レモンのある静物 (2018)   油彩 / 10F
レモンのある静物 (2018)   油彩 / 10F

画廊通信 Vol.185          「描く」という事

 

 

 僕にとって、パリはモンマルトルしかない。この街と

の出会いは、かつて絵を描く処、住みたいと思える処を

探して、長く旅をしていた事があった、一本のカセット

に入れた、一曲だけを持ってね。そんな時に、たまたま

アベスの街(モンマルトルの一角)で祭りがあって、そ

このラジオ局から流れていたのが、ずっと旅を共にして

来たその曲だった。それだけで、ここにしようと決めた

んだ。だから、この街に特別な何かを感じたとか、そう

いう事じゃない、その一曲が為せる愚かさだったと…。

モンマルトルは庶民的な街だ。でもここに居てよく感じ

るのは、何処からか人が来て、いつかまた去って行く、

そういう街なんだ。常に、係留する事のない街だよね。

 

 ここに一枚のDVDがある。タイトルは「パリ・終わ

り無き黄昏」、一人の画家が一枚の絵を描き上げるまで

の過程を、克明に追ったドキュメンタリーである。画家

の名は藤崎孝敏、ファンであればご覧になられた方も多

いと思うが、ここには異国の地を生きる画家の、まさに

「画家」としての日常が映し出されている。テロップに

は「2003年・パリ」と有るから、ざっと年譜より計

算すれば、藤崎さんがパリに住んで15年を経た辺り、

年齢にして47~8歳頃になるのだろう。ここから更に

15年を経れば現在に行き着く訳だが、それにしてはそ

の歳月をあまり感じさせない程に、今とほとんど変らな

い画家の姿が、パリの古い街並みや友人達と共に、そこ

にはくっきりと刻印されている。片や、現在に到るその

15年という歳月は、藤崎さんの画風を大きく変貌させ

た。無論根幹を成す精神は変らないにしても、その顕現

としての創作表現は刻々と変遷する、常に何物かを希求

する芸術家であれば、それはごく自然な歩みというもの

だ。以前から藤崎さんを知る人の中には、パリ時代に特

有の荒々しい表現こそが、藤崎芸術の本領だと言う人も

居る。その時期と比べれば、現在の作風は随分と落ち着

いてしまった、そんな所だろうと思う。「シュトルム・

ウント・ドラング」という言葉があって、18世紀後半

の文学革新運動に端を発する言葉らしいが、現在は「疾

風怒濤の時期」といった使われ方で、人生のある一時期

(主に青年期)を指す事が多い。「嵐と衝動」との直訳

通り、芸術家も創作を探求する困難な過程で、必ず自ら

の内奥に潜む、不穏な激しい衝動に突き当る。そこから

生起する荒削りの激情は、或る年齢にしか無いものであ

り、それ故に煌めく閃光とも言えるものだろう。よって

いずれその時期は去り、二度とその光芒は戻らない。し

かしそれは年齢と共に消えて然るべきものであり、故に

一生を疾風怒濤のままで生きる人は居ない。藤崎さんの

パリ時代とは、譬えればそんな時代だったのかも知れな

い。確かにそこには、現在には見られない凄絶な表現が

あって、それが一種異様な迫力を生み出す。だが、逆に

見れば現在の作風は、その時代には持ち得なかっただろ

う、揺るがざる豊饒な重心を内在する。更に言うなら、

以前の如き激烈な情動が、現在は直接には描かれないに

せよ、作品の孕むある種圧倒的な濃度と密度、有無を言

わせないその存在感は、何一つ変らないどころか、却っ

てその度合いを増しているようにも思える。斯様に去る

ものが有り、代りに来るものが有る、しかしいずれの時

期にあっても、画家はその時々の偽りなき心情を、ひた

すら画布に吐露しているだけなのだ。かつても、そして

今現在も、藤崎さんは変らずそんな画家なのだと思う。

 閑話休題。冒頭の語りは、先述のビデオに記録された

画家の姿──夜に静まる街路を歩き、カフェで友人達と

談笑する、そんなパリの日常に被せて流れていた、画家

自身の独白である。続けて、その内容を記してみたい。

 

 画面は、白昼のアトリエに切り替る。「制作初日」の

テロップ。藤崎さんはイーゼルに立てた真新しいカンヴ

ァスに、アンバー系の線を無造作に入れ始める。くわえ

煙草、黒いジャケットにローズマダーのシャツ。ひとし

きり塗りたくって白い絵具を入れると、いつの間にうつ

むいた女性像が、魔法のように浮び上がる。後方に置か

れた木製の椅子に、深々と掛けて絵を見つめ、しばし煙

草をくゆらせた後、再びキャンバスに向う。すると何を

思ったか、描いた顔を布で拭き取りながら歪め、そのカ

ンヴァスを使い古した木枠に入れて、今度は額ごとイー

ゼルに立てる。手巻き煙草を巻いて火を点け、うず高く

絵具の堆積したパレットとカンヴァスの間を、筆が素早

く行き来する。再び絵の前で沈思、何かが違うという表

情。またカンヴァスと対峙したかと思うと、黒い絵具で

今までの描画を呆気なく消し潰し、その上にまた筆を重

ねてゆく。徐々に傾く昼行の中で、やがてそれは異様な

相貌の男性像へと変貌し、この日の制作は終りとなる。

 

 世には2種の作家が居る。批評の容易な作家と、批評

の困難な作家と。換言すれば、批評の言葉を受け付ける

絵と、受け付けない絵と。当然の事ながら批評家は、批

評の容易な作家を選び、批評言語に親和する絵を語る。

よってその対象は、必然的に現代美術が主となる。美術

史上の位置付け、トレンドを踏まえた分類、方法論上の

新たな提起、そのようなテーマはあくまで言語領域内の

問題なので、どちらかと言えばコンセプトの先行する現

代美術の分野は、批評言語の介入が容易であり、作家も

またそれを望むからである。片や、どう批評をすれば良

いものか、批評家が頭を抱えるような作家も存在する。

何しろ彼の絵は、美術史上の何処にも位置付けられない

し、そもそもトレンドからは外れているし、方法論を声

高に標榜する事も無いという、実に厄介な代物なのだ。

藤崎孝敏という画家は、正にそちら側の代表格だろう。

自分が美術史上の何処に当てはまるかなど、当人にとっ

てはおそらくどうでもいい事だろうし、トレンドや方法

論なんてものも、端から眼中には無いだろう、何せ根っ

からのアウトローなのだから。それにも拘らず、その手

から生み出された絵は、圧倒的な迫真のリアリティーを

放つ、こんな解けない謎を前にした時、とても批評の言

葉が介入する余地は無い。ちなみに松永伍一(詩人)は

このように語る──「藤崎孝敏は、叫ぼうとして無言に

なっていくその心的経緯の間に、溢れるような欲求を具

象化するのであろう。(中略)そこに顕在化しているの

は『この世にある事の孤独』であり『孤独ゆえに主題を

映し出している鏡』である」。もう一人、ワシオ・トシ

ヒコ(美術評論)の記述から──「藤崎孝敏の油彩を特

徴づけるのは、沈黙を破って展開し、また深い沈黙に還

る闇と光の相克だ」。どちらも旨いし巧みである。ただ

言葉を尽くす程に、そこには何か作り物めいた空々しさ

が漂う。言葉による解説が、どうにもわざとらしく思え

てしまうのである。これは無論お二人のせいではなく、

そもそもは藤崎さんの本質が、言語化を拒む故だろう。 

 所詮真の批評言語とは、理屈を超えて本物と思える絵

と、それにただただ見入る者との間に、どう仕様もなく

横たわる不可解な沈黙の内にしか無い。その普遍とも思

える原理を、藤崎さんの絵は静かに提示して已まない。

 

 制作2日目。この日は半日、ほとんど筆を持たない。

椅子に掛けて煙草をくゆらせながら、ひたすらに自らの

絵を凝視する。絵の中に未知の何かを探っているかのよ

うだ。途中描きかけのカンヴァスを横にして、次には逆

さにしてしまう。その逆さになった絵を見つめながら、

また長い黙考。やがておもむろに立ち上がり、パレット

ナイフで絵具を削り、画面をまた黒で消し潰す。そこに

白を入れ、絵具を重ねてゆく内に、今まで顔だった所が

人間の背中となり、いつしか後ろ向きの裸婦が現れる。

 制作3日目。前日の後半からカメラは固定され、独り

カンヴァスと格闘する画家の姿が、長回しで坦々と写し

出される。製作者の話では、気が散るからと退去させら

れたとの事、三脚に据えられたレンズの中で、静かな描

画の音だけが響く。今日も画家は描いては眺め、眺めて

は物思う。その内に裸婦像を壊し始め、素早く何度も筆

を入れてゆくが、何をしているのかは全く分らない。そ

れからどの位の時間が経ったのだろう、裸婦の背中は再

び人の顔となり、いつの間に女性の胸像が浮び上がる。

 制作4日目。定点レンズは解除され、カメラは自由を

取り戻す。カンヴァスをクローズアップすると、窓から

潤沢に注ぐ白光の中に、仰向いて宙空を虚ろに見つめる

異相の女性像が立ち現れる。画家は数ヶ所に最後の筆を

入れ、しばし作品を眺め遣ったのち、画面の右下にサイ

ンを入れる──赤い「Cauvine」の文字。完成である。

 

 今春から初夏にかけて、沼津市のとある美術館で、藤

崎さんの回顧展が開催された。パリ時代の旧作も出品さ

れるとの事だったので、その当時の作品には触れる機会

が少なかった事もあり、私も会期半ばに同館を訪ねた。

実に充実した展示で、人物・静物・風景、果ては群像を

描いた大作に到るまで、正に藤崎さんの全貌を見渡せる

ような企画である。館内を巡る中でまず得られた事は、

当然の事ではあるのだが、パリ時代も現在も「繋がって

いる」という実感であった。過去の画集等を見ると、そ

こには一目して現在とは異なる画風が有るのだが、さり

ながらこうしてその画業を一望してみると、それらは決

して二種に分裂した別物ではない、やはり一人の作家か

ら生み出された、紛う方なき一筋の本流なのである。一

見荒々しいタッチの中にも、やはり繊細な詩情が潜み、

現在の抑制されたタッチの中にも、ある種の激情が垣間

見える。過去は現在を孕み、現在は過去を映し、そこに

は「藤崎孝敏」という一人の稀有な画家が、長い真摯な

足跡の総和として、確かな同一性の下に現出していた。

 もう一点、リアリティーについて。絵画の場合それを

「存在感」と換言出来るなら、藤崎さんの描き出すあら

ゆるモティーフは、人物は元より些細な静物の欠片に到

るまで、正に「そこに在る」と思えるような特異な存在

感を放つ。このある種言い難い実在に囲繞される内に、

あの「実存は本質に先立つ」というサルトルの哲理が、

いつしか脳裏に浮んだ。「存在」は架空でも有り得るが

「実存」は今此処の現実だ。このどう仕様もなく、否応

もなく此処に「在る」という現象を「実存」と呼んで差

し支えなければ、藤崎さんの絵は優れて実存的である。

それは「本質」を言葉で思考する前に、まずは圧倒的な

現実として目前に「在る」。よってここに難解な哲学は

要らない、絵画はその哲理を無言の内に体現しているの

だから。だからこそ見る者は、この比類なきリアリティ

ーを十全に体感し、その世界と一つになれるのだろう。

 さて僭越の感懐はこの位にして、もう紙面も尽きるよ

うだ。この時に展示された旧作の中には、きっと前述の

ビデオと同時期の作品も有ったに違いない。画家はその

2年後にパリを去る事になるが、ブルターニュの辺境に

住する今も、その制作は変らないだろう。映像の掉尾を

飾る以下の言葉は、正に創作の真髄を語るものである。

 

 一枚の絵が終る時は、絵の方から「もう触れないで」

と言って来る瞬間がある。絵に向っていると、その中か

ら必ず「何か」が出て来る(後はそれに何処まで従える

か、奴隷のようにね)、画家はその瞬間を、ただ待つと

いうだけ。待つという事だよね、絵を描くという事は。

 

                     (18.10.27)