不器用な魔術師 (部分)   混成技法 / 4F
不器用な魔術師 (部分)   混成技法 / 4F

画廊通信 Vol.191            美について

 

 

 榎並さんにとっての一年は、毎年11月に開催される地元甲府の個展に始まる。ここで新しい年度の個展タイトルが発表され、以降の各所における個展は、翌秋まで全て同じタイトルが冠される。ちなみに今年度は「永遠のゆくえ」というタイトルなので、今回の案内状もそれに准じているという具合だ。加えてそのタイトルを巡る短い随想も付記されるので、当店もそれを短縮して掲載している訳だが、字数の関係上致し方ない事とは言え、毎度大幅なカットを余儀なくされ、常々心苦しく思って

いた所なので、たまには省略をせずに紹介させて頂こう

と思う。という訳で以下、今回のテクスト全文である。

 

         「永遠のゆくえ」

 

 耳が遠くなれば小さな音を、目がかすんで来れば見え

 たように、飾ることなく淡々と表現してゆければそれ

 でいいなんて思う。

 よく考える事がある。生きる事にたいした目的も無い

 のなら、神は何故人間なんて、いやこの私をこの世に

 送り出したのだろうか?たかだか百年生きるだけだ。

 それほど遠い所へ行ける訳も無い。

 まだまだ分からない事だらけだけれど、一つの解答が

 芸術というのか、音楽とか美術でもいいのだけれど、

 究極の形というのがそこにあるのではないかなと思っ

 たりする。なぜならこれだと思うものがすべてそちら

 の方向を向いているからだ。

 言いたい事が上手く言えないなぁ。

 「美は発見である」

 で、ここでいう「美」というのは「うつくしい」とい

 うことではなくて、「真理」とか「ことわり」といっ

 た類のもののような気がするな。

 さて、そんな「永遠のかけら」を拾い集めました。楽

 しみにお出かけ下さい。心よりお待ちしております。

 

 文脈を整理すれば──神が私をこの世に送り出した意

味を考える時、その一つの解答が「芸術」だと思う。何

故なら、これだと思えるものが全て「美」の方向を指し

示すからだ。それが神の意向なのだとしたら、美とはそ

のまま「真理」であり「ことわり」だと言えるだろう。

ならば私の為すべきは、それを見出す事だ。故に「美は

発見である」──少々の補足を加えさせて頂いたが、お

よそこんな論旨になるだろうか。日頃のざっくばらんな

物言いではあるが、ここで榎並さんは芸術の最も根本的

かつ厄介な問題に触れている。即ち「美とは何か」、こ

と西洋においてこの問題は「美学」という学問分野が打

ち立てられるほど、重要なテーマとして君臨して来た。

その定義が如何に困難であるかは、手っ取り早く辞書を

紐解けば分る。一例として「広辞苑」を引いてみよう。

 

【美】①うつくしいこと。うつくしさ。②よいこと。立

   派なこと。③知覚・感覚・情感を刺激して内的快

   感をひきおこすもの。「快」が生理的・個人的・

   偶然的・主観的であるのに対して、「美」は個人

   的利害関心から一応解放され、より普遍的・必然

   的・客観的・社会的である。

 

 端的に申し上げて、①は単なる同語反復であり、②は

元より論外、③に到ってやっと意義らしき言及となるも

「美」を「快」と対比させる辺り、論拠共々相当に苦し

い。天下の広辞苑をしてこうである。ただ、これは決し

て辞書側に非が有る訳ではなく、上述の如く「美」の定

義自体に難が有るからなのだ。概括して、古来西洋には

「ヴィーナス」というれっきとした美神が居る通り、美

とは普遍的な実在としてのイデアであり、事物が本来具

有する至高の属性であった。それが近世に入ると、実体

としての美は否定され、あくまでもそれは人間の主観的

な認識に過ぎない、という見解が主流となった訳だが、

以降両者の対立は平行線のまま、どちらに軍配を上げる

べきかの決定的な判定には、未だ到らないようである。

 さて、ここからが本題となるのだが、上述のような哲

学論議を「無要な諸観念の跳梁」と、一言の下に喝破し

た思想家が居た。小林秀雄である。またか、という声が

聞えて来そうで、毎度ご容赦を願う他ないのだけれど、

美学の根幹とも言える歴史的な難題を、こうも大胆に切

って捨てるような人は、古今東西なかなか居ないだろう

と思う。つまり、そんなものは無益な水掛け論であり、

よって論議自体に意味がない、という訳だ。それどころ

か、多く「跳梁」とは好ましからざるものの跋扈を言う

のだから、彼にとっては美の学術論議などは空理に過ぎ

ず、無用どころか悪しき観念の遊戯とさえ思えたのかも

知れない。ならば彼は美をどう考えていたのか、それを

率直に語った一節があるので、この機会にご紹介してお

きたい。ちなみに、出典は小中学生を対象に書かれたも

のらしく、とても平易な言葉で綴られているが、どうし

てどうして、その説かんとする所は美の核心を真っ向か

ら突くものである。確か以前にも引いた事があって、繰

り返す事になるけれど、以下は「美を求める心」から。

 

 美しい自然を眺め、或は、美しい絵を眺めて感動した

 時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経

 験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言え

 ず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないもの

 こそ、絵かきが諸君の眼を通じて、直接に諸君の心に

 伝えたいと願っているのだ。美しいものは、諸君を黙

 らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。

 これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵  

 や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に

 堪える経験をよく味わう事に他なりません。(中略)

 「美を求める心」という大きな課題に対して、私は、

 小さな事ばかり、お話ししている様ですが、私は、美

 の問題は、美とは何かという様な面倒な議論の問題で

 はなく、私たちめいめいの、小さな、はっきりした美

 しさの経験が根本だ、と考えているからです。美しい

 と思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求

 める心とは、物の美しい姿を求める心です。

 

 この仕事に携わる者として、上記の言葉は正に実体験

として理解出来る。一枚の小さな絵の前で、人はただ為

す術もなく佇む、何故それに惹かれるのかさえ、判然と

しないままに。そんな言葉を失うような感動を、小林は

「沈黙」と呼んだ。それは後で如何ようにでも脚色して

言語化出来ようが、所詮それは沈黙の輪郭を文学的に装

飾したに過ぎない。畢竟彼の語る「美」とは感動の経験

に他ならず、何かを抽象した観念上の用語ではない、よ

ってここに美学は、その意義を失うのである。あくまで

それは、学術が武器とする冷徹な論理とは対極にあるも

のであり、むしろ論理や分析の果てる領域にあってこそ

息衝く、美が感動の体験である限り、体験は常に言語に

先行し、瞬時にして言語を無力化するのだから。思えば

今まで、どれほど多くのそんな感動の姿を、言い換えれ

ば、どれほど多くの「沈黙」を目にして来た事だろう。

その沈黙こそが、美の持つ根本の力であり本質である、

と小林は言う。だからそれを言葉にする必要はない、む

しろ言葉を止めて言葉から離れよ、言葉にする前にしば

し立ち止まって、その沈黙の姿を味わえ、それが「沈黙

の力に堪える」という事だと。正に然りと思う。沈黙を

吟味するほどにいよいよ顕現する「何んとも言えないも

の」、それに「美」という言葉を当てはめるのなら、や

はり美は感ずる事でしか得られない、即ち感得によって

しか捉える事の出来ないものだ。故に学んで知るという

学問の方法、つまり知性に基づいた学究的把握は、美の

前に無効となる。そしてその原則に立脚するならば、美

の定義という難問もまた、自ずから無用となるだろう。

 

 時折、画家が心底羨ましくなる。「言いたい事が上手

く言えないなぁ」と言いつつも、画家は上手く言えない

その「言いたい事」を、制作という行為によって十全に

言い得るのだから。その間こちらはと言えば「美は定義

出来ない」というそれだけの結論を得るのに長々と要ら

ぬ言辞を弄し、感得とは程遠い屁理屈を重ねる仕儀に到

っている訳だ。幸い榎並さんは、自らブログ等を通して

言葉を発信する人だから、その考えを私達は直接聞く事

が出来る訳だが、たとえ当人が自作をどんなに懇切に解

説し、制作についてどんなに詳細に語ろうと、それでも

本当に言いたい事は、やはり絵の中にしかないだろう。

言うまでもない事だが画家は制作に当って、色や形や線

といった絵画だけの言語(=造形言語)を用いる。よっ

て「絵を描く」という行為において、通常私達の用いる

言語(=言葉)は全く介入しない。分り切った事と言わ

れそうだが、しかし知らず知らずの内に、私達はその事

実を忘れている事が多い。例えば「画家は自らと対話し

ながら描く」といったような表現を、私自身もよく使っ

たりするけれど、この時の「対話」という言葉からは、

つい自問自答のようなイメージを、即ち内省的な自己対

話を連想してしまうのだが、考えてみればそれも言葉を

用いる行為なのだから、制作が言葉を介さない行為であ

る限り、画家はそのような対話はしていない。画家の為

す対話とは、あくまでも色や形や線による、造形言語の

対話なのである。従って制作とは、何らかの思想を表明

するものでもなければ、何らかの哲学を提示するもので

もない、徹頭徹尾、色や形や線による造形でしかない。

むろん、絵画を何らかの思想を表現するための、媒体と

して用いる作家も居るだろう。例えば反戦思想・環境問

題・震災哀悼等々、しかしそういった作品のほとんどは

端的に面白くない。制作が意図や思想を持った瞬間から

表現こそが目的であった絵画は、その意図や思想を表明

するための、単なる手段に成り下がるからである。故に

声高な主義主張を離れ、ひたすら造形言語による表現を

志向する絵画は、概して無思想である、と言うよりは、

思想を拒絶すると言うべきか。絵画が思想を孕むとした

ら、それは徹して絵具と絵筆で語られる、だからこそ其

処には、純粋な表現の自由が脈々と横溢するのだろう。

 

 上に、画家にとっての制作とは「徹頭徹尾、色や形や

線による造形でしかない」と書いた。その「しかない」

と言い捨てた筈の造形が、思えば何と豊かな想念を、そ

の中に孕む事か。其処には明らかに、その作家ならでは

の或る心象が投影されている。ただ残念ながら、それは

見る方も語る事が出来ない、それこそが「美」だからで

ある。すると美というものは、作家が意図して作るもの

ではなく、自ずから滲み出るものなのか、あたかも人格

が意図して「作る」ものではなく、自ずから「出来る」

ものであるように。ならば「美の創造」という言い方は

誤謬である、それは造形言語との飽くなき格闘の果てに

立ち現れ「見出される」ものだ。いみじくも榎並さんが

「美は発見である」と明言した所以は、まさしくそこに

ある。そして、私達もまた見出すだろう、画家の発見し

て確かに捉え得た、あのかけがえのない「美」の姿を。

 

                    (19.04.19)