南瓜 (2020)         油彩 / 12M
南瓜 (2020)         油彩 / 12M

画廊通信 Vol.209              形象の力

 

 

 昨年の藤崎孝敏展における展示の中に、ただ「魚」とだけ題された作品があった。横位置のP6号、粗末な台上にでんと投げ出された、死せる一尾の魚軀。往時は勢いよく身をくねらせ、屈強に猛り暴れたのだろうが、今は重たげな腹をどっかと晒し、図体を鈍重に捩らせて、ぽっかりと大口を開けたまま、曇った眼を虚ろに見開い

ている。一見してグロテスクな絵だと思った。充塞する

生(せい) の残滓が、生々しく臭い立つような絵である。

仄暗い沈黙の中に、何か異様な気配をまといつつ、その

絵は会期中に亘って、画廊の一角を占めていたのだが、

昼となく夜となく目にする内に、何故かしらその一角に

佇む時間が長くなった。まるで強力な磁場に、否応もな

く引き寄せられるかのように、ついその絵に見入ってし

まうのである。ただ、何に魅せられているのかが皆目分

からない、これは不思議な体験であった。絵画であれ、

音楽であれ、文学であれ、自らの範疇にはかつて無かっ

た未知に触れ、そこに共鳴という現象が生じた時、往々

にこんな事態が訪れるようである。たぶん感性だけが先

に行ってしまい、知性との分離が起きて、自らの分析が

追い付かないのだろう、脳裏は正にそんな状況だった。

 言うまでもない事だが、通常は芸術作品を見るに当た

って、人はその「美」に惹かれる。むろん一口に「美」

とは言っても、その感じ方は千差万別・各人各様である

から、一概にその指し示す所を画一化は出来ないが、一

点「美しい」という感慨だけは、共通するものと考えて

良い。しかし……と、私は「魚」の前で自問する。これ

は「美」と言えるのだろうか。少なくとも私は、この絵

を「美しい」とは思わない。むしろ「醜い」という形容

の方が、妥当とさえ思える。さりながら、我知らず惹か

れるこの心情は何か。そもそも私は、この絵の何に感応

しているのか。もしやそれが、やはり「美」への感応で

あるのなら、芸術における「美」は、遂には「醜」をも

含むのか。そして私は再び、未だ誰も答え得ない、あの

永遠の問いに立ち返るのである。即ち「美」とは何か。

 

 美術史を紐解いてみると、17世紀頃を嚆矢とする初

期の静物画には、死んだ動物を克明に描いたものが散見

される。雉やら兎やら鹿やらが、紐に結わえられてぶら

下がっていたり、テーブルの上に無惨に横たわっていた

り、私達から見ると悪趣味にしか見えない絵だが、これ

はたぶん狩猟好きの領主辺りが、獲物を自慢するために

注文して描かせたものなのだろう。よく釣り宿等を覗く

と、黒々とした大きな魚拓が、これでもかと貼り出され

ている光景を見かけるが、要はあれを豪華絢爛にしたよ

うなものだ。元々はその程度だったものが、18世紀に

入りシャルダンの登場を境として、一気に歴とした芸術

表現へと昇格し、結果「静物画」というジャンルが確立

された訳だが、しかしながら、以降も何故か死体のモチ

ーフは、根強く後世にまで受け継がれる。例えばレンブ

ラントの描いた有名な牛の開きも、近代にはスーティン

が狂的な情熱でカヴァーし、のちにはフランシス・ベー

コンの背徳的な肉塊にまで到っている、最早注文する狩

猟好きの領主様なんて、居ないにも拘らず。この西洋美

術における異様な系譜は、一体何を意味するのだろう。

 静物画を、仏語では “Nature morte” と言うらしい。

「死んだ自然」という意味だが、これは上記のような歴

史を顧みれば、さもありなんと首肯できる言葉だ。しか

し「静物画」というジャンルが確立した時点で、その意

味は最早用を成さなくなった筈なのに、未だ同じ言葉が

用いられているという事実は、何か重要な理念を示唆す

るのかも知れない。それはフランス一国に限る事ではな

く、おそらくは数百年に亘る西洋静物画史の底流を、持

続低音の如くに流れて来た観念なのだ。今一度「魚」に

立ち戻って考えてみよう。ここ日本においても、琳派・

狩野派の昔から、若冲や国芳を経て近現代の日本画家に

到るまで、魚を描いた絵画は枚挙にいとまがない。ただ

面白い事に、その多くは生きて泳いでいる姿を、いきい

きと活写したものだ。あるものは敏捷に、あるものは優

雅に、それらはみずみずしい動きを伴って、画面上に伸

びやかな姿態で描き出される。よってここに「死んだ自

然」を見る視点は、皆無と言って良い。これは対象と向

き合うに際しての、西洋と東洋の如実な差違とも言える

が、それでは西洋の視点をここに導入するには、何を為

せば良いのか──答えは一つ、泳ぐ魚を水から掬い上げ

て、台上に放置する事。ほどなく魚は息絶え、そこには

今までの生新な姿とは打って変わった、生気の抜けた軀

(むくろ) が現出するだろう。生きた自然は須臾にして死

んだ自然へと変貌し、代わりに死体という物体だけが残

される。ここにはあの鮮やかな躍動もない、しなやかな

生動もない、有るものは如何なる情緒も情感も寄せ付け

ない、一箇の冷厳な「物」である。この「物」を描写す

るという視点、物と対峙して極限まで写実するという有

り方、そのためには、主観を離れた純粋な視覚に徹する

という姿勢、これを西洋静物画史の底流を貫いて来た、

一つの肝要な理念であるとするのなら、未だ「死んだ自

然」という言葉が用い続けられるその所以が、ここに見

えて来るのではないだろうか。命が只の物へと変容した

時、それを凝視する画家の眼は、一切の意味を剥いだ物

本来の姿を、より冷徹に暴き出すだろう。よってそこに

描かれるものは、たとえ飽きる程に見慣れたものであっ

ても、通常に私達が見知った形態とは、全く異なった姿

を見せるに違いない。 “Nature morte” は決して領主様

の亡霊に非ず、現代も生きる静物画の美学なのである。

 

 マロニエの根は、ちょうど私のベンチの下で、地面に

 食い込んでいた。それが根であるということも、私は

 もう憶えていなかった。言葉は消え失せ、それと共に

 物の意味も、使い方も、人間がその表面に記した微か

 な目印も消えていた。私は少し背を曲げ、頭を下げ、

 たった独りで、この黒い節くれだった塊、私に恐怖を

 与えるこの塊を前にして腰掛けていた。(中略) 不意に

 存在がそこにあった。それは火を見るよりも明らかだ

 った。存在は突然ヴェールを脱いだのである。存在は

 抽象的な範疇に属する無害な様子を失った。それは物

 の生地そのもので、この根は存在の中で捏ねられ形成

 されたのだった。物の多様性・個別性は仮象にすぎず

 表面を覆うニスに過ぎない。そのニスは溶けてしまっ

 た。後には怪物じみた、ぶよぶよした、混乱した塊が

 残った──むき出しの塊、恐るべき、また猥褻な裸形

 の塊である。(中略) 今では「不条理性」という言葉が

 ペンの下から生まれる。先ほど公園にいた時には、こ

 の言葉が見つからなかったが、これを探していたわけ

 でもない。言葉を必要としていなかったのだ。私は言

 葉なしで、物の上で、物と共に考えていた。不条理性

 とは頭の中の観念ではなかったし、声となって発せら

 れる息でもなく、私の足許で死んでいたあの長い蛇、

 あの木の蛇だった。私は何一つ明確に表現したわけで

 はないが、自分が存在の鍵を発見したことを理解して

 いた。(中略) 私は今し方、絶対の経験をしたのだ。絶

 対、ないしは不条理の経験である。あの根が不条理で

 なくなるようなものは、何一つなかった。ああ! こ

 れをどうやって言葉で定着することが出来るだろう?

 

 抜粋が長くなった。以上は J.P.サルトル「嘔吐」か

らの一節である。実存主義の原点としてよく知られた章

だが、このマロニエの根に啓示を受けたという挿話を、

サルトルは約14ページにも亘って延々と綴っている、

まるで書いても書いても核心に辿り着かないとでもいう

風に。主人公をして「これをどうやって言葉で定着する

ことが出来るだろう?」と言わしめているように、おそ

らく作者がここで語ろうとしている事は、結局言葉では

表し得ない事なのだと思う。何故なら、それは言葉を用

いる知性よりは、言葉を離れた感性の領域にこそ、有る

ものだろうから。換言すれば、そこは文学には非ず、絵

画の領域なのだ。たぶん主人公がマロニエの根に見たも

のは、画家が「物」を凝視する際に見えるであろうもの

に等しい。対象とする物から、その物にまつわる意味の

一切を剥奪して、前述した “Nature morte” の視線をそ

こに注いだ時、物は瞬時に隠されていた本性を露わにし

て、未知なる裸形を眼前に曝け出すだろう。ある意味条

理を超えるが故に、その変容をサルトルは不条理と呼ん

だ。それは私達の慣れ親しんだものとは、大きく異なる

姿を顕現するだろうから、時に奇っ怪な相貌を暴力的に

突き付けるかも知れない。藤崎さんの描く「魚」は、正

にそんな衝撃を見る者にもたらす。画家の眼は、このよ

うに魚を見たのだ。それは冒頭に記した通り、異様な迫

真性を満々と孕み、強烈な磁力を放ちながら、見る者に

圧倒的な存在感を突き付ける。この有りと有る条理を超

えた、有無を言わせぬ在り方を「実存」と言って差し支

えないのなら、藤崎さんの絵画は優れて実存的である。

 

 そして私は「魚」の前で、今一度元の問いに戻る。こ

れは「美」と言えるのだろうか。通常の意味では「美し

い」とは言えない絵、むしろグロテスクとさえ感じられ

る絵、しかしながらふと気が付けば、その強力な磁場に

否応もなく引き込まれている絵、この魅力は何なのか。

 思うに、感動という体験の要因が、美の衝撃に有るの

だとすれば、やはりこの魅力の大本にも、美が有るのだ

と結論せざるを得ない。すると芸術における美は、美醜

の差異を超えるものと考えるのが道理だろう。ならば、

そもそも「美」とは何か。この難問はご存じのように、

往古から数知れぬ碩学・賢哲を悩まし、それは普遍的な

イデアであるとか、主観的な認識に過ぎないとか、いわ

ゆる美学論議は未だ決着を見ない訳だが、一つ確かな事

は「魚」の前でそれを考えた人は居ないという事実だ。

そこで私は再び「魚」を凝視する。きっとこの中に、何

らかのヒントが潜んでいるのだ。不意にこんな疑問が浮

上する──この魅力は、本当に私の認識に過ぎないのだ

ろうか。いや、そうではないと、私は即座に否定する。

私の認識がどうこう言う前に、絵そのものが圧倒的な力

を放っているではないか。この明瞭な力の前に、私のあ

やふやな認識などは瑣末なものだ。この「魚」という形

象、色も形もタッチもテクスチャーも全てを含めた、抗

いようのない実存の形象、この形象の力だけは誰にも否

定出来まい。おそらく「美」とは「形象の力」なのだ。

それを定義と言えるかどうかは知らぬ、ただ、この確固

たる「魚」の教示は、一つの真実を私達に示すだろう。

 

 後日談。幸いな事に「魚」は、或る慧眼のお客様にも

らわれて行った。ここで言う「幸い」とは、むろん「売

れた」事に対する感慨でもあるが、一つには買わなくて

済んだ安堵でもある。もう少しで理性を無くし、後先も

考えず買ってしまう所だった。ただ、そのお客様はこう

言われたのである──そんなに好きなら後で売ってあ

げてもいいですよ、と。それから一年、私はその言葉を

励みに生きて来た。まだ買えない。しかしながら、今に

見ておれ、と志だけは熱い、この絵はまた必ずや、あの

「美の秘密」を語ってくれる筈だから。魚よ、待ってい

て欲しい、私はいずれ君を連れ戻すだろう。その前に、

私が天に(地下かも知れないが) 連れ戻されない限りは。

 

                     (20.10.19)