想起 (2019)         油彩 / 3S
想起 (2019)         油彩 / 3S

画廊通信 Vol.190              緑想試論

 

 

 平澤さんの個展は、今回で15回目となる。当店では最も早くからお付き合い頂いて来た作家の一人であり、その間作風も多様な変遷を見せつつ今に到る訳だが、こうして振り返ってみると、時々の表現がどんな変化相を見せようとも、全く変る事のないある基調音が、制作の根底を高く低く貫いている事に気が付く。ちなみに、このような現象を喩えて「通奏低音のように」という言い回しが散見されるが、これは言葉の誤用である。バロック音楽をお聴きの方ならご存知の事と思うが、当時は和

音の根音(一番下の音)だけを書いておいて、その上の

音は数字で指定するという略譜が、広く行われていた。

演奏者はそれを見ながら、即興的に和音の伴奏を付けて

ゆくという具合で、その数字の付された根音がいわゆる

「通奏低音=コンティヌオ」であり、現在で言えばジャ

ズやロックで用いられる「コード」と、ほぼ同じ意味の

言葉だ。よって「通奏低音のように」という言い方は、

全く比喩になっていない。昨今は新聞の論説委員までが

そんな誤用をして恥じないが、それを言うなら「持続低

音=オルゲルプンクト」であり、広義には「ドローン」

という言葉が、最もその意味する所に近いだろう。脇道

が長くなったが、それを踏まえつつ話を戻せば、上記の

文章は「変る事のないある基調音が、根底をドローンの

ように貫いている」云々と言い換えても、比喩として問

題はないのだろうけれど、あえてその言い方をしなかっ

たのは、根底を流れるその基調音が「低音」には感じら

れなかったからである。「ドローン」とは長く持続する

低音を指す訳だが、平澤さんの絵から響いて来る持続音

は、決して重く鈍い低音ではない。それはもっと柔らか

な中音域に在って、そこはかとなく微かな風のように、

耳を澄ませば何処からともなく聞えて来る、醇乎に透き

通った和音の響きだ。哀しげでありながらほの明るく、

重く沈むよりはむしろ軽やかで、言うなれば短和音に長

和音が仄かに混和したような、不思議な色彩を醸し出す

響きである。例えるなら、ドビュッシーの楽曲を形成し

ている、あの短調とも長調ともつかない、自在に調性の

狭間を浮遊する和声。視覚的にその色を挙げるとしたら

どうだろう、これはあくまでも私感に過ぎないが、今回

の展示会タイトルにもなっている黄緑色に、淡い灰青色

をミックスしたような、端的に何色とも言えない陰影を

湛えた、極めて微妙な色彩である。今までの案内状を顧

みると、初期の青緑色を主体とした画面から、徐々に黄

褐色系の画面へと移行し、近年は様々な色系が混在する

画面へと、現実の色彩はその画面上で、様々に変化を遂

げて来た訳だが、その根底を貫いて来た潜在的な色彩、

それを精神の色調と言って構わないのであれば、その色

調=基調音は全くと言っていいほど変っていない。正に

その基調音こそ「平澤重信」という画家のアイデンティ

ティーであり、揺らぐ事のない芯なのだと思う。それは

いつも多様な展開を見せるカンヴァスの下で、透き通る

ように淡い哀しみを、今日も密やかに放ち続けている。

 

 別に平澤さんの芸術を分析しようなどと、そんなおこ

がましい事は考えてないのだが、こうして浅見を書き進

めていたら、もう一点書くべき事が出て来てしまった。

どうせ愚考のついで、それについても触れておきたい。

 平澤さんの作風を語る場合、上記の「基調音」と共に

もう一つのファクターがあって、その両者が微妙な均衡

を保つ中から、あの独自の瑞々しい詩情が生起する、ま

ずは大枠として、そんな構図が考えられる。よってその

ファクターは「基調音」と同等の重要性を担う訳だが、

端的にそれは「時」である。とは言ったものの、さてど

うにも捉え所のない概念なので、早くも腰が引けつつあ

るのだけれど、ここでは時間の定義云々といった哲学的

詮索はさて置いて、画家本人が用いる「時」という言葉

から、もう一つのファクターを考えてみたい。「時の裏

表」「時の庭」「時のしぐさ」「時の窓」「時の待ち合

わせ場所」「時の間」「時の消息」、まだまだ有るけれ

ど、これらの言葉は全て、平澤さんが自らの作品に冠し

たタイトルである。実際「時」という言葉は、平澤作品

の至る所に散見されるので、それだけでも画家にとって

「時」という概念が、重要な意義を持つだろう事が分る

のだが、ここで一つ問題となるのは、平澤さんは「時」

という言葉を、通常の意味では使ってないという事だ。

言うまでもない事だが、通常私達が「時」と言う場合、

それは過去から現在を通って未来へと流れる、一本の河

を無意識裡に思い描いている。だから「時の流れ」とい

う言い方があり、速くなったり遅くなったりする事はあ

っても、それはあくまで私達がそう感じるに過ぎず、流

れそのものは一定で不変だろう、というのが通常の感覚

と思われる。しかし平澤さんが「時」と言う場合は、明

らかにそのような通常の意味とは、異なった用い方をし

ている。少なくとも平澤さんにとっての「時」とは、上

記のタイトルから推し量る限りでは、色々な「しぐさ」

をして「待ち合わせ」までしたあげく「消息」を尋ねら

れるような事まで仕出かすのである。これは一体どう解

釈したらいいものか……と、しばらく困っていたら、こ

のまま困っていてもいつまでも困ったままだろう、とい

う事だけは分ったので、この際考える事は已めて、改め

てその絵を見てみる事にした。例えば「時のしぐさ」、

思えばかつてこの絵と出会った事が、平澤さんと付き合

せて頂く契機となった。思い出の作品である。画集では

背景が淡いベージュになっているが、その時の美術誌に

は、得も言われぬ灰緑色で印刷されていた。たぶん後者

の方が近いだろう。縦位置の画面を一本の樹木が貫き、

その周囲に平澤さん特有の、様々なキャラクターが配置

された画面。飛翔するカラス、振り返るネコ、煙突から

煙をなびかせる家々、階段に鉄棒、それらの合間を歩き

回る人物、加えて何かの具象を成す前のフォルムだろう

か、諸所に散りばめられた未定形の断片達。こうして見

ていると、それら多彩なキャラクターの一つ一つが、作

者の内奥に我知らず刻印された、諸々の記憶の欠片のよ

うにも思えて来る。それぞれの欠片が、それぞれの仕草

を為して、それらが微妙に響き合いながら、総和として

ある独自の時空が形成される……、そう考えてみると平

澤さんの言う「時」とは、その時その時の小さな記憶、

つまりは「記憶の欠片」の総体を指すのかも知れない。

そんな欠片が画面上に絶妙のバランスで配置された時、

そこには最早「古い」も「新しい」もない、或いは「遠

い」も「近い」もない、全てが同一平面上に置かれる事

によって、過去から未来へと流れ往く時間の概念も消滅

し、代って様々な「時」が自由に交感する、あの開かれ

た「場」が現出するのである。それが平澤さんの用いる

「時」の意義であり、前頁の「基調音」と対を成す、も

う一つの重要なファクターと思うのだが、どうだろう。

 

 ここで、簡単な座標系を考えてみたい。横に伸びるX

軸は「基調音」の座標、ここでは仮に「音軸」と呼称す

るとして、即ち画家固有の或る響きを表している。数値

には、表色系の明度を割り当てよう。一貫して同じ色相

の響きであっても、その時々によって響きの明るさは異

なる。その明るさの度合いを座標値とすれば、左から右

へと移動するに従い、響きの明るさも徐々に変化を見せ

るだろう。縦を貫くY軸は「時」の座標、前者に倣って

「時軸」と呼んでおくが(平澤さんの旧作にも同名の作

品があった、参考までに)、但しこれは前述の通り、過

去から未来へと向う通常の数値ではなく、浮上する記憶

彩度を表している。遥かな過去の事でも、まるで昨日

の出来事のように鮮明な記憶も有れば、つい先日の事で

あっても、何やら遠い昔日のように思える記憶も有る。

更には、最早夢とも現とも判じ得ない、曖昧模糊とした

残像のような記憶も有るだろう。時軸に振られる目盛り

は、そのような記憶の鮮やかさの度合いである。よって

下から上へと移動するに従い、朦朧とかすむ記憶は徐々

にその霧を晴らし、やがては明確に焦点の合った鮮明な

像を結ぶ。こうして仮想平面上に、縦の「時軸」と横の

「音軸」が十字に交差する、直交座標系が出来上がる。

この時空こそ「平澤重信」という画家の領域であり、そ

の世界を形成するフィールドに他ならない。ちなみに画

家は作品の中に、何かの「場」を暗示するような円状の

フォルムを描く事があるから、名付けるなら簡明に、そ

れを「広場」とでも呼ぼうか。以上から、作品に登場す

る様々なキャラクターは、全てこの座標系=広場の何処

かに、必ずや位置する事になる。このしなやかに開かれ

た広場では、無数の小さな記憶の欠片が軽やかに遊び戯

れ、時を超えて自在の交感を為している、あの微細な色

合いに染まる持続音が、淡く透き通るような哀しみを響

かせる中で。世に言う「平澤ワールド」の完成である。

 

 僭越にも「平澤重信論」めいたものを書き連ねてしま

い、ここまでお読み頂いた皆様からも、無論画家ご本人

からも、多大なる顰蹙を買っているだろう事は分るのだ

が、話が未だ眼目に到らないもので、この際は平にご容

赦を願いつつ、今しばらくお付き合い頂けたらと思う。

 前段で「音」の軸と「時」の軸が交差する座標領域を

「広場」として提示させて頂いたが、これはあくまで平

澤さんの世界を構成する要素を、勝手な理屈で整理した

仮想図に過ぎない。主題はその先に有る。つまりその自

らの「場」で、画家は何を顕現しようとしているのか、

それを知り得て初めて、私達は「平澤重信」という画家

の本質に、迫る事が出来るのだと思う。今までこの通信

上で、何度となくこの言葉を使って来たが、やはりそれ

は「アトモスフィア」という単語に尽きるだろう。直訳

は「空気感」「雰囲気」といった所だろうが、平澤さん

の場合「空気感」では即物的すぎる、「雰囲気」では何

かが不足だ、ここではもう少しその意味を敷衍して、漠

然とした或る気配、そこはかとない風情、とらえどころ

のない陰影、それとなく滲む情緒、広くは未だ生起しな

いものへの予感や予兆までをも孕む、言葉にならないよ

うな茫漠の概念、それらをひと言に「アトモスフィア」

と言って良いのなら、平澤さんの芸術の真髄は、正にそ

の言葉の内に有る。そう考えれば、さながら前述の広場

は「基板」であり、配置される数々のキャラクターは、

基板上に設置されたそれぞれの「部品」であり、それら

によって構成された画面は、類例のない「回路」である

と言っても過言ではない。それはあの独自のアトモスフ

ィアを喚起する、感性の回路なのである。故にそれはい

つも絵の内奥に、密やかに潜在して見えない。しかし、

それが画面という次元に視覚化され、あのユニークなキ

ャラクターの遊ぶ広場として具現化された時、作品の前

に立つ人はその絵肌から、必ずやあの不可思議なアトモ

スフィアが、そこはかとなく生起する様を見るだろう。

 

 さて、やっと眼目らしき所に到った辺りで、紙面も尽

きようとしている。論とも言えないような論で、この度

は紙面を埋める成り行きとなったが、学究でも評者でも

ない者の浅慮として、大目に見て頂ければ幸いである。

思えば4月の開催は初めての事だ。今までは秋の開催が

恒例だったので、春に響く「基調音」は未知数なのだけ

れど、折しも展示会タイトルは「黄緑色三昧」、季節に

相応しい色合いを、見せてくれるのではないだろうか。

 

                     (19.03.21)