはどんな芸術も先例を基点にするのと

同じで、即興とはいえその基になっているものは、先人

達が作り出したフレーズであり、その「慣用語」とも言

うべきおなじみの言い回しを用いつつ、そこに独自の要

素を加えて行ったものが、その演奏家のオリジナリティ

ーとなる訳である。よってそこには、個性は違いつつも

互いに共通の言語があり、だからこそ彼らは即興演奏に

おいても、親密な会話を可能にしているのだと言える。

これは先述のアルバムにおけるマイルス・デイヴィスも

ミルト・ジャクソンも同様で、共にバップ・フレーズと

いう当時の共通言語を用いているが故に、その演奏は安

定した秩序を保つのだろう。対してモンクは、その共通

言語を持たない。その打鍵から生み出されるものは、先

人の誰も使った事のない全く独自のフレーズであり、正

にそれこそが、聴く者に「変っている」と感じさせる最

大の要因なのだと思う。つまりセロニアス・モンクとい

う演奏家は、他の数多ある奏者とは話している「言葉」

そのものが違うのだ、そんな結論に到らざるを得ない。

 

 長々と余計な話をしてしまったが、そんなモンクの音

楽が良く似合うという事は、中佐藤さんの絵も同様に変

なのだと、そう言いたい訳ではないので念のため。ただ

「変」とは言わないまでも、巷に溢れる毒にも薬にもな

らない絵画群と比較した時、特有の奇妙な雰囲気が際立

つのもまた事実だろう、思うにそれは「中佐藤滋」とい

う画家の体臭のようなものだ。クールなモダニズムを基

調としながらも、何処かしらシュールなノスタルジアが

漂い、見ているといつしか過ぎし日の、ほの暗く浮ぶレ

トロな追憶に遊んでいる。気が付くといつの間に、モン

クのソロ・ピアノが寂しげなモノローグのように流れ、

欲を言えばそこに少々クセのある一杯のシングル・モル

トが有って、ついでにオイル・サーディン(マスタード

漬けが美味である)でもさりげなく添えられていたら、

後はもう何も要らないのだけれど……、失礼、詰まらな

い妄想癖があるゆえ、話がつい横道にそれたが、そんな

独特の雰囲気を湛える中佐藤さんの世界に、モンクの創

り出す何処か奇態な音像が、実に良くマッチするのであ

る。その所以を考えてみる時、おそらくはモンク同様中

佐藤さんもまた、制作の上において共通言語を用いない

故であると言ったら、牽強付会に過ぎるだろうか。あな

がちそうとも言い切れないのである、近代絵画の歴史も

また、共通言語からの脱却に他ならなかったのだから。

 

 話は150年ほど前に飛ぶが、当時のサロンにマネが

「オランピア」を出品して大きな物議を醸したのは、よ

く知られた史実である。が、あらためて当の作品を見直

してみると、別にどうという事もない。むしろ、この作

品の何処がそれほどセンセーショナルだったのかと、却

って理解に苦しむ。この絵はティツィアーノの「ウルビ

ーノのヴィーナス」を踏襲して描かれたものと言われ、

裸婦のポーズも絵画の構図も、なるほど同じようなもの

である。両者共にウェブ上で簡単に見られるから、出来

れば是非ご比較願いたいと思うのだが、さて、両者同等

のシチュエーションに在りながら、何故に片方は問題な

く名画の誉れを受け、片方は世の紳士淑女達から「けし

からん」と、囂々の非難を浴びなければならなかったの

か。答えは簡単である、片方は「神話の女神」であり、

片方は「現実の人間」だったから。何とも馬鹿らしい話

で、そもそも西洋神話を知らない私達から見れば、いず

れにしろ同じ裸婦なんだから、そんなものどっちだって

いいじゃないかというレベルの話だ。しかし伝統あるヨ

ーロッパ社会にとっては、そうではなかったのである。

 美術史を繙いてみると遥か中世の昔から、西洋絵画と

いうものは聖書や神話の一場面、或いは、よく知られた

歴史上の出来事を題材として来た事が分る。むろん画家

や工房によって画風は違ったにせよ、ただ一点その題材

の取り方、加えてその題材の意味するもの、それは皆が

遵守すべき自明の様式として、幾世紀にも亘って機能し

て来た。反対に言えば、その様式さえ踏まえていれば何

をやっても良かったと見えて、例えばカバネルの「ヴィ

ーナスの誕生」に見られるようなほぼポルノまがいの表

現でさえ、神話という大義名分さえあれば問題にもなら

なかったのである。ちなみにカバネルのヴィーナスは、

先の「オランピア」とほぼ同時期に発表されており、私

達から見ればよほど控えめなマネの方が散々な酷評を浴

びている訳だから、西洋美術においてこの様式というも

のが、如何に根強いものであったかが分る。換言すれば

ここで言う「様式」とは「共通言語」に他ならない。つ

まりマネの物議の本質とは、言語の相違にあったのであ

り、実はその共通言語の破壊こそが、マネの本意だった

と言える。だから巻き起った非難の嵐は、マネ自身にと

ってはむしろ望むところだったろう。所詮どの分野にお

いても真の革命とは、旧来の言語を破壊し新たな言語を

打ち立てる者だけが、成し得るものではないだろうか。

 

 どの時代にあっても、よって現在においても、この共

通言語というものは何処かに発生し、強い集結性を持つ

ものらしい。同じ言語の人々はやがて集団を作り、権力

を持つから、付和雷同の輩は皆その傘下に群がる。そう

して「派」が出来て「会」が生まれ「画壇」が形成され

る、本邦の美術界は未だそのような仕組みで成り立って

いる。一例として、よく日本画の定義が問題となるが、

それは使用する絵具云々の話ではない、絵具も技法も師

弟も門閥も、それら全てをひっくるめた共通言語こそが

日本画を貫いて来た定義であり、それ故にそこからは真

の革新者が出にくい。比較的新しい傾向としては、若手

作家に顕著な写実派の流れもまた、今や一つの共通言語

下にあるように思える。その作品を見る限り、彼らの多

くは同じ言葉を話し、同じ地平に身を置いている。そん

な状況下あらためて振り返ってみた時、別に自画自讚を

するつもりはないけれど、当店にはそのような共通言語

を用いる作家が居ない。皆それぞれが、自分だけの言葉

で自分だけの表現を成し得ている、中佐藤さんもまた。

 こうして長い紆余曲折の末、話は中佐藤さんに戻る訳

だが、やっとそのユニークな世界を論じようという段に

なった辺りで、早くも誌面は残り少ない。しかし考えて

みれば、中佐藤さんの遊び心溢れる世界を前に、しかつ

めらしく知ったような理屈を並べてみたところで、何処

か白々しく仰々しい。作家ご本人にしても、大仰な論評

は望まないに違いない。ただその世界に遊び、その世界

を彷徨する、それだけで、画家は汲めども尽きない妙趣

を見せてくれるだろう。紛れもなくそこには、中佐藤さ

んだけの言葉で描かれた街が、人が、静物が、かつて誰

の絵にも無かった表現で息づいている。そしていつの間

にその路地に分け入り、古いカフェの朽ちかけた扉を開

ける自分に気付いたとしたら、その人はもう中佐藤さん

と同じ言葉を話す、ワンダーランドの住人なのである。

 

 かつてモンクは「ジャスト・ア・ジゴロ」という古い

歌謡をこよなく愛し、よくステージで演奏した。この曲

を弾く時だけは、いつもソロだった。ジャズ・クラブの

片隅で、独りスポットを浴びて弾き綴るその曲は、とて

も寂しく孤独だけれど、何故かしら温かい。その訥々と

した独り語りのような演奏を聴いていると、いつしか中

佐藤さんの絵に登場する、中年の冴えない紳士が脳裏に

浮ぶ。どう見ても女性には縁の薄そうな紳士、かと言っ

てそれを哀しんでいる風でもなく、ともすれば孤独を楽

しんでいるようにも見える。それが何を思ったか、ニヒ

ルに微笑んで「どうせしがないジゴロさ」とうそぶく、

女っ気などかけらも無いくせに……、ついそんな情景が

浮んでしまうのである。頭上にはわびしく揺れる電球の

傘、卓上には紫煙をくゆらす吸いさしのタバコ、その脇

には飲みかけのグラスがあって、暗がりからやぶ睨みの

猫がヌッと顔を出す、バックには低く流れるジャスト・

ア・ジゴロ、もう一度言うけれど、後は何も要らない。

 

                    (18.06.08)