昭和30年代 / 墨田区の風景      
昭和30年代 / 墨田区の風景      

画廊通信 Vol.216               あの頃

 

 

 町工場、倉庫、煙突、運河、鉄橋、貨物船、引き込み線等々、これらのモチーフが自在に組み合わされて、あの中佐藤さんの風景が出来上がる訳だが、さて、これらのモチーフは何処から来たのだろうと考えた時、それはやはり作家の記憶に源泉を求めるのが、最も妥当な方策である事は論を俟たない。しかも、どうせ記憶を辿るの

であれば、もはや意識の底に堆積しかけたような、遠く

古い記憶が良い。作家の制作が詩的直観に根を置くのな

ら、直観の記憶はそのまま意識の深層へと潜在している

だろうから。最も遠い記憶とは、むろん子供時代の思い

出だ。幼少期から少年期にかけての、あらゆる体験を吸

収し成長しゆく時代、たぶん中佐藤さんの原風景もその

辺りに在る、ならば今回はその当時へと遡ってみたい。

 

 仮に7~8歳頃から以降10年間ほどを、精神的に最

も成長の著しい年代と考えた場合、中佐藤さんのその時

期はちょうど昭和30年代の10年間に当たる。西暦で

言えば1950年代半ばから60年代半ばまで。日本の

みならず、世界的にも激動の時代である。その頃中佐藤

さんの一家は、東京は墨田区に居を構えていたとの事、

従って中佐藤少年は、当時はまだ色濃く残っていたであ

ろう下町の情緒と、押し寄せる経済成長が齎す急激な変

貌の狭間で、激動する時代の空気を正に肌で感じつつ、

人間形成における最も重要な時期を過ごした事になる。

ご参考までに「墨田区公式ウェブサイト」には、戦後の

歩みがこのように掲載されている──第2次世界大戦が

終わって間もない昭和22年、本所・向島の両区が一つ

になり、墨田区が誕生しました。当時の人口はわずかに

14万人でしたが、やがて戦火の焼け跡にも住宅や工場

が建ち、産業の町として復興して来ました。同28年に

は工場数が戦前を上回り、商業面でも飛躍を遂げ、30

年代の高度成長期を迎えます。急速な経済発展の中で、

工場には新技術が導入され、大型店舗やスーパーも進出

し、道路などの生活環境も急速に整備されました。人口

は昭和38年の32万6千人をピークに減少傾向を辿り

ましたが、近年は増加に転じています──と云う訳で、

たった15~6年ほどで人口が軽く倍を超えると云う、

正に急激な変貌期の真っ只中にあった町が、中佐藤少年

の成長した舞台だったのだ。この頃の風景を見てみたい

と思い、ウェブ上をあれこれと検索してみたら、久しく

忘れていた昭和の懐かしい風景が、褪せたモノクローム

写真の中に数多く記録されていた。ただ、その多くは発

展しゆく街の光景を撮影したもので、私達の見たい工場

や運河や鉄橋を写した資料は、残念ながらほとんど見当

たらない。そんな状況で、中佐藤さんの描く風景に関係

する風物を、何とか探し出した成果が、右に掲載した3

点(ここでは1点)の写真である。あちらこちらと探し

回ったので、撮影された正確な場所は分からなくなって

しまったが、正真正銘の昭和30年代、墨田区界隈の風

景だ。工場の三角屋根、煙を吐く煙突、運河に架かる鉄

橋、レトロなトラックや市電等々、ここには明らかに、

中佐藤さんの風景を構成するモチーフの、紛れもない原

型があるだろう。

この街の空気を、この時代の風を、胸一杯に吸い込みな

がら、少年は陋巷に張り巡らされた、数知れぬ路地を走

り回ったのだ。写真に目を凝らしていると、あそこから

もここからも、画家特有の匂いが滲み出す。そしてそれ

は、私達の世代なら誰もが共有するに違いない、遥かな

記憶の匂いでもあるのだろう。随分と以前の手記になる

が、中佐藤さんの風景に関連した一文が有ったので、少

少抜粋してみたい。以下は2010年の画廊通信から。

 

 何らかの形で「街」の風景を描く作家は多いが、中佐

 藤さんの街に特徴的な事は、そこに「人」が居る事で

 ある。これは、何かの比喩で言っている訳ではなく、

 実際中佐藤さんの作品には、様々な人物が登場する。

 大体は一癖も二癖もありそうな、どこか怪しげな紳士

 達。ある時は煙草をくゆらせて漫然ともの思い、ある

 時は肩を丸めて悄然とうつむき、ある時はヒソヒソと

 良からぬ密談にふけり、どう見ても人生の本道を行く

 のではない彼らは、しかし脇道に外れつつも、何処か

 ゆったりと自由に見える。きっと彼らの居場所は、画

 家の描くレトロな街並を分け入ったその奥の、忘れら

 れた路地裏の寂れたカフェであったりするのだろう。

 騒がしい世の流れから、いつしか取り残されたような

 薄暗い店の中で、古い流行り歌につられて侘しく揺れ

 る電球の傘の下、彼らは誠に人間味たっぷりに、イキ

 イキとした表情を見せる。やがて人は、その食いはぐ

 れた山師のような、間の抜けた詐欺師のような相貌の

 下に、密やかな悲哀が、憂愁が、鬱屈が、憧憬が、静

 かに漂う様を見るだろう。きっと彼らは画家の分身で

 あると同時に、虚勢を張り仮面を被って生きざるを得

 ない大多数の人々の、隠れていた飾らない素顔なのか

 も知れない。むろん多少のデフォルメはあるにせよ、

 そのユニークな風貌を見るともなく見ていると、そう

 言えばかつてこんな人々に、どこかで会った事がある

 ような気がして来る。中佐藤さんの描く街には、そん

 な愛すべき紳士達が住んでいる。たとえそれが、誰も

 居ない無人の風景であったとしても、たぶん道を曲が

 ったすぐその辺りに潜んでいる。だから、一見クール

 な佇まいを見せながらも、その街は温かな体温を宿す

 のだろう。私はいつも中佐藤さんの街景を見る時、ど

 こかで紫煙をくゆらしているだろう彼らに、そっと会

 いに行きたくなる、絵の中の見知らぬ路地を抜けて。

 

 こうして前述した画家特有の風景に、これもまた特有

の人物像が配置されて、中佐藤さんのワンダーランドが

現出する。考えてみれば、彼らもまた「昭和」と云う時

代を、あの下町の情緒が残る傍らで、町工場の煙突から

煙のたなびく時代を、色濃く体現する人々なのだろう。

事実その辺の往来にも、画家の描く奇妙な紳士達と、さ

ほど変わらないような人物像を見かけたし、だからと言

って彼らが、あの紳士達の直接のモデルだとは言えない

にせよ、一つ確実に言える事は、あの頃は良くも悪くも

「生身の」人間が、イキイキと闊歩していた時代だった

のではないか。むろん、今だって人間は「生身」には違

いないけれど、しかしながらあの時代を鑑みれば、現代

の人々は目に見えないヴェールで自らを覆い、敢えて生

身である事を隠しているようにも見える。いつの時代に

も、世の規格から外れた人間は居るものだが、少なくと

もあの「昭和」と云う時代は、そんな人間達が今よりは

余程生き易く、換言すればそのような人々が、誇りを持

って生きる事の出来た、最後の時代だったのだと思う。

 昭和の人物論はその位にして、上述した「風景」「人

物」に並ぶもう一つのファクターにも、この辺りで触れ

なければならない。「静物」である。或いは「卓上の風

景」と言った方が妥当だろうか。今回の案内状にも顕著

なように、それは往々にしてフライドエッグを乗せたま

まのフライパンや、食べかけのソーセージ料理が無造作

に置かれたテーブルである。その脇には水指しがあり、

グラスがあり、ウィスキーボトルがあり、時によっては

蒸気を上げる薬缶があったりするが、花を活けた花瓶が

置かれるような事は滅多にない。更にはこの卓上には、

飲食に関するモチーフ以外にも、日常の様々なグッズが

登場する。玩具や雑貨類、飛行機や自動車等の模型類、

文房具や遊技具等々、何かしら趣味的な匂いを醸すこれ

らのモチーフを見ていると、一体この部屋にはどんな人

が住んでいるのだろうと、むしろ画面には描かれていな

いものへと思いが広がってゆく。考えてみれば、通常は

静物画を見るに際して、そのように考える事はないだろ

う。人はあくまでも描かれた「静物」を見るのであり、

その静物の持ち主にまで考えの及ぶ事はないのだから。

しかし、中佐藤さんの静物には「人」の匂いが濃厚に漂

う。描かれたモチーフから推測すると、その大方は男性

のようだ。たぶん独身の内向的な趣味人、あまりもてそ

うにない夢想家ながら、決してそれを悲観する訳でもな

く……等々、想像は幾らでも広がってゆくが、要するに

彼もまた、直接には描かれずとも、やはりあの奇妙な紳

士達の一人なのだ。画家の描く風景に必ず「人」が居た

ように、静物画にも必ずその部屋の住人が、即ちそこに

暮らし、そこを生きる人が居る。そう考えるとあの卓上

にも、やはりあの頃の懐かしい時間が流れるのだろう、

今や聞こえない、過ぎ去りし時の響きを滲ませながら。

 

 作家にとって最も良い素材は、幼少年時代の経験であ

 ると言われる。幼い頃の事をもとにして書かれた幼年

 物語、少年物語、そういう名はついていなくても、そ

 ういう性格の作品が優れていない作家は、凡庸である

 としてよい。なぜ作家の幼年、少年物語に優れたもの

 が多いのか。素材が充分、寝させてあるからだろう。

 結晶になっているからである。余計なものは時の流れ

 に洗われて、風化してしまっている。長い間心の中で

 温められていたものには、不思議な力があるものだ。

 

 以上は外山滋比古「思考の整理学」からの抜粋だが、

これが文学について書かれた一節であるにしても、その

まま絵画にも通じる内容である事に、異論を挟む人は居

まい。この視点から中佐藤さんの絵画を顧みる時、それ

は長々と上述した通り、画家の育った昭和という時代に

明らかな原型があって、詩的発想の源となっている事は

確かなのだが、しかし、昭和の風景や人間を描いただけ

では、決して画家独自の表現にはならない。中佐藤さん

の世界に流れるゆったりとした時間感覚は、昭和の高度

成長が齎す喧騒とは全く異質なものであるし、それが風

景であれ静物であれ、その空間には共通してある種の静

謐感が漂う。そうしてみると、画家にとっての昭和はあ

くまでも原風景であって、絵画においてはそれを直接に

表現するのではなく、独自の心象に異化している事が分

かる。時に異化とは、手法や理論による作為が不自然に

感じられる事もあるが、中佐藤さんのそれは極めて自然

だ。その所以を考えると、画家は小手先の作為を弄ぶよ

りは、やはりじっくりと記憶を寝かせ、熟成させている

が故だろう。先述した外山氏の言葉を借りれば「素材が

充分寝させてあり、結晶になっているから」である。あ

たかも樽の中で人知れず、長い歳月をかけてウィスキー

が熟成する如く、少年の体験した昭和は画家の心奥で、

数十年をかけて発酵し、芳醇に熟して行ったのだろう。

 

 今回は何やら、下手な作家論のようになってしまった

が、最後に画家の原風景を辿ったが故の結論を。中佐藤

さんの描く「あの頃」とは、決して過去の一時期を指す

ものではない。よってそれは過ぎ去った或る時代への、

懐旧でもなければ憧憬でもない、画家の中で長い時間を

かけて抽出され純化された「懐かしさ」、言わば純粋な

「ノスタルジア」そのものの表象なのだと思う。だから

中佐藤さんの世界に触れる人は、たとえその人が画家の

生きた時代を知らずとも、必ずやそれぞれの「あの頃」

を、いつしか脳裏に想起し得るだろう。ならば、絵の中

の赤錆びた橋を越え、煙を吐く町工場の脇を抜け、狭い

路地裏へと分け入ったその先で、私達はきっと巡り会え

る筈だ、誰もが記憶の彼方に持つだろう「あの頃」に。

 

                     (21.05.14)