Collection No.125 (2020)       板に油彩 / 65.0x46.5cm
Collection No.125 (2020)       板に油彩 / 65.0x46.5cm

画廊通信 Vol.204           風に吹かれて

 

 

 画家の死はいつも不可解だ。作品を所有する作家の場合は尚更である。目前の作品は、常に生き生きとした固有の生命を漲らせて尽きない。つまり作品の中で作家の魂は、今もこうして生き続けている。だから作品を見ていると、作家の顔が、姿が、声が、その仕草が、脳裏に有り有りとよみがえる。しかし、それを生み出した人はもう居ない、最早二度と会う事は出来ない。この相反する現象がどうにも腑に落ちないまま、遠のいた現実感がいつまでも戻らない、未だにそんな状態が続いている。

 

「余命半年と言われたよ、このまま何もしなければね。抗癌剤治療を受ける事にしたけど、それも何処まで効くのかは分からない。色々な状況を総合して判断すると、

あと2年ぐらいだろう」、晩夏の河口湖畔には、爽やか

な風が吹き渡っていた。戸も窓も開け放ったアトリエに

低く流れるボブ・ディランをバックに、ゆうさんは至極

冷静に話されている、まるで他の誰かの話をしているか

のように。顧みれば3年前のあの時から、現実感は私か

ら乖離していたのだと思う。外見は普段と全く変わらな

いながらも、実は限られた命を覚悟した人間が、今目の

前に居るのだと云う事実が、どうにも実感として迫って

来ない。「でもね、こうしてはっきりと時間を区切って

もらった方が、俺としてはやり易いんだ。残された時間

を無駄にせず、制作に専念出来るからね。俺は画家だか

らさ、絵を描けなくなったらそれで終わり、それ以上生

きたいとは思わないよ」、そんなゆうさんの話に、その

日私は何一つ、気の利いた言葉を返せなかった。あくま

でも画家として生き、画家として死にたいと云うその透

徹した決意を前にして、私なぞが何を言い得ただろう。

 その年の秋、都内における例年の個展が開催される最

中に、ゆうさんが末期癌で余命幾ばくもないと云う浅は

かな噂が、まことしやかに諸所を流れた。おかげで私の

画廊にも、それを図らずも耳にしたお客様から、突然の

思いもしなかった悲報に困惑した声音で、事の真否を問

う何件かのお電話が入ったが、その度に私は「大丈夫で

す。来年の個展も予定通りにやりますから」とお答えし

た。冗談じゃない、大丈夫だ、現に今もゆうさんはアト

リエで独り、黙々と制作を続けられているではないか、

そんな画家の命を懸けるが如き姿が間近に有りながら、

何故にその人の死を早めなければならないか、そう思っ

たからである。翌年、記念すべき第10回展の案内に、

私は「KEEP ON DANCIN’」と云うタイトルを冠した。

「踊り続ける」──これは前年に蔓延した噂に対する、

私なりのアンチテーゼであった。この時の同欄を、私は

このように結んでいる。以下は2年前の画廊通信から。

 

 初回展から10年、色々な事があった。私などはその

初回展の最中に緊急入院となってしまい、しょっぱなか

ら作家には大変な迷惑をおかけした、それも今や懐かし

い思い出だ。それはさて置き、その数年後には反対にゆ

うさんが体調を崩されて、予定していた展示会を見送っ

た年もある。曖昧な希望だけでは済まされない諸事もあ

ったろうし、それらを背負って歩まざるを得ない状況も

あったろう。しかしいつ如何なる時でも、ゆうさんは徹

して「画家」であった。徹して画家であるという事は、

如何なる時も描く事をやめない、という事であった。た

とえどんな状況であれ、目前の絵の中に生きて、耕し、

育み、温かな大地の色を与え、躍動する描線を刻み、豊

穣の実りをもたらす、そんなたゆまざる魂の舞踏を、ひ

たすらに踊り続ける事であった。スランプにはならない

のかとお聞きした事がある。ゆうさんはこう答えられた

──「なった事もないよ、そんな高級なものは。スラン

プって事は、良い時があったんだろ? そんなものはな

かったから悪い時もない、いつも同じなんだよ。メシを

食うように、酒を飲むように、絵もそうやって描いて来

たんだ。メシを食うのにスランプなんてあるかい?」、

単純な事さ、描くとは生きる事じゃないかと、当然のご

とくそう言い切れるのが「わたなべゆう」という画家で

あり、だからこそ生み出せるのだろう、あのような命み

なぎる絵を。10年目を迎えて今言える事、これからも

ゆうさんはしなやかに踊り続けるだろう、命ある限り。

 

 この時のドローイング展は成功裡に終わり、昨年の油

彩展も通常通りの開催となって、ゆうさんは山梨からの

遠路を物ともせず、この折も4~5回に亘って足を運ん

でくれた。一方ではその間、2週間毎の抗癌剤治療と週

2回のワクチン投与を、ゆうさんは欠かさず続けられて

いた。今にして思えば、ゆったりと気を休める暇など、

無きに等しかったろう。事実それに関してだけは「せっ

かく仕事が乗って来たかと思うと、もう病院に行かなき

ゃならない、集中が続かないんだ。しょっちゅう仕事が

中断されてしまうのだけは、やはり応えるよね」と、さ

しもの偉丈夫もぼやいておられた。しかしながら、辛い

素振りなど周囲には微塵も見せなかったから、私達の目

に映る画家は、常にいつもと変わらぬゆうさんだった。

そして私は、それほど遠くない日に訪れるであろう画家

との別れをいつしか忘れて、避けられないゆうさんの不

在を考えなくなっていた。だから展示会を終えてからも

時折お客様に「ゆうさんはどうですか?」と聞かれる事

があったが、決まって「大丈夫、元気ですよ」と繰り返

した。本当にそう思い込んでいたのか、そう思い込もう

としたのかは、自分でも定かではないのだが。いずれに

しろ、その返事でホッと胸を撫で下ろしたであろう少な

からぬお客様には、この場を借りて陳謝申し上げたい。

 そうこうする内に時は流れ、昨年末にお電話を差し上

げた折には「秋にちょっと入院をしたんだ。長期に亘る

抗癌剤治療で、副作用が出てしまってね」と話されてい

た。「帰って来てからは、薬を全部やめたよ。そうした

ら凄く楽になってね、却って体調がいいんだ。何しろ病

院通いが無くなったから、制作に集中出来るようになっ

た。来年の分、頑張ってるからさ」、そんないつになく

明るい声が、私の聞いたゆうさん最後の言葉となった。

 

「父が今日亡くなりました」と云う思いも寄らない電話

が入ったのは、それから3ヶ月も経たない今春の事であ

る。まだうら若い娘さんからだった。10日ほどを挟ん

で、富士河口湖町のご自宅に伺わせて頂いた折には、2

人の娘さんが出迎えてくれた。「入院して2~3日で亡

くなったんです。本当に急な事でしたが、最後は眠るよ

うに穏やかでした」、まだまだ悲嘆の只中であったろう

に、さすがゆうさんの娘さんと言うべきか、和やかな応

接を崩さない、気丈なお二人であられた。遺影は、お孫

さんが撮った写真を使ったのだと言う。写真の中でゆう

さんは、私達にはあまり見せた事のないような、優しい

好好爺の顔になっていた。顧みればあの日、ゆうさんに

医師の告知を打ち明けられた時から、2年半を超える歳

月が流れた事になる。生前常々言われていた通り、ゆう

さんは亡くなる間際まで「画家」と云う生き方を、見事

に全うされたのだと思う。その日アトリエに案内されて

目にしたのは、まだ地塗り段階で絵の入っていない支持

体が、所狭しと床に並べられている光景だった。ついこ

の間まで、ゆうさんはここで制作に励んでいたのだ、来

たるべき個展に向けて。壁際にはあのイエローオーカー

に染まるパネルが立てられ、そこには10数点の完成し

たと思しき作品が掛けられている。それら最後の作品群

を前に、娘さんの微笑んでおっしゃるには、「いつも夕

方になると、ゆうさんはこうやって自分の絵を掛けて、

それを見ながら焼酎を飲んでたんですよ、独りで何だか

嬉しそうに。気が散るからアトリエに入るな、と言われ

た事もあります、やる気満々だったみたい。短かったけ

れど最後の月日、ゆうさんとっても幸せそうでした」。

 

 ゆうさんの芸術に関しては、これまでも折に触れ様々

に記して来たが、画家の不在となった今、改めて総括す

べき課題なのかも知れない。ただ、この場ではとても語

り切れないので、それは次の機会に譲るとして、それよ

りも今回は、ゆうさんが私達に残してくれた「作品」そ

のものについて、少々の管見を述べておきたいと思う。

 ゆうさんは周知の通り、生半可な小説よりもよほど波

乱に富んだ、魅力的な生き方をした人であった。特に若

き日々の何年にも亘る放浪は、今やファンの間では伝説

となっている。後日、美術番組等がゆうさんの特集を組

むとしたら、間違いなくその物語をメインに構成するだ

ろうし、斯く言う私自身にしても、何度かその話題をこ

の場に提供させて頂いた、やはり稀代の芸術家を育んだ

土壌は、其処にあるのだろうから。しかし今顧みれば、

ゆうさん自身はそのような体験を、殊更にアピールする

事はなかった。聞けば気さくに語ってはくれたが、自身

の内では疾うに終わった事であり、二義的な昔話に過ぎ

ないと云う風があった。おそらく、社会をドロップアウ

トしてまで追い求めた真の自由は、長い旅路の果てに一

枚の画板の上に帰着したのだ。よって画家は見出した本

当の自由を、全て画面の中で行使した、縦横無尽にあら

ゆる制約を超えて。だから、目前の画上を生きる冒険者

にとって、過去の冒険譚は最早不要であったのだろう。

 芸術家を語る時、人はその生涯に重点を置きたがる。

曰く悲恋があった、借金に苦しんだ、病気と闘った、誰

それと確執があった等々。そしてそんなドラマが有って

こそ、あの名作が生まれた、美術史家は正にそんな筋書

きを創り出す。しかし考えてみれば、失恋なんて猫でも

するし、借金や病気なら私だってしている、その程度の

ドラマなら誰にでも有るのだ、画家に非ずとも。所詮芸

術における真のドラマとは、画家が心血を注いで描き上

げた一枚の絵の中にこそ宿るのであり、それに比べれば

生涯の出来事などは、浮世の瑣事に過ぎない。よってゆ

うさんの場合も、真のドラマは眼前の絵画の中に有る。

この中にこそ画家の自在な冒険が宿り、それは現在も生

き生きと展開中だ。だからゆうさんは今も生きている、

そして生き続けるだろう、この豊饒なる時空の内奥で。

 

 画家はいつも風をまとっていた。それは全てをしなや

かに解き放ち、自由へと誘なう風だった。青ざめて干涸

びた時代に、横溢する生命の脈動をもたらし、小賢しい

インテリのはびこる美術シーンに、荒々しい原初の生気

を吹き込み、画家はこの四半世紀を縦横に駆け抜けた。

締め上げたバンダナ、粗い麻のジャケット、穿き古した

ジーンズ、色褪せたレザーバッグ、時に風を孕んだマン

トをなびかせ、精悍な髭を蓄えた長身で颯爽と歩くその

姿は、徹底した不覊の精神を貫く、紛れもないアウトサ

イダーだった。あの雄姿を、私はいつまでも忘れまい。

 思えばゆうさんの魂は、いつも遥かな原野に在った。

画家はその地を鋤き起こし、鍬を入れ、黙々と耕し、地

味を与え、生命の種子を蒔いた。やがて豊饒の沃野にも

たらされた実りは、数知れぬ人々の下に届いて、今も尽

きる事なき温かな脈動を、生き生きと打ち続けている。

そして私達の有る限り、その脈動も共に有る、画家の育

んだ命はいつまでも絶えず、ここに生き続けるから。世

を覆う暗雲は未だ晴れないが、私達もまたこの困難な時

代を、残された永遠の果実を胸にいだいて、きっときっ

と生き抜いてゆく、あの吹き渡るゆうさんの風と共に。

 

                    (20.05.23)