菜 (1993)     混合技法 / 41x61cm
菜 (1993)     混合技法 / 41x61cm

画廊通信 Vol.202              薄才私論

 

 

 先日東京駅の構内を歩いていたら、併設のステーションギャラリーが臨時休館になっていた。例のコロナウイルス感染症対策のためらしい。さすがに構内は通常よりも空いてはいたが、それでも平常と変わらず駅舎は開放されて、多くの人々が行き交っている。対して、開館時でも駅内よりは遥かに人が少ないだろう隣の美術館は、

固く門を閉ざして入館を拒否している。つまり、両者共

に同じ場所に在りながら、壁一枚を隔てて正反対の様相

を呈している訳だ。この奇態かつ無意味な壁の意味を考

えてみた時、それはやはり、過剰な忖度と自粛が一体と

なった、極めて日和見的な雷同にその要因が有るとしか

言いようがない。この状況は何も同館に限った事ではな

く、周知のように会館の閉鎖や展示会の中止は国内全域

に及び、昨今は都内辺りの画廊までが、足並みを揃えて

自粛傾向にあると言うから恐れ入る。まあ、この際裕福

な画廊には少し休んで頂き、当店のような自粛の余裕な

ど端から無い画廊が、この時とばかり気焔を吐けばいい

だけの話なのだが、如何せん肝心のお客様が少ない。そ

れでも暗澹とした世情など物ともせず、敢えて遠方より

足を運んでくれる勇者もおられるのだから、そのような

真のヴォワイヤン=見者のためにこそ、画廊は開け続け

ねばならない。むろんこれは展示されている作品が、危

険を冒してまで足を運ぶに値すると云う、大前提が有っ

てこその広言なのだが、ちなみに今回の新作展について

申し上げれば、多少の危険を冒す位の価値はやはり充分

に有ると思う、言うまでもなく。極端な物言いになるけ

れど、案内状に掲載した「斑鳩」、この一作を見に来て

頂くだけでも足労の価値が有る、これは広言ではない。

 

 奈良は斑鳩の北方、三井の里に法輪寺と云う古刹が在

り、その講堂に安置されているのが虚空蔵菩薩立像、即

ち今回の案内状に描かれた木像である。飛鳥時代後期の

造立とされ、その様式から観音像との説も有るらしい。

例によって未訪にして未見のため、これは写真だけの印

象から申し上げるのだが、中西さんの描いた作品の方が

より端正である。私見だが、仏像を描いた作品は多々あ

れども、ろくな作品にお目にかかった事が無い。たぶん

無理な神聖化をそこに施そうとするため、却っていかが

わしい通俗に堕すのだろう。対して中西さんの描く仏像

からは、何と言ったら良いのか、五濁悪世に渦巻くだろ

う有りと有る俗念が、綺麗さっぱりと抜け落ちている。

枯淡幽寂とは、このような佇まいを言うのだろうか。画

集を顧みると、凡そ四半世紀ほど前にも、画家は同じ菩

薩像を描いている。「石ころから仏まで」と云う自らの

言葉通り、中西さんは暮らしゆく日々に出会う、あらゆ

る物象を絵にして来た訳だが、私自身は16~7年を数

えるお付き合いの中で、唯一つ「仏」の絵だけは実物を

見た事が無かった。そんな訳で先日、画家より送られて

来た梱包を開けて、中西さんの仏を初めて目にしたのだ

ったが、この時の深々と澄み渡るような印象は、未だ忘

れ難い。「玄妙」と云う言葉の意義を、今しも眼前に見

るような思いがした。玄妙の情趣を「気韻」と言うのな

ら、正に気韻はここに極まっている。もう一度言わせて

頂こう、訳の分からぬウィルスが如何に猖獗を尽くそう

と、多少の物騒を排す位の価値なら充分に有る、この気

韻に触れて頂くだけでも。だから見者は街へ出ようと。

 

 さて、以上の話で終えても、中西和と云う芸術家の一

端はお伝え出来たと思うのだが、実は中西さんの場合、

画家としての真髄はまだその先に在る。と言うのは、仏

像を描くと云う一事において、もしやそれに匹敵するだ

けのレベルで描ける作家は、私自身は見た事がないにせ

よ、他に居るのかも知れない。仮に居たとしよう。しか

し、彼には到底踏み入る事の不可能だろう、その先へと

広がる領域にこそ、中西さんの本質が在り、他の追随を

許さない世界が在るのだと思う。端的に言えば、そこは

菩薩と白菜が全くの等価である世界だ。よって取るに足

らない一個の白菜が、そこでは観音菩薩像と同じ気韻を

その身に纏う。これは別にふざけて言っている訳ではな

く、実際中西さんの個展に足を運んで頂き、作品を目の

当たりにした人であれば、誰もが深く首肯する事実だろ

う。「ただの白菜なのに、この尊さは何だろう」、絵を

前にして人は首を傾げ、その謎を解こうとするが、考え

る程に答えは出ない、ここに種明かしは無いのだ。しか

も困った事に、それは何も白菜に限った事ではなく、大

根であろうが、長葱であろうが、独活であろうが、要す

るに漬物になったり、味噌汁にぶち込まれたり、きんぴ

らに変貌したりするような、そんなありふれた台所の食

材が、中西さんに描かれた瞬間から、一様に何か名状の

し難い尊厳を帯びるのである。更に言えば、何の変哲も

ない毛糸玉だとか、部屋の隅で燻っている蚊取り線香だ

とか、果てはその辺の空き地の草叢に到るまで、それら

は全て絵の中で同じ香気を放つ、これは驚くべき事だ。

 ここまで書いて来て、確か昨年も同じような事を書い

たなあと、今更ながら思い当たった。よって新味に欠け

る点お詫びする他ないが、しかしながら、これは何度強

調してもし過ぎる事のない、作家固有の特質である事に

間違いはない。何しろ、至極凡庸な野菜を観音菩薩の如

くに描ける画家は、中西さんを措いて他に居ないだろう

から。以前中西さんは、このように話された事がある。

 

 たぶん絵画を通して私のやろうとしている事は、物を

 「置き直す」事なのかも知れない。それは本来在るべ

 き場所に、もう一度物を「置く」と云う行為である。

 

 思い返せばこのお話を聞いたのは、16年前の初回展

においてだった。従って、分かったような分からないよ

うな思いで、書き留めた事を覚えている。要するに、分

からなかったのだ。今にしたって、本当に理解している

のかどうかは怪しいものだが、そこに拘泥していても話

が進まないので、以降は私なりの見解を連ねる他ない。

 まず考えるべきは、画家は「置く」と云う言葉で何を

言おうとしたのか、その語意に関してだろう。もしそれ

を字義通りに捉えて、画面構成における「位置」を指す

のだとしたら、確かにそこからは一目瞭然、他に無いオ

リジナリティーが見出せる。右に載せた「菜」を例に取

っても、白菜一個だけをほぼ中央にでんと置き、他には

何も描かないと云う構図自体が、通常の静物画には有り

得ない、異様とも言える作画である。しかも何処に置い

てあるのか、その背景は何か、と云った具体性は大胆に

無視され、結果的に不明瞭な抽象空間がモチーフを取り

囲む。こうして考えてみると、これは具象と抽象が混淆

した、かなり不自然な構成とも言えるのだが、それにし

ては何と穏やかな安定感が、画面を満たしている事だろ

う。そこが抽象空間だと云う事すら気が付かない程に、

両者はごく自然に溶け合っている。この中西さんに特有

の画境は、描画上の方法が創り出すものなのだろうか。

確かにそこにも一因は有るだろう、表現に技法は不可欠

だから。しかしそれだけなら、技量に長けた画家が同じ

方法を用いれば、同じような絵を描ける筈だ。しかし言

うまでもない事だが、たとえ今を時めく写実作家が、ど

んなにその超絶的な技巧を駆使したにしても、決してそ

うはならないだろう。とすれば、上記の「置く」に秘め

られた語意は、構成や技法と云った方法論だけに求める

事は出来ない。ならばその真意は、別な所に有る筈だ。

 

 神社では神事の折に、複数個の白菜を三方に載せて、

 神前に供えたりする。そうすると、白菜はそれだけで

 「尊く」なるものだ。それは正に神のように見える。

 

 これもかつて中西さんから聞いた、印象的な言葉だ。

ここにヒントは見えないだろうか。白菜はここで、台所

のまな板から神前の三方に、まさしく「置き直されて」

いる。ならば、尊さの原因は三方か。いや、たぶんまな

板の上に置かれたままでも、そこが神前であれば尊いだ

ろう。更に言うなら、そこが仮に神社ではなかったとし

ても、結界を巡らせて神前と成せば、やはり尊くなるに

違いない。おそらく、この神前と云う「意識」に要因が

ある。つまり白菜は、或る実在の場所に置かれたから尊

くなるのではない、私達の意識の中で置き直したからこ

そ尊くなるのだ。日常の意識から神聖の意識へと置き直

す、その瞬間に白菜は、ありふれた食材から尊厳を帯び

た何ものかへと昇華する、そう考えてはどうだろうか。

 話を絵画に戻したい。以上を踏まえれば、画家の言う

「置く」の真意が見えて来る。中西さんは、まず意識の

中で白菜を置き直したのだ。何処に? 画家の言葉を借

りるなら、本来在るべき場所に。即ち漬物の材料でもな

ければ、味噌汁の具でもない、純粋な掛けがえのない存

在として、それが自ずから十全と然らしめる所に。その

ためには、自身の視点を変えなければならないだろう。

どのように? 昨年の話と重複するが「そのためには、

先入見の一切を忘れ去る事だ」とマチスは語り、「世界

は開かれたばかりの眼差し、或いは正に閉ざされようと

する眼差しにしか、その真の姿を示さない」と、ギュス

ターヴ・ティボンは語ったそうだ。いずれも中西さんを

通して知った言葉だが、これに関して「開かれたばかり

の眼差し」とは、正に先入見の一切を忘却した眼差しで

あり、一方の「正に閉ざされようとする眼差し」とは、

濁世の此岸に寂滅の彼岸を見る眼差しだろうと、そんな

意味の事を書いたけれど、今頃になって後者の眼差しに

ついては、もっと簡明な言い方があったなあと自省して

いる。もし明日世界が滅びるとしたら、目前の白菜はど

う見えるだろう。もうこれで二度と見る事はない、そう

思った時に、世界はどう見えるのだろう。「正に閉ざさ

れようとする眼差し」とは、きっとその時の眼差しだ。

これが今生の別れだと思った時、おそらくは限りない慈

愛に白菜は満たされ、言い難い尊さを放ち始める。あら

ゆる先入見は跡形もなく消滅し、世界は掛けがえのない

存在としての姿を、私達の眼前に見せるだろう。中西さ

んの白菜は、正しくそのような眼差しで描かれている。

何を大仰な……と、ご本人はおっしゃるだろうけれど、

だからこそ何の変哲もなかった筈の白菜は、あれだけの

尊厳を湛えるのだ、そう考える他ない。そして、白菜は

菩薩に等価となる。それ故に、白菜は観音菩薩像と同じ

気韻を、その身に纏うのだろう。中西さんの絵は、無言

の内に教えてくれる、神聖なる存在だから尊いのではな

い、あまねく存在とはそもそもが尊いのだと云う事を。

 

 「仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己を

 ならふといふは、自己をわするるなり。自己をわする

 るといふは、万法に証せらるるなり」現成公案~道元

 

 以前に上記の一節を、中西さんは諳んじてくれた。仏

法の奥義を語った言葉らしいが、戯れに「仏道」を「画

道」と読み替えれば、これはそのまま絵画を語る言葉と

なる。即ち「画道を学ぶとは、自己を学ぶ事だ。自己を

学ぶとは、自己を忘れる事だ。自己を忘れた時に、世界

はその実相を証すだろう」、少々の意訳(誤訳と言うべ

きか)はこの際ご容赦頂くとして、如何だろう。ここに

中西和と云う画家の真髄を見るのは、私だけだろうか。

 

                     (20.03.22)