歩道に降る雨・表参道 (2020)      混合技法 / SM
歩道に降る雨・表参道 (2020)      混合技法 / SM

画廊通信 Vol.210              雨の意義

 

 

 次回は「雨」をテーマにしたい──という意向は、以前からお聞きしていたのだ。そこで私は何とは無しに、雨の窓辺で独りもの想う女性像、或いはそぼ降る雨の中にたたずむ憂愁の婦人像、といったようなイメージを思い描いていたのだが、送られて来た新作の数々を目にして、そんな安易の予測を見事に裏切られる事となった。

何と全てが「風景」で、舟山さんと言えば直ぐにも思い

浮かぶ、あの特徴的な人物像は一点も無い。舟山一男展

は今期で15回目となるが、人物が一人も居ないという

ラインアップは、正に今回が初めてである。さすが舟山

さん、我々の陳腐な予測など、軽々と裏切ってこそプロ

だ、画家はまた新たな挑戦をされたんだなと、その痛快

な転進を目の当たりにして、久々に胸が躍る思いをした

ものだった。しかも今回は、幾度も描かれて来たパリや

ベニスの風景に加えて、今まではほとんど目にした事の

なかった、東京や横浜を舞台とした作品も多い。舟山さ

んの東京、舟山さんの横浜、そう聞いただけで、何か心

ときめくものを感ずる方も、多いのではないだろうか。

 ムーランルージュの風車に、セーヌに架かる橋梁に、

ヴェネチアを見下ろす鐘塔に、そして東京の街路に・川

面に・空港に、横浜の埠頭に、草地の猫達に、柔らかな

雨は等し並みに降りしきっている。それは車窓の雨粒で

あったり、大気を濡らす霧雨であったり、街並みを覆う

煙雨であったり、或いは暗示されるのみであったりと、

多様なヴァリエーションを見せるのだが、暫しその情景

に見入る内に、ふとこんな思いが脳裏をよぎる──これ

らの雨には、何かしら或る共通した意義が有るのではな

いか。それ故にこそ雨は画面の中で、有りと有る風景に

降り続けるのだ。おそらく、画家はこの「雨」に何かを

託した、ならばその隠されたものを、知りたいと思う。

 

 アーネスト・ヘミングウェイの短篇に「雨の中の猫」

というよく知られた作品が有る。文庫版にして6頁ほど

の極めて短い小品だが、初読では作者の言わんとする事

が、私には全く分からなかった。ヘミングウェイを語る

際に決まって言及されるのが、いわゆる「氷山理論」と

呼ばれる作家独自の哲学で、水面上の氷山が全体の僅か

な部分に過ぎないように、小説もその一部を書き示す事

で、隠れた全体を表現し得るとするものだ。ならばこの

「雨の中の猫」という作品にも、文章上には書かれてい

ない或る重要な思念が、必ずやその紙背に有る筈だ。そ

れを知る方法は熟読のみ……という訳で、どうせ短い作

品でもあるし、何度も読み返してみたのだが、その成果

を述べる前に、まずは物語の概要を書き出してみたい。

 舞台はイタリア・或る海岸沿いのホテル、その2階に

アメリカ人の若い夫婦が滞在している。ある雨の日、ま

だ少女のような妻が、窓の真下に置かれたテーブルの陰

に、雨を避けてうずくまる仔猫を見つける。その姿を不

憫に思った妻は、猫を連れて来ようと階下に降りて、強

い雨足の中を庭へと出てゆく。しかし、テーブルの下を

覗いてみると、仔猫の姿はもうそこに無い。失望感に襲

われて部屋に戻る途中で、老いた支配人がフロントでお

辞儀をしてくれた刹那、彼女の中で何かが微妙に変化す

る。その時の模様を、作者はこのように描写している。

 

 アメリカ人の妻が通りかかると、パドローネ(主人) が

 机の向こうからお辞儀をした。何かとても小さく固い

 ものが、彼女の中で身じろぎした。(中略) 束の間、彼

 女は自分が、この上もなく重要な存在になったような

 気がした。彼女は階段を登り、部屋のドアを開けた。

 

 ベッドで本を読んでいた夫に、猫が見つからなかった

事を伝えた後、妻は男の子のような短い髪形を伸ばした

いと言うが、夫は「今のままでいい」と相手にしない。

そんな夫に、妻は駄々っ子のように欲求をぶちまける。

「髪をぎゅっと引き詰めて、後ろで束ねたい。仔猫を膝

に乗せて、喉を鳴らして欲しいの。それに自分の食器も

キャンドルも欲しい。今が春だったらいいし、新しいド

レスも欲しいわ」、聞く耳を持たずに夫がまた本を読み

始めた時、誰かがドアをノックした。戸口には、大きな

三毛猫を抱えたメイドが立っていた。「パドローネに申

しつかったのです、この猫を奥様にお届けしなさいと」

 

 こうして概観してみると、この作品は「物語」という

よりは「スケッチ」に近い。問題は、最初に若い妻がテ

ーブルの下に見た仔猫と、最後にメイドが抱えてきた大

きな三毛猫が、同じ猫なのかどうかだが、未だその解釈

は分かれたままらしい。ヘミングウェイ本人も、例の氷

山理論を遵守して、本意は明かしてないと言う。これが

もし違う猫だったとしたら、ホテルの支配人は人心の機

微が分からない、只のお節介爺さんという事になってし

まう、若い妻は雨の中の仔猫をこそ欲しかったのに、彼

は猫なら何でもいいだろう位の考えで、代わりに似ても

似つかぬ大猫をよこした事になるのだから。ところが作

者はこの支配人を、そんな軽佻な人物としては設定して

いない。彼は堂々たる威厳を備えた、支配人としての誇

りに溢れたプロであり、若い妻が雨を衝いて庭に出た時

も、彼女を気遣ってメイドに傘を差させるような場面も

あって、そんな人物が、太った猫を平気で届けさせるよ

うな、無神経な所為に及ぶとは考えにくい。ならば、雨

の中の仔猫と大きな三毛猫は、同じ猫だと考えるのが妥

当ではないだろうか。幾つかの解釈に当たると、猫は胎

児のメタファーだとする説が有力らしい。つまり、妻は

子供が欲しいのに夫はそれを望まない、だから彼女にと

って仔猫とは、子供の投影なのだと。なるほど、そう読

む事も出来ようが、それは牽強付会に過ぎるような気も

する、作者は何も、読者に謎解きを仕掛けている訳では

ないのだ。あくまでも私見だが、仔猫を何らかの暗喩と

見るのなら、それは若い妻の中に沈積されたフラストレ

ーションのメタファーではないだろうか。たぶん夫は少

女のような妻を、飾り物か愛玩物のようにしか見ていな

い。常日頃それに不満を抱きつつも、夫に従属して支配

されて来た妻が、或る雨の日に、不意に独立した自我を

意識する。そのきっかけとなったのが、前頁に引用した

老支配人の振る舞いだ。彼女を、確固とした人格として

対してくれるパドローネの前で、若い妻は胸奥で身じろ

ぐ「何かとても小さく固いもの」を感ずる。おそらくそ

れは、今までは意識しなかった自我の萌芽なのだ。はっ

きりと自己に目覚めた時、少女の目で見ていた仔猫の姿

が、実は大きな三毛猫だった事が分かる、その大きさの

変容こそが、そのまま彼女の不満を暗喩しているのでは

ないか。つまり、明晰な意識で自己を省みれば、既に彼

女のフラストレーションは、取り返しの付かない程に膨

らんでいたのだ。おそらくこの作品は、妻が自我に目覚

める事によって、戻す事の出来ない亀裂が夫婦に生じる

その瞬間を、鮮やかに描き出したスケッチなのである。

 

 さて、長々と管見を述べてしまったが、通常はこれで

解釈終了となるのだろう。しかし考えてみると、上記は

単に「辻褄を合わせてみた」というだけの事で、この作

品が孕む詩的香気については、何ら触れ得ていない。実

際この作品は、終始何かみずみずしい香気に包まれてい

る。全体を言わば持続低音のように貫き、詩的なアトモ

スフィアを生み出しているもの、やはりそれは最初から

最後まで降りしきって、止むことのない「雨」である。

背景に絶えず密やかな雨音を響かせる事によって、この

作品は単なる夫婦の危機物語を超えた、一篇の詩的散文

への昇華を可能にしたのだと思う。更には、こんな思い

さえ湧き上がるのだが、どうだろう──若い妻の覚醒を

促したその要因は、実はこの降りしきる「雨」ではなか

ったのかと。前述した老支配人の振る舞いは、確かに一

つのきっかけにはなっただろう、しかしながら、それは

決定的な要因ではない。思うに、あたかも雨が視界の風

景を一変させるように、この作品の中で終始降り続く雨

は、知らず知らずの内に、彼女の精神風景をも変えてし

まったのではないだろうか。たぶんこの作品における雨

は、一つの「フィルター」として機能しているのだ。雨

というフィルターを通して、彼女の精神から何かが抽出

され、やがてそれは彼女自身をも変えてゆくのである。

 

 やっと雨に主題が及んだ所で、舟山さんの「雨」に話

を戻したい。おそらく、舟山さんが今回の作品に施した

雨のヴェールは、ヘミングウェイが上述の短篇に仕掛け

た雨のフィルターに等しい。小説家が雨のフィルターで

物語の風景を変容させたように、画家は雨のヴェールで

絵画の風景を変容させてゆく。そもそも絵画における風

景とは、画家というフィルターを通した風景に他ならな

いのだが、今回の新作を描くに当たって、舟山さんはそ

の精神的なフィルターを、物理的な「雨」という現象に

具体化させて用いている。よってここに描かれた雨は、

常日頃私達が体験しているあの雨であると同時に、通常

は作品の奥に隠れて見えない筈の、画家というフィルタ

ーそのものでもあるのだ。風景と画家の間に「雨」とい

うヴェール=フィルターを掛ける事によって、舟山さん

は画面上に、類いない心象風景を創り上げている。顧み

ればこの「心象風景」という言葉を、私達はあまりにも

安易に用いているが、現在の美術シーンで真に「心象風

景」と言えるものが、果たしてどれほど有るだろうか。

描かれた風景に、確かな作家の精神が在る事、換言すれ

ば、風景の中に作家が確かに居る事、更に極言すれば、

風景が作家そのものである事、この条件を満たしてこそ

真の「心象風景」だろう。それを見事に可能としている

ファクターが、今回舟山さんによって密やかに仕掛けら

れた「雨」なのだと思う。全てに降りしきる雨は、ここ

で一つのフィルターとして機能し、故に実際の風景を変

容させて、或る心象の風景を浮上させる。そして、そこ

から何かを抽出するのは、他でもない私達自身なのだ。

 一例を挙げたい。右に掲載した作品は、歩道の石畳だ

けを描いた極めてシンプルなものだ。たぶんそれだけで

は絵にならない素材に、画家が雨を降らせた瞬間、歩道

の石畳は鏡となり、街の光を仄かに映し出す。折しも陽

が傾いた頃だろうか、窓の灯りとも見えるフォルムが、

濡れた路上に淡い影を落とし、それは瞬時に窓の奥でさ

ざめくだろう「人」の気配を浮かび上がらせる。加えて

窓の外には、夕暮れの雑踏が有るのかも知れない、それ

らの描かれてはいない光景を、この作品は様々に想像さ

せて尽きない。僅かなモチーフのみで、直接には描かれ

ない世界を表わす──ヘミングウェイの氷山理論は、こ

こでも見事に具現化されている。そしていつか私達は、

絵の中に一人の詩人を見出すだろう。雨に濡れながら、

街の温かな響きに耳を澄ます、或る孤独な詩人の魂を。

 

 舟山さんが「雨」に託したもの、畢竟それは画家自身

に他ならないのだと思う。雨は舟山さん自身だ。その掛

けがえのない個性が、柔らかな雨となって降り注ぎ、い

つしか世界を微妙に変容させて、やがて何処でもない内

なる風景が、密やかにその姿を現わす。雨のヴェールは

必ずや見る人の中で、言い難い何かを抽出してくれるだ

ろう。私達は唯それを感じたい、あのヘミングウェイの

描いた女性が、雨の中で大切な何かを掴み得たように。

 

                     (20.11.26)