フィルム・スプール 鉛筆 / 17.6x10.0cm
フィルム・スプール 鉛筆 / 17.6x10.0cm

画廊通信 V0l.181        真夏のイリュージョン

 

 

 去る5月の末頃、開店してほどなく一人の青年が来店した。20代後半ぐらい、少々派手なファッションの、当店ではあまり見ないタイプの若者である。「北千住の〇〇さんに聞いて来た。世田谷で美容室をやっていて、この作家の絵を店に飾っている。このぐらいのやつ」と展示作品中で一番の大作を指差した。彼の口にした名前は初耳だったが、数多いファンの一人なのだろう。「〇〇さんはウチの客で、前からこの画家のファンだったみたい。それで店を出す時に、この画家を薦められて買ったわけ。今度2号店を出す事になったから、もう一枚欲しいと思って来てみた。今度は壁がそんなにないから、もっと小さい絵がいいんだけど」、そんなお話である。「高級志向でカットが1万円、指名はプラス5千円、高いんです」との事、そんな高額散髪があるのは知らなかったが、以前美容室に関係していた事もあり、全く縁のない世界ではなかったもので「そう言えば昔、カリスマ

美容師のブームがありましたよね。原宿の『ACQUA』

とか…」と、わずかな知識を披露したら「そうそう、僕

そこで働いてたんですよ」という訳で、何だか話が合っ

てしまった。しばらく絵を見て回った後「これいいです

よね。じゃ、これにします。ただ、これから大網まで行

かなきゃならないんで、ちょっと置いといてもらえます

か? 帰りに取りに来ますんで。金だけ払って行っちゃ

いますから…、あれ? あれっ?」と、何事かせわしく

周囲を見回して「僕白いバッグ持ってましたよね?」と

聞く。「いや、その黒いカバンだけでしたよ」と答える

や否や、突然アアーッ!と叫んで頭をかきむしると、青

年外へ飛び出してしまった。一体何が起きたのかと表へ

出てみたら「どうしよう、タクシーでここまで来たんだ

けど、もう一つのバッグを忘れて来てしまった」と真っ

青な顔をしている。「財布もケータイも仕事の道具も、

みんなそっちに入ってるんです。ウワッ、どうしよう」

と、地団駄踏みながら「そうだ、ケータイに電話してみ

ます。ちょっと電話貸してもらえますか」と言うので急

いで子機を渡すと、早速携帯に連絡を入れている模様、

しばしの沈黙の後「ワッ、運転手さんが出ました!」と

叫んだ。「もしもし、それ僕のバッグなんです。そうそ

う、さっき乗ってた僕、忘れて来ちゃって。悪いんだけ

ど、すぐに持って来てもらえます? そう、さっき降り

た西千葉の画廊……え? 今お客さん乗せて松戸に向っ

てるから、こっちに来るのは12時半頃になる? 困っ

たなあ、1時までに大網に行かなきゃならないんで、そ

の時間じゃ間に合わないんすよ。何とかなりませんか?

ならない? ウワーッ、困ったなあ…。とにかく、また

電話しますから」、電話を切ると「どうしよう。結婚式

のセットを頼まれていて、僕が行かないとその人、結婚

式に行けなくなっちゃう。でも、届くのが12時半じゃ

とても間に合わないし…。仕事の道具も全部あっちのバ

ッグに入ってるんです。幕張のドンキに行けば売ってる

んだけど、お金もあっちのバッグだし…」、そわそわと

店内を行ったり来たり、一縷の望みをかけて再度タクシ

ーに電話をしたはいいが、やはり今すぐは行けないと断

られたようで、仕舞いには「どうしよう、どうしよう」

と涙目になって、唇もワナワナと震えている。「それな

ら、今少しは持ち合せがありますから、とりあえずそれ

で必要な道具を買って、大網まで行って来ればどうです

か? どうせ12時半にはバッグが届くんでしょう?」

と提案したところ、青年激しく両手を振って「とんでも

ない、とんでもない、今日会ったばかりの人からお金を

借りるなんて絶対ダメです。これは僕個人の問題だから

迷惑はかけられません」、そう断固たる拒否をした。し

かし、それにしては何の解決策も出て来ない模様、ただ

不安げに歩き回るばかりなので、再度先刻の提案をして

みたのだが、やはり「とんでもない」と拒絶する。結局

そんなやり取りを4~5回ほど繰り返しただろうか、や

っと「じゃ、お言葉に甘えてもいいでしょうか」という

事になって、財布を見たらたまたま5万円入っていた。

「これで足りますか?」「セットの器具で〇〇と〇〇と

〇〇を買って交通費を足しても、それだけあれば充分で

す、財布が届いたら即返しますから。38万円入ってる

んで、さっきの絵の支払いをしても十分足りますよね。

ホント申し訳ありません」、床に着きそうなほど深々と

一礼して金を受け取り「すみませんけどタクシーが来た

ら、僕の財布からタクシー代払っといてもらえますか?

仕事を済ませて、4時頃には帰れると思います」と言い

置いて、脱兎の如く画廊を飛び出して行った。さて、そ

の日待てどもタクシーは来なかったし、青年も二度と戻

っては来なかったという顛末、誠にお粗末な話である。

 

「典型的な寸借詐欺ですねえ」、警官に事情を話したと

ころ、気の毒そうな顔でそう告げられた。オレオレ詐欺

等々よく耳にする話ではあるし、現に騙されたという知

人も居るのだが、正直言って何故騙されてしまうんだろ

うと、むしろそちらの方が不思議なぐらいだったから、

まさか自分が餌食になるなんて、夢にも思わなかった。

「芸術は直感を磨く。磨かれた直感は芸術以外の場合で

も、同様にその力を発揮する筈だ。よって人間を見る時

もその直感に従えば、決して間違う事はないだろう」、

今まで何人ものお客様に、そんな持論を豪語していた訳

だから、恥ずかしいったらありゃしない。後になって思

い返せば、話の中に辻褄の合わない箇所は、多々散見さ

れる。世田谷で高級美容室を経営する人間が、大網白里

くんだりまで出稼ぎに行くというのも変な話だし、美容

の専門機器がドン・キホーテに売っているという件にし

ても、冷静に考えれば笑ってしまうような話だ。他にも

縷々省みれば、脇の甘い嘘話は色々と出て来るのだが、

所詮どう検証しようとも全ては後の祭りである。いずれ

にせよ、アホな若造にコロリと騙されて、5万円をかす

め取られたという情けない事実は、厳然と変らない。そ

れにしても見事なものだった、血の気の引いた顔容、訴

えるような涙目、ワナワナと震える唇、あの全てがイカ

サマ演技だったとは、どうにも信じ難い。「それが詐欺

師なんですよ」とは警官の弁、ごもっとも。「社長さん

(私の事らしい)人が良すぎるんです。どうせ名前だっ

て嘘だし、手がかりはほとんど無い訳だから、捕まえる

のは難しいですねえ。くれぐれも気を付けて下さい」、

そんな忠告を聞きながら、また一つ人生の誨諭を受けた

思いであった。教訓、善意も過ぎれば間抜けに等しい。

 

 気が進まないままに、思い出したくもない話を綴って

いたら、随分と時間を費やしてしまった。何故こんな恥

を晒しているのかと言うと、河内さんの世界を語る時に

よく用いる「イリュージョン」という言葉の意義を、今

一度考えてみたかったからである。辞書を引いてみると

「 illusion=錯覚・幻覚・幻影・幻想 」とあって、語源

は「馬鹿にされる事」と書いてある。我が身を振り返っ

て「なるほど」と深く納得した訳だが、そんな事はどう

でもいいとして、まずは人に錯覚をもたらすような有り

様を指す言葉なのだろう。美術を例にとれば、宮殿の廊

下が突き当る壁に、あたかもその廊下が遥かな先まで続

いているような絵を描く、あるいはドーム型の天井に天

使が舞う天空の情景を描き、まるで空を見上げているよ

うな状況を創り出す等、いわゆるトロンプ・ルイユ(騙

し絵)と呼ばれる手法は、その代表的な表現と言える。

言うまでもなく、それは巧みな遠近法によって描かれて

いる訳だが、そう考えると現在は科学的な図法として用

いられる遠近法も、その嚆矢はイリュージョンに有った

のである。錯覚とはつまり幻覚であり、そこに描かれた

絵は幻影である事から、やがてこのイリュージョンとい

う言葉は、現実には有り得ない世界を描いた幻想的絵画

にも、その使途を広げたものと思われる。こうして、や

っと河内さんの世界に話は行き着くのだが、顧みればそ

の軽やかな遊び心に満ちた、自在な奇想・幻想の世界観

に対して、今まで「イリュージョン」という言い方を用

いて来た。古い懐中時計の上に少女が乗っていたり、グ

ランドピアノが馬と共に宙に浮いていたり、柱時計と一

緒にアリスが踊っていたり、そんな極めて自由に展開さ

れる奇想天外な世界に、その言葉は確かにぴったりとフ

ィットした。さりながら実はその世界も、只のいい加減

な幻想の遊戯ではなく、卓絶の細密的写実描写をベース

に、有り得ない組み合せを生み出すコラージュ技法と、

大きさの逆転によるデペイズマンの効果を駆使した、高

度な絵画表現があって初めて成立し得るものであり、そ

こにまた他作家にはない類い稀なオリジナリティーが有

った訳である。だからこそ河内良介という作家は、写実

画家としての職人的技巧を持ちながらも、その実は極め

て純度の高いシュルレアリストであるという、独自のス

タンスを獲得出来たのだと思う。その上で今「第10回

展」という記念すべき節目において、新たに気付いた事

があった。実のところこれは、変な話になるけれど、前

頁に長々と記述した例の詐欺事件から、図らずも教えら

れた事である。その意味ではあのインチキ青年に、却っ

て感謝しなければならない。つまり、騙されているその

渦中に在っては「もしや騙されているのではないか」と

いう懐疑が微塵も湧かないどころか、懐疑という概念さ

え全く忘れているのである。その心理に巧みに付け込む

事によって詐欺はなされるのだという事実は、たぶん体

験して初めて分る事なのだろう。あの巧みに演出された

シチュエーションを、ある種の「イリュージョン」と考

えても差し支えないのなら、真のイリュージョンとは、

それがイリュージョンである事さえ忘れてしまうような

シチュエーションを、編み出す技を言うのではないだろ

うか。その意味で、河内さんの芸術を観る時に改めて瞠

目するのは、その特異なモノクローム表現である。20

数種の鉛筆を駆使して生み出される、その豊かなグラデ

ーションに眼を凝らしていると、いつの間にそれがモノ

クロームであるという事実を忘れてしまう、そう感じる

のは私だけではないだろう。きっと観る人は「もしここ

に色彩があったら」という思いを微塵も持たないばかり

か、色彩という概念さえ忘れているに違いない。色彩を

忘れるという事は、換言すれば、そこに色彩を感じてい

る事にさえ気が付かないという事である。そう考えてみ

ると、確かにイリュージョンとは前述の如くその奇想を

指すものでもあるけれど、真のイリュージョンはそれを

描き出す、モノクローム表現自体に有るのではないか。

物理的には明度だけで描かれたその世界には、マンセル

表色系の三属性から考えれば存在しない筈の色相も彩度

も、明らかな確かさで描き出されている、それこそをイ

リュージョンと呼ばずして、何と呼べば良いのだろう。

 

 エピローグ。それにしても不思議でならないのは、あ

れだけの技を持つ詐欺師が、何故に入口の監視カメラを

見落したのかという事だ。その顔も演技も瞬時にセコム

に電送され、はっきり記録されているというのに。この

画像を警察に提供すれば、検挙は時間の問題と思われる

が、まあ慌てる事はない。一人の若者の命運をこの手に

握る快感を、今暫くは味わっていよう……さて、無益な

イリュージョンはこのぐらいにして、是非今夏、本物の

イリュージョンを味わって頂ければと思う、鉛筆という

身近な画材が繰り広げる、その目を瞠るような奇術を。

 

                     (18.07.06)