かお (2019)          油彩 / 4F
かお (2019)          油彩 / 4F

画廊通信 Vol.220          或る真実の画家に

 

 

 時に優れた画家は、足下に世界を見出す。ここで言う「足下」とは、ごく身近な生活の場と云った程の意味だが、たとえ何処に居を構えていようとも、彼は日々を生きる生活圏のみをモチーフに、有りと有る世界を描き出すのである。例えば晩年のモネは、自宅の庭に拵えた小さな池に、万物が流転する宇宙を見ていたし、ワイエスはアメリカの辺鄙な寒村に住んで、そこの風景と住人だけをモチーフに、ほぼ全ての画業を成し遂げた。つまり彼らは世界を描き出すに当たって、小さな池と小さな村だけで充分に事足りた、と言うよりは、そんな小さな生活圏に世界の全てを見出したのである。栗原一郎という画家も、正にそのような在り方を揺るぎないスタンスとして、生涯を貫いた人であった。言うまでもなく、栗原

さんにとっての世界とは「福生」である。この地に生を

受け、この地で育ち、この地で画家となり、この地を舞

台に画業の全てを成して、生涯この地を離れる事がなか

った。その所以を考える時、画家自らが卓越の「眼」を

備えていた事は当然として、もう一点、やはり「福生」

という街の特殊性に触れない訳には行かない。生前、栗

原さんの描く風景が色濃く孕む、独特の無国籍的な匂い

に話の及んだ事があったが、画家は端的にこう語られた

──街だ。福生という街が、そうだったんだ。何処の国

なのか分からないような、正に国籍のない街だったよ。

 

 福生市は、在日米軍の司令基地として知られる「横田

基地」が、市の3分の1にも及ぶ面積を、現在も占有す

る街である。敗戦を機に米軍の進駐する街となり、特に

朝鮮動乱の当時は多くの米兵が溢れて、瞬く間に特殊酒

場の密集する原色の街が出現し、一時は騒然とした活況

を呈したと言う。あでやかなネオンが競うように明滅し

て、無数の男と女が明日なき一夜を戯れ、刹那の享楽に

酔いしれた日々。もしも今古い幻灯機があって、その頃

のフィルムを映し出したとしたら、そんな激動する時代

の風を一杯に呼吸しながら、感性のおもむくままに青春

を駆け抜けた、一人の少年の姿が浮び上がるだろう。高

校から大学にかけての時分、栗原さんは基地の中のアル

バイトで学費を稼いだと言うから、フェンスの向うの異

国と、そこから派生した無国籍の街で、少年から青年へ

と成長する最も多感な時期に、若き画家はあらゆる人間

の哀歓をまざまざと目にして、体感したに違いない。き

っと明日戦地で命を落すかも知れない兵士にとって、酒

場にたむろする女は「聖女」であったろう。そんな男達

を相手に、哀しい女達は生きる糧を求めた。そこには、

美も醜も一緒くたになった裸の人生と、身一つで生きゆ

かんとする人間の、飾らない生活の匂いがあったろう。

「福生」という土地、明日なき「男と女」の居た時代、

おそらくはそこが幾度も立ち帰るべき原点となって、栗

原一郎という類いまれな画家の、拭いようのない体臭を

作り出して来た、畢竟栗原さんにとっては、福生という

街に描くべき全てが有ったのである。海外には一度も行

った事がない──という話を聞いて、当初は驚いたもの

だが(栗原さんほどの画家で、渡航経験のない人などま

ず居ないだろうから)、どこへ行かずともそこには、世

界が在って人間が居た、それで充分だったのだと思う。

きっと栗原さんは、誇りを持って語られた筈だ、俺は福

生の画家だと。そして、ここに全てを見て来たのだと。

 

 斯様な一生を共にした街で、画家は身辺のあらゆる物

を描き抜いた。真の画家は全てを描くとは言うけれど、

栗原さんほど多くのモチーフを描いた人は居ない。人物

や風景は元より、静物・動物・植物・乗物・建物、時に

は打ち捨てられたベンチやバス停の標識、果ては釘や鎹

(かすがい) に到るまで、身の周りの有りと有らゆる物が

描く対象となった。何故描くのか。愛するから描くのだ。

人生に深く傷付き、打ちひしがれたような女性像に始ま

って、一歩一歩身の周りの存在を愛し慈しみながら、い

つしか描くモチーフは広がって、それと共に画業も深ま

って行ったのだろう。だから栗原さんの描く物には、い

つも画家の温かな眼差しが感じられた。地面に行列を作

る蟻にも、道端でひっそりと息絶えた蝉にも、或いは錆

び付いた折れ釘にも、ひしゃげた絵具のチューブにも、

等し並みにその眼差しは注がれた。思うに、栗原さんの

絵から否応も無く滲み出す、あのそこはかとない哀愁も

また、その眼差しから生じていたのではないだろうか。

「俺の絵は近松なんだ。この二人は徳兵衛とお初さ」、

哀しく抱き合う男女の作品を前に、画家はそう語られた

事がある。言わずと知れた「曾根崎心中」の悲話、「確

か救いようのない話でしたよね」と申し上げたら、栗原

さん間髪を容れず「男と女というだけで、救いようのな

いものなんだよ」、この一言をお聞きした時、栗原作品

の湛える哀しみの所以を、ふと垣間見たように思えた。

 人を愛し、物を愛し、何かを愛すれば愛するほど、そ

の別れには言いようのない哀しみが伴う。古くは釈迦が

人間の根源苦に「愛別離苦」を加えた事は、やはり深い

洞察の故と言わざるを得ない。出会いには必ず別れが来

るのだから、避け難い別離を孕む「愛」という行為は、

そもそもが哀しい。画家の言葉は、正しく人生の本質を

突いていた。愛するものは必ず去り、離れ、消えゆく、

その根源的な「別れ」と「滅び」の哀しさが、画家の筆

先の絵具に溶け込み、それはいつか拭いようにも拭えな

い匂いとなって染み付いたのだろう。だから、栗原さん

は決して哀しみを描きたかったのではない、愛するが故

に、絵は自ずから哀しみを帯びたのだ、私はそう思う。

 

 栗原さんは自らを、敢えて「絵描き」と言っていた。

「絵描き」の条件とは何か、それは結局聞かず仕舞いの

ままだったが、絵を見れば一目瞭然であったから、その

必要がなかったのだとも言える。絵描きとは、目前のコ

ップを描き得る人だ。コップであれ、ビンであれ、何で

あれ、とにかくも今、目の前に在る物を描いて、そこに

他の誰でもない自分を宿し、その存在を示し得る人だ。

栗原一郎という画家は、正にそのような絵を描いた。そ

して生涯を、自ら言うところの「絵描き」に徹し、それ

以外の名利は求めなかった。だから、栗原さんを語る時

「画家」という呼称は、極めて純粋な意義を持つものと

なる。ただ「描く」という行為、単にそれだけで表現し

得る人、理屈もへったくれもない、故にイズムもヘチマ

もない、他の何物も一切を必要とせず、ただ絵筆と絵具

だけを武器とする人、そのような徹して純粋な表現者を

「絵描き=画家」と呼ぶのであれば、やはり栗原さんほ

ど「画家」という言葉の似合う人はいない、今あらため

てそう思う。殊更に何かを標榜せずとも、声高に何かを

主張せずとも、そこにはなお尽きる事なく滲み出すもの

が有った。だからその絵を前にすると、賢しらな分析や

解釈が実に虚しく思えたものだ。そこにはただ生きた絵

が有った、それを描いた人間が居た、それで全てが十全

に成立していた、本来絵とはそういうものではないか。

 極言すれば、栗原さんの絵画は全て自画像だと思う。

何を描いてもそこに栗原一郎という人間が居るのなら、

それは即ち自画像に他ならない。と言うよりも、栗原さ

んは何を描いても、自画像と呼べる域にまで達し得た画

家なのだ、所詮そのような画家を「本物」と言うのだろ

う。私は、あの翳りを帯びた画面から否応もなく滲み出

す、栗原一郎という人間が好きだ。体臭のように染み付

いた憂愁、消そうにも消せない孤愁、だからこそ温かく

放たれる、生きとし生けるものへの眼差し、そんな眼で

日々を見つめ往く人の、質朴な生きる手触り。私はいつ

も、そのやわな屁理屈など瞬時に霞んでしまうような、

横溢する画家の魂に打たれる。ここに思想は要らない。

 

 俺は芸術家先生じゃない、絵描きなんだ。だから何だ

 って描くさ。今この場所に、描くものなんて幾らでも

 あるんだよ。キレイなもの? そんなもの探したって

 意味ないさ。キレイなものは、心の中に探すんだね。

 

 顧みれば過去13回に及ぶ個展の中で、栗原さんが息

災であられたのは、初回展のみであった。後の展示は全

て、果てなき闘病の最中(さなか) で成されたものである。

あらためて今、その年月を振り返って驚くべきは、命に

関わるような事態が、幾度もあったろうその状況下で、

ほぼ毎年に亘って充実した個展を打ち続けられた事であ

る。しかも自身が困難な局面に追い込まれる程に、なお

一層栗原さんはその制作において、今までにない新たな

展開を見せた、まるで何者かに抗い、挑むかのように。

難局になればなる程、いよいよその筆さばきは自在にな

り、当初の力強く朴訥とした質実な描線から、乱れ舞う

ような奔放の描線へと変化し、時にそれは抽象の狭間に

まで大胆に接近した。通常人というものは、肉体が弱れ

ばそれに連動して、精神も弱るものである。平生に豪気

な攻めの姿勢を見せる人でも、一旦生死に関わる疾患を

抱えれば、途端に守りの態勢に後退するものだが、栗原

さんの画業は(と言うより生き方は)それとは全くの逆

で、肉体がこれでもかと痛めつけられる程に、いよいよ

精神はアグレッシヴに躍動した。ある時は三越や高島屋

の展示会で、ある時は画廊の企画展で、そして何よりも

当店の個展において、私は何度その圧倒的な現場を目撃

し、その度に驚嘆の念に打たれた事だろう。時に大胆に

奔放に、時に繊細に軽妙に、闊達無尽、融通無礙、正に

自在の筆致としか言いようのない描線が、画面を縦横に

駆け巡り、乱れ舞う。かつてこれほどの生きた「線」を

描き得た画家が、果たしてどれほど居たであろうか。そ

の意味で、晩年に描かれた作品の数々は、悉くが紛れも

ない絶唱であった。いつも展示会を終えた後、作品の返

却にアトリエまで伺うのだが、その折に「来年もまたよ

ろしくお願いします」と申し上げると、栗原さんは決ま

って「おう、生きてたらな」とおっしゃった。一昨年の

秋、展示会を終えて伺った折も、やはり栗原さんは同じ

ように返答された、いつになく穏やかな笑顔で。そして

それが、何度もお聞きした言葉を耳にする、最後の日と

なった。今でも耳を澄ませば、あの朴訥と温かな声が、

脳裏に有り有りとよみがえる──おう、生きてたらな。

 

 今回の出品作品のほとんどは、画家の最晩年に描かれ

たものである。一人の卓越した画家の、文字通り最後の

絶唱を、この機会に是非ご高覧頂きたく思う。栗原一郎

という稀有のオリジナリティーは、正に他の誰でもない

独創であった。若年に師事した小貫政之助の影響を言う

人も居るが、それには「従藍而青 (じゅうらんにしょう) 」

の一言で足りる。藍色は藍より出でて更に青し──他に

何をか言わんや。未だ美術界は十年一日の如く、見せか

けばかりの偽物が横行し、いよいよ臆面もなく軽薄な時

流へとなびくばかりだ。このような時勢において、栗原

さんの芸術はなお一層その光輝を増すだろう。思うに現

在は「本物」を知らない人が多い。故に今一度、真っ向

から本物を問い直すべきだ。曰く「本物とは何か」「栗

原一郎を見れば分かる」、私ならそう答える。後は今な

お瑞々しい作品群を、実際に見て頂く他ない。何を語ら

ずとも絵は語るだろう、この世に生きるものへの愛を、

愛するが故の哀しみを、それら切実なる感性の独白を、

まるで傷だらけの野花が歌う、強靭なアリアのように。

 

                     (21.09.01)