片隅の景・Ⅱ (2020)      油彩 / 4F
片隅の景・Ⅱ (2020)      油彩 / 4F

画廊通信 Vol.212             変奏の差異

 

 

 ジョルジョ・モランディという画家は、私にとって長い間の謎であった。周知の如く、制作は到ってシンプルなものだ。そのほとんどは卓上の静物、とは言っても、通常誰もがモチーフにする花や果実の類いは、あまり取り上げられる事はない。それよりも、ごくありふれた器やカップ、瓶や水さし、箱や缶、モチーフはそんな物で

事足りるようである。のみならず、その種類も甚だ限ら

れていて、同じ瓶や水さしがあの絵にもこの絵にも至る

所、何度も何度も顔を出す。それが、画業における一時

期の事なら分かる。或る時期を一つのテーマのみに専念

し、ひたすらにその奥義を追求した、というような事例

なら、往々にして有る話だから。しかし、一生涯に亘っ

て同じ瓶や水さしだけを飽かず描き続けた、というよう

な事例は、極めて稀にして特異な話である。この異様と

さえ言える執拗な専心は、一体何を意味するのだろう。

 

 2016年春、「モランディ~終わりなき変奏」と題

された展示会が、東京ステーションギャラリーで開催さ

れた。何せモランディの個展は初めてだったから、好機

到来、この際は存分に実物に触れて長年の謎を解きたい

と、大きな期待と共に足を運んだのだったが、結果とし

てそれは見事に外れて、尚更もどかしい疑問符だけが残

る羽目となった。顧みるに「終わりなき変奏」という副

題は言い得て妙と言う他なく、モチーフの並べ方をほん

の少し変えてみたり、ついでに色も少々変えてみたり、

或いは微妙に視点をずらしてみたりと、要するに一部が

僅かに異なるだけの同じような絵が、延々と続くのであ

る。そんな会場を見て回るほどに、一体この人は何を言

いたかったのだろうと、いよいよ疑問は深まるばかりな

のであった。最も困った事態は、そうではありながらも

何かしら言い難い魅力を、多くの作品が具えていた事で

ある。という事は、作家の意図は分からないながらも、

その作品には惹かれている訳だ、さりながら作意を解せ

ないものだから、その魅力を語ろうにも語れない、この

隔靴掻痒の状態は、どうにも苛立たしいものであった。

 

 モランディを敬愛する人は、本職の画家に多い。一流

の画家は、学者や評家以上に鋭い知見を持つ事もあり、

私はこの不可解な作意の謎を、機会あらば彼らに訊ねて

みる事にしていた。結果、それぞれに独自の見解を聞く

事は出来たのだが、悲しいかな、私なんぞの半端な理解

力ではどうもその核心が掴めず、ついぞ明確な答えを得

られないままに、時だけが慌ただしく過ぎてしまった。

そんなある日、何度目かの彫刻展を開催の折りに、同じ

質問を在廊中の作家にぶつけてみたところ、間髪を入れ

ずこんな答えが返ってきたのである──「響き合いでし

ょう。色と形を通した『響き合い』を言いたかったんだ

と思う。そもそも、絵は全てそうだよね」。この言葉を

聞いた刹那、長年の疑問が不意に氷解し、モランディと

いう画家が私の中で、初めて腑に落ちたように思えた。

 響き合い、音楽用語ならハーモニー、この概念をモラ

ンディの作画に持ち込めば、謎は緩やかに解けて行くで

はないか。作曲家が微妙なハーモニーの連なりを飽かず

探求するように、画家もまた色と形の奏でるハーモニー

を、どこまでも追いかけたのだろう。たぶん、モチーフ

の並べ方を少し変えただけでも、それらが作り出すハー

モニーは微細に変化したのだ。或いは、視点を僅かにず

らしただけでも、和声はその表情を変えたに違いない。

孤独で地道な日々の中で、そんなハーモニーの彩なすド

ラマとひたすらに向き合う内に、あの画風は自ずから形

成されて行ったのだろう。そしてそれは画家にとって、

一生を懸けるに値する、大いなる冒険だったのである。

 

 さて話が長くなったが、元より私にはモランディ論を

ぶち上げるような野心はない。それよりは、モランディ

との比較を通して「森幸夫」という画家を、殊に今回は

その「静物画」を炙り出せればと考えたのである。ちな

みに森さんもまた、モランディを愛する画家である。し

かもその愛し方が半端ではない。何しろ「モランディを

見る」という唯それだけのために、遥かイタリアはボロ

ーニャの美術館まで、千里を通しとせず足を運ばれた方

なのだ。何にそれほどまでに惹かれたのか、それについ

ては未だ聞かず仕舞いだが、いずれにせよ森幸夫という

稀有の画家が形成される途上で、モランディという存在

が重要な位置を占めたであろう事は、想像に難くない。

「久しぶりに静物画を描きましたよ」、昨年暮れにアト

リエまで伺った折り、新たな作品に見入る私の横で、森

さんはそう言って微笑まれた。なるほど今回は津軽の新

しい作品群と共に、幾点かの静物画も顔を見せている。

いずれも深く濃密な静寂の中から、音にならない響きが

津々と滲み出すかのような、一種幽玄の趣をさえ感じさ

せる作品であった。更に言えばそれらの静物画は、津軽

を舞台としたあの独創的な風景画と入り混じっても、不

思議と何の違和も感じさせない。同じ画風なのだから当

然とも言えるが、しかしながら通常はそうであっても、

静物画と風景画が同一平面上に置かれれば、ジャンルに

よる違いは歴然と現れる筈だ。それが眼前では、両者は

ごく自然に肩を並べて共存している。所詮そこが津軽の

砂丘であれ、アトリエの卓上であれ、他の何処であれ、

画家の眼を通して現れる場所は、常に森さんの内なるフ

ィールドに他ならない。逆に言えば森さんは、何処を描

いても、何を描いても、全てを自らのフィールドに同化

してしまう、そこまで行き着いた画家なのだろう、この

日私はそれを深く実感しつつ、帰路に付いたのだった。

 

 今、目前に3点の静物画がある。いずれも上記の際、

展示会に先立ってお預かりして来たものだ。一点は案内

状に掲載した作品で「Still life ’06  土器のある…」と題

されたもの、M10号の横に長い画面が、えも言われぬ

モスグリーンの沈黙に満たされている。これだけは以前

の旧作だが、後2点は昨年の新作である。共にF4号、

「片隅の景」と題された連作で、どちらも柔らかな静謐

が霧のように卓上に降りている。モチーフはいずれもあ

りふれた器やカップで、むろん精妙な構図計算がここに

は施されているのだろうが、それは画面の裏に隠れて見

えない。よって器やカップは至極無為の佇まいで、何気

なく卓上に置かれたかのようだ。いや、よく見るとここ

は卓上ですらない。静物のモチーフが置いてあるから、

見る側はつい卓上と思い込むだけの話で、実際の作画に

はただ空間が描かれているのみだ。この或る種の抽象空

間に覆われた画面で、森さんの静物はそこはかとない永

遠性をまといつつ、何処までも密やかに佇むのである。

 ふと気が付けば、いつか私は確かな森さんのフィール

ドに居る、ここにモランディの影はない。先述の通り、

或る時期までの森さんにとって、モランディが重要な先

達であったのは事実だろう。しかしこうして顧みた時、

森さんの歩んで来られた道と、かつてモランディが歩ん

だ道との間には、今や大きな隔たりが有るようにも思え

る。ならばその差異について、何かを語れるだろうか。

 

 私達が実際に見ているもの以上に、もっと抽象的で、

 もっと非現実的なものは、何もないと私は信じていま

 す。私達が人間として、対象世界について見る事の出

 来るあらゆるものは、実際には私達がそれを見て理解

 するようには存在していない、という事を私達は知っ

 ています。もちろん対象は実在するのだけれど、それ

 自体の本来の意味は、私達がそれに付随させているよ

 うな意味ではありません。コップはコップ、木は木で

 あるという事しか、私達は知る事が出来ないのです。

 

 以上は、モランディのインタヴューからの抜粋だが、

この西洋人特有の回りくどい言辞を私なりに砕けば、凡

そこうなるだろうか──私達が対象を見る時、そこから

「意味」を剥ぎ取れば、実に抽象的で非現実的な存在が

現れるだろう。何故なら私達はどうしても「コップはコ

ップ、木は木である」と認識して対象を見てしまうが、

実際にはそれらは、私達が理解するようには存在してい

ないからだ。そしてそれ自体の本来の意味は、私達は知

る事ができないのだ──でも「見る」事なら出来るぞ、

それこそが我々の存在理由ではないか、画家はそう言い

たかったのかも知れない。作品を見れば直ぐにも気が付

く事だが、モランディは「陶器は陶器らしく」「金属は

金属らしく」「ガラスはガラスらしく」描く、という静

物画の鉄則を一切無視して、大胆にも全てを均一な質感

で統一し、対象を単なる「フォルムと色のオブジェ」に

還元してしまっている。結果そこに現出するのは、オブ

ジェの造り出す純粋なハーモニーの世界だ。たぶんそれ

がモランディの見た、対象の「本来の意味」だったので

ある。そして森さんもまた、そのスタンスを継承する。

但し森さんの場合は、意図的に対象の質感を「消した」

ようには見えない。むしろそれは描く過程で「消えて」

行ったように思える。おそらくこの一点にこそ、森さん

とモランディを隔てる境界が潜むのではないだろうか。

 

 思うにモランディの作画は、対象そのものが主題であ

る。結果的にそれらの響き合いが、画面を穏やかな光で

満たすけれど、本人の言説からも明白なように、絵画の

主役は徹して対象となる静物だ。翻って、森さんの場合

はどうだろう。言わずもがな、静物画ならやはりその主

題は静物じゃないか、そんな声が聞こえて来そうだが、

本当にそうだろうか。作品を見れば見るほど、静物画を

静物画たらしめているその大原則が、私には疑わしく思

えて来るのである。静物画というジャンルには身を置き

つつも、既にその範疇を逸脱したものを、森さんの作画

は孕んではいないだろうか、あたかも津軽に取材したあ

の風景画が、通常に言う風景画の範疇を超えてしまって

いるように。確かにそれらの風景には所々に人家も描か

れ、人と自然の織り成す情景も見えるけれど、しかし大

方の家屋は今や砂丘に埋もれて、いつか大地の狭間へと

消えゆくかのようだ。そう、ここに描かれている真の主

題は、家々を呑み込む悠久の大地であり、時に激烈な吹

雪となって家々を消し去る、無窮の大気なのだ……と、

ここまで考えの及んだ時、森さんの静物画の中で、モチ

ーフの背景に潜在していた「空間」が、突如有り有りと

顕在したように思えた。森さんがその静物画で真に主題

としたもの、それは対象となる静物よりはむしろ、それ

らを包み込む空間だったのではないか。この空間を描き

たいがためにこそ、画家はそこに静物を置いた、とまで

言ったら、それは極言に過ぎるだろうか。奥深い沈黙を

湛えて、瞑する霧のように静物を覆い、やがては有りと

有る対象がその中に呑み込まれ、茫漠と消えゆくかのよ

うな空間。そこには何も無いのだけれど、しかしそれは

何と多様な情趣を醸す、豊かな虚無であった事だろう。

 

 森さんの絵画に「空間」という即物的な言葉は似合わ

ない。他に言葉が無いのでそう言う他ないのだが、これ

は明らかにモランディの世界には無かったものだ。深い

静謐の中に、森さん独自の「終わりなき変奏」が、幾重

にも融け合って響き出す。その時私達は、沈黙が如何に

多くを語るのか、その証左を目の当たりにするだろう。

 

                     (21.01.19)