ゆったりとした時間 (2021)       鉛筆 / 14.3x11.8cm
ゆったりとした時間 (2021)       鉛筆 / 14.3x11.8cm

画廊通信 Vol.218            偏愛の系譜

 

 

 先日民放のニュース番組で、絵画投資に関するトピックスを見た。昨今、比較的若い富裕層の間で、美術品への投資が活況を帯びているのだと言う。そう言えば経済誌等でも、近頃そんな特集の見出しを目にする。長引くコロナ禍にあって、株式市場が却って好調を維持する現況下、その余波が美術市場にも及んで、潤沢な余剰マネーが絵画投資へと流れている、と云うのがその構図らしい。番組では最新のレポートとして、ある有名オークションの会場を取材し、目玉商品の版画を落札したと云う青年にインタビューしていた。作家は草間彌生、落札価格は600数十万、比較的大振りの作品と見受けたが、

それにしても恐れ入った金額である。ご存知のように草

間彌生は、当店でも過去4回ほど個展を開催した作家だ

が、この10数年で異常な高騰を呈し、今では疾うに作

家本人の思惑を離れて、格好の投機対象となってしまっ

た。さて措き、たぶん40前後と云ったところか、スマ

ートな起業家とでも思しき体で、青年はにこやかにこう

答えていた──今はアートに資金を回す事が、将来を期

待できる投資になりますからね…。このインタビューで

軽い驚きを覚えたのは、その青年が「芸術作品を投資目

だけで購入する」と云う、私達の常識で言えば打算の

極みとも思える行為に、微塵も後ろめたさを感じていな

いばかりか、アートとはそのように購入するものである

と、まるで信じて疑わない態度であった事だ。以前にも

上海か香港辺りで開催された、大規模なアートフェアを

特集した番組の中で、奈良美智のでかいフィギュアを買

ったと云う中国人の青年に、マイクを向けたシーンがあ

った。如何にもブルジョア然とした軽薄な若者が「こっ

ちの方がグーグル株より儲かるもんね」と答えているの

を聞いて、そのあまりにも軽佻な拝金主義に、唖然とす

る思いをしたものだが、何の事はない、ここ日本でも実

態は同じようなものらしい。無論このようなバカ共は、

遥かな昔から常に居た訳で、今更どうこう言うつもりも

無いが、ただ、以前との相違を挙げるとすれば、かつて

は「絵画で儲けたい」と云う下心は有っても、損得勘定

を恥とする道徳が生きていたため、それを大っぴらに表

明する言動は、一応は慎まれたものだ。それが今や拝金

主義が正当化され、共同理念として広く浸透するに及ん

で、損得勘定・拝金主義と云った批判的言語は急速に死

滅し、代わって登場した市場原理主義・新自由主義と云

う奇っ怪な旗印の下、弱肉強食を厭わぬ独善的な利潤追

求が、社会における至上の課題となってしまった、そん

な時世が招いた当然の帰結として、前述した青年のよう

な異人種が、新たに生まれて来る事となったのだろう。

 アートに資金を回す事が、将来を期待できる投資にな

る、その通りかも知れない。しかし、貴方の期待すべき

リターンは経済的なものではない、精神的なものなのだ

──そう語ったとしたら、あの青年は理解してくれるだ

ろうか。所詮絵画と云う精神の産物を、額縁に入った株

券と履き違えている輩は、マネーゲームを煽る競売業者

(サザビーズ等に代表される一見華やかなオークション

会社も、詰まりは競売業者である事に変わりはない)と

付き合う事はあっても、画廊と云う真の美術シーンが展

開する現場に、足を運ぶ事は無いのだろう。ならば私達

の声は届かないだろうけれど、それでも言っておこう、

貴方が絵を本当に「好き」で買うのなら、絵画への投資

こそは夢の「ノーリスク・ハイリターン」であると。そ

して大いに期待すべきは、生涯尽きる事の無い精神のリ

ターンなのだと。これ以上のリターンが有るだろうか。

 

 長々と余計な話を連ねてしまったが、以上はマネーゲ

ームとは縁もゆかりも無かったゆえ、日々をあくせくと

生きるより他ない者の、無益な強がりに過ぎないのかも

知れぬ。こんな青臭い正論を吐いていては、前述の落札

青年には一笑に付され、中国青年には臍で茶を沸かされ

る事だろう。しかし彼等にどうあざ笑われようと、真っ

当な正論よりは儲かる曲論を良しとする彼等の同輩が、

当店のお客様に一人も居ないと云うこの事実は、やはり

この道に間違いは無かった事の、紛れもない証左となり

得るのではないか。彼等に無くて、私達に有るもの、そ

れは「好き」と云う一念だ。誠にシンプルな一念だけれ

ど、この一念が世界を変える。「好き」だからこそ見え

て来るもの、言うなれば「好き」でなければ見えて来な

いものが、芸術には確として存在する。これだけは、し

たり顔で絵画投資を論ずる経済アナリスト連には、絶対

に見えないものだ。言い方を換えよう、絵画は「好き」

な者にだけその真意を明かす、それに触れる事こそが、

一枚の絵と付き合う醍醐味であり、言わば絵を見る事の

本義に他ならない。私はそのように絵を見て来たし、今

期で13回目の個展となる河内さんの芸術とも、そのよ

うに付き合わせてもらって来た。随分と以前に、初めて

日動画廊でその作品に出会った時から、今この時に到る

まで、河内良介と云う作家とその作品に対する思いは、

何一つ変わっていない。私は河内さんの芸術が好きだ。

 今回の「異境の博物学」と云う個展タイトルは、河内

さんが好んでモチーフにされる動植物や昆虫類、或いは

忘れられた古い器械や道具類等々、それらの総称として

付けさせて頂いたものである。ちなみに博物学的な蒐集

展示施設として現在に到る「博物館」は、数世紀を遡っ

た「ヴンダーカンマー」を嚆矢とするもので、それは学

術にあるまじき奇っ怪な魅力に溢れたものだ。以前、そ

れについて少々書いた事があったので、この機会に今一

度抜粋してみたい。以下は2016年の画廊通信から。

 

 現在はその名残りを留めるに過ぎないと思われるが、

「驚異の部屋」と訳されるヴンダーカンマー(独)は、

15世紀から18世紀辺りにかけて隆盛した、世界中の

様々な博物学的珍品を蒐集展示した陳列室である。イタ

リアの諸侯や貴族の間で流行した事に始まり、ドイツ語

圏を経て次第にヨーロッパ全土へと伝播し、後には学者

やブルジョア等の知識階級にも広まったと言われ、動植

物や鉱物・化石等の博物学的な品々を始めとして、天文

学や医学の道具類・考古学的な発掘品や遺物類・異国の

物珍しいアンティークの数々・技術の粋を極めたオート

マタ(自動機械人形)・マニエリスムの細密的な奇想絵

画・ 怪しげな錬金術の文献や資料・ 果ては人魚の鱗や

ユニコーンの角といった眉唾物に到るまで、とにかく分

野を超えたこの世のありとあらゆる珍品が、果てなき欲

望に飽かせたコレクションの対象となった。その異様な

展示風景は、描かれた数々の資料で見る事が出来るが、

その悪趣味を極めたような光景には度肝を抜かれる。四

方の壁から天井や床に到るまで、空間という空間に隙間

なくギッシリと陳列された展示物、その数知れない奇妙

奇天烈な珍品が跋扈する、圧倒的な非日常の異界を見て

いると、そこからは人間の飽くなき蒐集癖がもたらした

狂気が、津々と滲み出して尽きない。おそらくそれは、

この世にまだ闇と怪異が存在した頃の悦楽であり、謎め

く幻想や異聞に胸躍らせた人々の、抑え難いときめきの

証なのだろう。しかし18世紀後半に始まった産業革命

によって、怪奇幻想は科学技術に取って代わり、急激に

押し寄せる近代の光で世界から闇が払拭されるに伴い、

さしものヴンダーカンマーも衰退の一途を辿り、遂には

消滅へと到ったかに見えた。ところがどっこい、思えば

あれだけの膨大なコレクションの、長い星霜を掛けた気

の遠くなるような堆積が、そう易々と蒸発し消滅する筈

がない。実はそれらは科学興隆の華やかな潮流の陰で、

いつしか博物館の収蔵品へと姿を替えて、密やかに脈々

と受け継がれたのである。例せば世界屈指の収蔵を誇る

あの大英博物館も、著名な蒐集家であったハンス・スロ

ーン卿のヴンダーカンマー・コレクションをベースにし

たものと言われる。斯様にして、今では学術の府として

君臨する厳粛な博物館も、その起源は有りと有る怪異を

これでもかと集めた、あの狂気の館に有ったのである。

 

 さて、上記の抜粋を頭に入れつつ、あらためて河内さ

んの作品世界を振り返った時、その多岐に亘って描かれ

る数多のモチーフが、如何にいにしえのヴンダーカンマ

ーと軌を同じくする事か、誰もがそのアナロジーに思い

を巡らすのではないだろうか。世界中の様々な動植物を

始めとして、化石や骨格標本・過去の古い器械類・船の

操舵桿・潜水用鉄兜・オイルランプ・タングステン球・

機械式カメラ・ラッパ付蓄音機・旧式電話機・初期の蒸

気機関・複葉機・羅針盤・ジャイロスコープ・六分儀・

地球儀・天秤・革張りの古書・修道院のワインボトル・

中国の磁器・エジプトの神像・チェシャー猫・ドードー

鳥・トランプの兵隊・置時計・柱時計・懐中時計等々、

登場するモチーフはまだまだ有るけれど、こうして挙げ

ている内に、いつしかあのめくるめく博物学の匂いが、

そこはかとなく漂っては来ないだろうか。ここに、まる

でヴンダーカンマーの収蔵品目録ではないかと錯覚して

しまう程の、著しい類似傾向を見て取るのは、私だけで

はあるまい。博物学的偏愛──とでも言うべきか、上述

のスローン卿に代表される狂気の蒐集家達と、河内良介

と云う驚異の芸術家は、正にその一点で、軽々と時空を

超えて繋がるのである。ただし河内作品には、あの古い

時代を覆っていた「闇」はない。悪趣味な奇想は上質の

シュルレアリズムへと昇華され、背徳的な怪異は軽やか

なファンタジーへと浄化されて、かつて貴族達の秘密の

館に展開した怪奇幻想は、広々とした草原で繰り広げら

れる白昼のイリュージョンへと、その姿を変えている。

それでも消し難く残るもの、それこそ世の常識を易々と

逸脱し、謎めく不条理へと限りなく近接して止まない、

あの博物学的偏愛と言えるのではないだろうか。ヴンダ

ーカンマーのディレッタンティズムは、数百年の系譜を

脈々と継承して、いま河内さんの世界に甦るのである。

 

 言うまでもなく、現在「博物学」と云う分野は無い。

未だ学問が細分化する以前、それは「Natural history」

と云う原語の通り、地球上のあらゆる自然を対象にした

学問であった。それが近代に入り「動物学」「植物学」

「鉱物学」等々に分化して、言わば博物学は科学へと昇

格した訳だが、逆に考えれば未分化の時代は、科学と云

う合理的な方法論とは無縁だった事になる。まだまだ自

然が謎に満ちて、多くの未知や怪異に覆われていた頃、

それは冷徹な学術と言うよりは、心ときめく探究であり

冒険であったろう。つまり、そこには常に希求の喜びが

伴い、対象へのひたむきな愛好があった筈だ。たぶん博

物学が、厳めしい学術的な考究よりは、もっと人間的な

好奇に根ざす所以は、その辺りに有るのだと思う。ヴン

ダーカンマーの蒐集家には、正にそのような対象への熱

愛があった。そして彼らの末裔とも言える河内さんの世

界にも、博物学的モチーフへの偏愛が満ち溢れている。

更には、その世界に見入る私達の心にも、共感の純愛が

溢れる事になる、ここには紛れもない愛の系譜があるの

だ。思うに学問の分野であれ、芸術の分野であれ、この

「好き」と云う純粋な一念こそが、世界を開いて来た。

よって話を戻せば、投資価値のみを追い、絵画を拝金で

汚す人々の前に、芸術の扉は決して開かれない。ならば

このひたむきな愛を知らない者達の眼に、ついぞ真実の

絵画が映る事はないだろう。芸術の勝利は私達にある。

 

                     (21.07.14)