再生された遊具 -部分- (2019)      鉛筆 / 31.0x36.0cm
再生された遊具 -部分- (2019)      鉛筆 / 31.0x36.0cm

画廊通信 Vol.206             絵画の言葉

 

 

 あまり関係のない話から始める事になるが、フレデリック・ショパンというよく知られた作曲家が居る。長年クラシック音楽に親しんで来た者としては、誠に恥ずかしい話なのだが、私の場合ショパンへの開眼は極めて遅く、きちんと向き合えるようになったのは40を過ぎてからである。今更言い訳も見苦しいけれど、あの肖像画がいけなかった。学校の音楽室にも掛かっていた、見るからに女々しいアレである。如何にも脆弱な、薄幸の美

青年といった感じで、そこに「ロマン派」「ピアノの詩

人」「病弱」といったファクターが重なって、極め付け

にジョルジュ・サンドとの熱烈な恋愛悲話が加われば、

どうしたってデリケートでセンシティブなイメージばか

りが形成されてしまう。そこで生真面目かつ硬派のクラ

シック少年としては、そんな軟弱なヤツとなよなよ付き

合っていては、こちらまで女々しくなってしまうという

訳で、もっと男らしく女っ気の無い(モテなかっただけ

らしいが)ベートーヴェンや、より先鋭的な近・現代の

作曲家にシンパシーを抱くようになった、思うにこれは

ごく自然な成り行きと言ってもいい。そんな状態が、愚

かにも40辺りまで続いてしまったのだが、それから遅

ればせながらショパンの音楽と、徐々に先入見を外して

付き合う事になり、今に到って思う事は、未だ一般に流

布しているあのロマンティックで繊細なイメージは、シ

ョパンの或る側面に過ぎなかったのではないか、という

事だ。あの肖像画にしても、故意に弱々しく描いただけ

で、実際はもっと芯の太い、強い意志を持つ人物だった

のではないか、今はそんな考えに到っている。事実、晩

年に撮られた写真を見ると、そこには見慣れた肖像画と

は、別人と見紛うような人物が写っている。そこに居る

のはあの華奢な細面の美青年ではなく、もっと骨格のが

っちりとした偉丈夫だ。歳が行ったからだと言われれば

それまでだが、しかしながら、肖像画の描かれた時期と

写真の撮られた時期とは、それほど離れてないようなの

で、たった数年で骨格が変わる訳でもあるまい。まあ、

それは見た目だけの考察として、より肝心の信ずるに足

る証左は、残された作品そのものに見出せる。一つには

あらゆる楽曲の磨き抜かれた完成度、更にはその生涯を

通して貫かれた、徹底した純粋音楽のスタンスである。

「ロマン派」と言うと、感情の赴くままに書かれた即興

的な作風を連想するが、実際はバッハを始めとした古典

をショパンはこよなく愛し、その研究を怠らなかったら

しい。言うまでもなくバッハは、喜怒哀楽の感情表現よ

りは厳格な秩序に基づいた構築を一義とするから、ショ

パンもそれに倣ったのだろう、感情に流されるがままの

表現を嫌い、寧ろ如何なる瑕疵も見出せないまでの、徹

底した研磨を楽曲に施している。結果、弾く人が弾けば

「ノクターン」のような一種甘い楽曲にさえ、緊張の糸

が一切弛む事のない、完璧な音作りが見て取れる。そし

てもう一つ、これは作品リストを一目して直ぐにも分か

る事だが、そこには「4つのマズルカ」「2つのポロネ

ーズ」「12の練習曲」といった数値と形式の羅列しか

なく、言ってみれば誠に味気ない一覧なのである。古今

東西、これほど面白みに欠けるリストも珍しいだろう。

ちなみに「別れの曲」「革命」「雨だれ」等々の、如何

にもロマンティックなタイトルは、後世の人々が勝手に

付けたもので、本人のあずかり知らぬものだ。さて、こ

れは何を意味するのか、と考えた時、実はこの一見詰ま

らないリストこそが、ショパンという芸術家を貫く強靭

なスタンスの、明白な証左であった事に気づく。つまり

ショパンは譜面を書くに当たって、厳しく「言葉」を排

したのである。それによって、言葉がもたらす「思想」

や「文学性」を拒否し、純粋な音楽言語のみで楽曲を創

り上げたのだ。音楽言語とは即ち「音符」の事だから、

当然ショパンの音楽は、その全てが音符だけで創られ、

余計な思想の介入する余地は、一切無いと考えて良い。

通常ショパンと言えば、ロシアの征圧に苦しむ祖国ポー

ランドへの想いが必ず作品と関連付けて語られるが、そ

れを直接に作品で表そうという意思は、おそらく当人に

は無かったのではないか。そのような情感は自然に滲み

出る事は有っても、意図して創り上げるものではない、

ショパンはそう考えたに違いない。所詮芸術表現におい

ては、思想や観念の表現を目的とするよりも、如何なる

目的も持たない純粋表現の方が、時代を越えた強度と鮮

度を保つ。だからこそ、今この時代においてもショパン

の音楽は、尽きない感動を私達に及ぼし得るのだろう。

 

 もっと短く簡潔に切り上げるつもりだったのが、例に

よって長々と書き連ねてしまった。こんな話を書こうと

思ったのは、或る個展案内がキッカケである。仕事がら

色々な案内状が画廊に届くのだが、その中に啞然とする

ものが有ったのだ。作家自身の筆で、個展へ向けてのコ

ンセプトがギッシリと記されているのだが、その内容が

凄い。物理学から難解な仏教思想にまで話は及び、その

哲理に基づく世界観の表現を、今回は目指したと言うの

だ。仏教の哲理を、どのような理論と方法を用いて視覚

化したのかは定かではないが、案内状を見るとその結果

としての作品がちゃんと載っているので、たぶん未知の

理論と方法によって視覚化を可能としたのだろう。凄い

事だ。それで肝心の絵はどうだったか、と云う事につい

ては、何かしら有らぬ事を口走りそうなので、ここでは

「推して知るべし」と言うに留めたい。さて措き、ここ

で一つだけ申し上げたいのは、能書きが過ぎれば過ぎる

ほど、それに反比例してこちらの見る気は失せると云う

事だ。ちなみに斯様な御託を並べるのは、往々にして美

大教授陣を始めとした現代美術系作家、特に男性に多い

ように思えるが、やはり頭が良い人と云うのは、自身の

優れた学識・見識をつい披露したくなるものらしい。現

代の美術家は、誰も彼もが喋り過ぎる、本来「口」より

も「手」を動かすべき仕事であろうに。近頃はそんな訳

で、黙っている人がいよいよ偉く思えて来た。何故黙っ

ているのかと云うと、喋る必要が無いからだ。何故その

必要が無いかと云うと、披露すべき御託を持たないから

だ。何故持たないかと云うと、絵画で全てを語っている

からだ。思うに、それは決して思想性の欠如を意味しな

い、むしろ余計な思想性を排除するが故の、極めて真摯

な態度とは言えまいか。絵画は、絵画の言葉で語る──

この画家としての最も純粋な姿勢、即ち「純粋絵画」の

スタンスを考えた時、分野は違えど音楽の世界にも、や

はり純粋な姿勢を貫いた作家があった、例えばショパン

のように……と、そんな経緯でショパンから始める羽目

になった訳だが、如何せん長過ぎた。ちなみにショパン

は文筆には全くの無関心で、自作の解説等もほとんど残

していないと言う。やはり、沈黙の人だったのである。

 

 やっと本題に入るが、河内さんの個展は今年で12回

目となる。よってこの拙文においても、その魅力を毎回

様々な角度から語らせて頂いた。ご参考までに、8回目

の個展に際しての同欄で、私は次のように記している。

 

 今回の個展は8回目になるので、丸々7回分この欄を

 使って、河内さんの魅力を語って来た。鉛筆と云う特

 殊な画材について、それを駆使した瞠目の細密描写に

 ついて、その独創的なモノクローム表現、取り分けグ

 レー・グラデーションの美しさについて、手法とされ

 るコラージュの斬新な方法論について、必然的にそこ

 から生起する独自のシュルレアリスムについて、更に 

 は美術史を遥かにさかのぼり、河内さんの原点とも言

 えるブリューゲルやボッシュの異端芸術に到るまで、

 手を替え品を替え色々に記して来たけれど、しかしな

 がらあと一つ、重要なファクターが欠けたままになっ

 ていて、それが埋まらない限りは、河内さんの世界を

 廻るジグソー・パズルは完成しないという思いがあっ

 た。最後のファクター、つまりはそれが上述の博物学

 的偏愛であり、しかもそれは決して厳めしい学術的・

 考究的なものではなく、もっと人間的・世俗的な、あ

 る種めくるめくような好奇に根ざしたもの、言うなれ

 ば「ヴンダーカンマー的」偏愛なのだと思う。その最

 後のピースがカチリと納まった時、河内芸術を構築す

 るパズルは遂に完成へと到り、同時にあの軽やかなワ

 ンダーランドへの扉が、音もなく開かれるのである。

 

 この回は、かつて西洋のディレッタントを席巻したと

言われる「ヴンダーカンマー(=驚異の部屋:世界中の

有りと有る蒐集物や博物学的珍品を、これでもかと陳列

した狂気の部屋)」を取り上げ、河内さんの描く博物学

的モチーフとの類似性について書いたので、以上のよう

な記述となった訳だが、以降更に河内さんの個展を重ね

るにつれて、その独創的な芸術を語るにはもう一つ、加

えるべき重要なファクターが有った事に思い到った。そ

れがつまりは、前々頁から前頁に亘って長々と書かせて

頂いた「純粋絵画」のスタンスである。ファクターの一

つと言うよりは、河内さんの芸術を貫く、最も根本的な

立脚点と言うべきかも知れない。ファンの方なら周知の

ように、河内さんの世界は目を瞠るような遊び心に満ち

溢れている。「遊び心」と云う言い方が、或る種の軽さ

を連想させるなら「自在なイマジネーションの飛翔」と

でも言おうか、如何なる桎梏からも解き放たれた別次元

の世界が、縦横無尽に展開されるのである。それがどう

して可能なのかと問われれば、無用の思想を排したが故

の、純粋な絵画の言葉で描かれているから、そう答える

他ない。そもそも河内さんの用いる「コラージュ」と云

う手法は、無関係な要素を組み合せる事によって、思い

も寄らない意外性を生み出すと云う、いわゆる「デペイ

ズマン」の考え方を基にしているので、むしろ意味の破

壊こそを目的とする訳だ。よって思想や観念の介入は必

然的にその余地を無くす、こうして河内さんの立脚する

純粋絵画のスタンスは、いよいよ強固なものと成るので

ある。顧みれば、現在の美術シーンで「絵画は絵画の言

葉で語る」と云う視覚芸術の根本が、制作においてどれ

ほど実践されているのかを見る時、何らかのコンセプト

を介入させる事で真っ向勝負を避けたり、コンセプトと

は名ばかりのアイディア勝負だったり、或いは奇異を狙

っただけの幼稚なこけおどしだったり、単に写真の模倣

に過ぎなかったりと、誠に心もとない状況ばかりが散見

される。河内さんの世界は、比類のない斬新さを孕みな

がらも、敢えて先鋭の牙を隠すので、その佇まいはむし

ろ野卑な喧騒を離れた、上質の静謐感を湛える。よって

それは一見柔和な様相を呈するが、しかし内実は「外柔

内剛」の言葉も有るが如く、現代の生半可な美術シーン

に向けての、強靭な反骨を秘めているのかも知れない。

 

「思想」と云う言葉は聞こえが良い。故に思想を持つと

云う事は、何かしら精神の深さを思わせる。しかし、そ

れは学術・人文における話であり、芸術にもそれを短絡

に当て嵌める事は危険だ。美的表現が感性を武器とする

のなら、思想の土壌である知性の介入は、却って表現を

濁らす。濁れる精神に深さは有るだろうか。澄み渡る精

神だからこそ、遥かな深みにまで視線が届くのではない

か。たぶん芸術の深度は、その純度に比例する。ならば

美術に思想は要らない、絵画の言葉はそう語るだろう。

 

                     (20.07.24)