私は待っている (1966)         ドライポイント他 / Ed.50
私は待っている (1966)         ドライポイント他 / Ed.50

画廊通信 Vol.221           版画家の生涯

 

 

 今現在、美大生の多くは池田満寿夫を知らないのだと言う。これは、言うなればジミ・ヘンドリックスを知らずにロックをやっているようなもので、我々の世代にとっては憤懣やる方ない現象なのだが、当の若年層にはむしろ、オジさん達の勝手な憤りの方が、不可解に思えるのかも知れない。いったい美術大学は、何を教えているのかと思う。過去を軽視し、先人に学ばず──思えばこれは美術のみに非ず、音楽も文学をも含めた芸術全般に見られる風潮で、安易に温故知新を死語に貶め、代わっ

て今を時めくデジタル・テクノロジーやサブカルチャー

に範を取る現状を見る時、現代のアートは「無知」を基

底に成立していると言っても過言ではない。そう考える

と、昨今の呆れるほど軽薄な美術表現の所以にも、一応

の説明が付くと云うものだ。まあ、文化論はこの位にし

て本筋に戻るが、一つ確実に言えるのは、何らかの表現

を志す者にとって、池田満寿夫の存在を知らざる事は、

多かれ少なかれ、損失以外の何物でもないと云う事だ。

 

「人は誰でも一流の芸術を創ろうとする。私は二流の芸

術で沢山だと思う。二流には、一流にない自由があるか

らだ」、かつてこんな言葉で美術界を挑発し、二流画家

ばかりが群れ集う、権威だけは一流の既成画壇に、敢然

と反旗を翻した不世出の反逆児、彼こそは紛れもなく一

流の芸術家だった。櫛を入れた事もないようなボサボサ

の頭髪、天真爛漫の人懐っこい笑顔、その野生児の如き

独特の風貌と、飾らない率直な言動を思い浮かべる時、

何かしら熱くヴィヴィッドな奔流が、日常に弛緩した精

神を俄に蘇生させる。それでいいのか、本当にその程度

か、諦めるな、歩みを止めるな、変幻自在に生きた一人

の芸術家は、私達にそんな言葉を投げかけて止まない。

 池田満寿夫──20世紀後半のアートシーンを鮮やか

に駆け抜け、「天才」の名をほしいままにしたマルチ・

アーティスト。版画・油彩・水彩・コラージュ・陶芸・

書芸・文筆・映画に到るまで、その止む事のない旺盛な

活動は、分野を超えて驚く程の多岐に及んだが、しかし

まずは何よりも、彼は稀代の卓越した版画家であった。

 

 1950年代初頭、野望を胸に単身長野から上京した

青年は、場末の酒場を廻って酔客の似顔絵を描き、僅か

な収入を得ながら芸大に挑戦する。しかし、3度に亘る

受験は悉く合格ならず、失意の中で銅版画に活路を見出

し、極貧の生活を続けながら制作に励む。数年を経たの

ち、遂に東京国際版画ビエンナーレに入選、以降その斬

新な版表現が大きな注目を浴び、特に海外審査員の強力

な推薦もあって、同展で立て続けに受賞を重ねてゆく。

 60年代、時代が大きく変革する中で、30代を迎え

た池田は予想外の飛躍を遂げる。まずはMoMA(ニュ

ーヨーク近代美術館)にて日本人としては初の個展を開

催、その高評覚めやらぬ翌年には、国際美術展の最高峰

と謳われるヴェネツィア・ビエンナーレにおいて、版画

部門グランプリを受賞、邦人では棟方志功に続いて2度

目の獲得となった。一躍時代の寵児となって凱旋を果た

した池田は、以降も次々と革新的な版画を発表して行く

事になるが、ちなみにそれから現在に到るまでの半世紀

以上に亘って、日本人の大賞受賞は皆無のままである。

 70年代、世界各地の個展で国際的な名声を得た池田

は、アメリカのアトリエを拠点に意欲的な制作を続けて

40代を迎えるが、ここからの展開がまた、常人の思惑

を超えて目覚ましい。42歳で発表した小説「エーゲ海

に捧ぐ」が、翌年に第77回芥川賞を受賞、2年後には

それを自らが監督となって映画化し、カンヌ映画祭に出

品するという快挙を成し遂げる。よって40代半ばで帰

国する頃には、美術という範疇を軽やかに超えた多才な

マルチ・アーティストへと、池田は変貌を遂げていた。

 80年代、いよいよ活動の幅は広がりを見せ、50歳

を目前にして作陶を開始、その伝統から逸脱した型破り

な陶表現は、今に到るまで賛否の決着が付かない。他、

脚本や書芸にも意欲的な挑戦をしながら、立体や壁画制

作等の大規模な表現も、併行して果敢に手掛けてゆく。

 そして90年代、その多彩な活動はマス・メディアに

まで及び、美術啓蒙においても大きな貢献を果したが、

郷里に新設された池田満寿夫美術館の開館を前にして、

惜しくも心不全で急逝した。享年63歳、決して長くは

なかったその生涯をあらためて顧みる時、その休みなく

走り続けた飽くなき「表現」への希求に、私は天才とい

うものの性(さが)を見る思いがする。たぶん彼は休め

なかったのだと思う、たとえそれが命を縮める結果にな

ろうとも、安穏とした休息よりは危険な疾走を選んだ、

それがこよなくピカソを敬愛したという芸術家の、正に

ピカソ同様どうする事も出来ない性向だったのだろう。

そんな激しく流転した人生の中で、池田が最も心血を注

ぎ、生涯を貫いて挑み続けた表現形態は、結局出発点の

版画に他ならなかった。40年余りの限られた作家活動

の中で、1000点を優に超える版画作品を残した事実

を考えてみても、どんなに多様な表現をどう展開したに

せよ、やはり彼の本質は「版画」にあったのだと思う。

 

 海外の批評家をして「マスター・テクニシャン」と言

わしめた池田満寿夫は、その名の通りあらゆる版画技法

を駆使し、特に多様な技法を誇る銅版表現に到っては、

時にドライポイント・メゾチント等の直刻技法と、エッ

チング・アクアチント等の腐蝕技法を自在に併用させる

という、驚異的なテクニックを用いた。ヴェネツィア・

ビエンナーレの受賞後、60年代から70年代にかけて

のアメリカ時代に、池田の版表現は一つの頂点を迎える

が、当時隆盛したポップ・アートの洗礼を受けて、彼は

コラージュを手法とした、新たな作風へと歩を進める。

良く知られている事だが、池田はコラージュのモチーフ

を、市井で大量に消費されるグラビア雑誌や、当時解禁

されて巷に氾濫していたポルノ雑誌に求めた。つまり芸

術のイメージとはほど遠い、極めて低級・低俗なメディ

アに、あえてそのモチーフを求めた訳だが、そのような

雑誌類を好きだったかどうかはさておき、それは彼にと

って、れっきとした方法論であった。当時の池田は語っ

ている──私は、消費されて捨てられるだけの「娼婦」

を「聖女」にしたい──こうして数々の傑作が生み出さ

れ、池田の手で聖女に変貌した女性達は、今も作品の中

で永遠の女神となって、妖しい魅力を放ち続けている。

 このコラージュという技法を用いるに当って、池田の

採用したアプローチは、他作家とは全く違うものであっ

た。通常コラージュは「切り抜き」によって成されるの

で、版画に使用する場合は、写真をそのまま転写する方

法が一般的だが、池田はそんな製版技法は一切使わず、

あくまでも時間のかかる手作業に終始した。しかも、時

には下地作りだけで何日も要するというメゾチントを、

あえて選択し多用しているところに、私は彼の徹底した

作家魂を見る。結局池田満寿夫という芸術家は、時代の

最先端を颯爽と先導しながらも、その根には古典的な手

作業への信頼を、終生持ち続けた人であった。ただしそ

の反面、彼は手作業の延長としての技巧主義に陥る事を

嫌い、常に技巧の成熟に警戒を怠らない人でもあった。

彼のメゾチントは、他の技法と併用して使われるのが常

であったが、70年代中盤に到って遂に全面に及び、一

つの完成された頂点を形成する。しかし、彼はその極限

にまで達した技法をあっさりと捨て去り、翌年には自由

奔放な描線による軽妙な作風へと自らを解放し、180

度の転換を成し遂げている。更に補足をすれば、彼は精

巧なメゾチントの版面そのものにさえ、潔く破壊の手を

加える事を厭わなかった感がある。事実、精妙に刻まれ

た女性像の上に、彼特有の引っ掻くようなドライポイン

トの描線が、何の戸惑いもなく荒々しく刻まれているの

を、私は何度か目撃した。もしやそれは違う版上で為さ

れたものかも知れないが、しかし私は思うのである、何

日もかかって息詰まるような思いで彫り上げた版面に、

突然エイッとばかりに、狂ったかのように引っ掻き傷を

入れるぐらいの事は、池田満寿夫ならやりかねないと。

こんな暴挙とも言える行動は、メゾチントの大家と謳わ

れる浜口陽三や長谷川潔なら、死んでもやらなかった事

だろうが、それを軽々とやってのけるところに、池田満

寿夫という芸術家の、比類なき個性があったのである。

 

 周知のように、最近「偽版画流通事件」と云うのがマ

スコミを賑わしていて、先日の朝日新聞にも「真贋の判

別困難」云々という見出しで、詳しい記事が掲載されて

いたが、私の見聞した限りでは、事件の本質を正しく指

摘した言説には、未だお目に掛かっていない。取材する

記者自身が版画芸術には無知なので、それも致し方ない

のだろうが、そもそも版画とは「版表現」を目的とした

手法である。よって作家は自身で版を制作し、版画なら

ではの表現を模索する、これはいちいち言うまでもない

事だ。ところが、今回贋作業者の餌食となった原作の大

半は、版画工房が作家に代わって制作したものであり、

作家自身は全く版の制作には関わっていない。つまり、

偽物だ贋作だと騒ぎ立てる前に、真作とされている版画

自体が、作家によるオリジナル作品ではないのだ、こち

らの方が余程重大な問題ではないだろうか。海外の事例

を挙げると、私が若年に勤務していた画廊に、ルノワー

ルのリトグラフが置いてあった。油彩画を複製したもの

なので、いわゆる複製版画である。従って画面の隅には

 “Reproduction” 即ち「レプリカ」と云う表示があり、

オリジナルではないので当然サインはなく、ちなみに価

格は15~6万であった。これと同様の手順で、既存の

原画から複製化した版画に、本邦の著名作家は自ら率先

してサインを入れ、つまりは単なる複製版画をサイン入

りのオリジナル版画に仕立て上げ、100万~200万

にも及ぶ価格を付けて、有名デパートで販売していた訳

である。そんな実状を見るに付け、報道は真贋の「贋」

を糾弾する前に、まずは「真」をこそ疑うべきではない

かと思う。詮ずる所、今回のような偽物が横行する土壌

を作って来たのは、他でもない、著名作家連と美術業界

自身なのである。新聞には「贋作と見破ったのは日版商

(日本現代版画商協同組合)の会員であった」云々とあ

ったが、今この時も上記のような現状を黙認している事

を思えば、所詮は同じ穴のむじな、笑止の至りである。

 さて、そろそろ已めておかないと闇討ちに遭いそうな

ので、この辺りで話を戻したい。改めて言えば、徹して

版表現の可能性を拓き、肉筆には無い魅力を追求したも

のが、いわゆるオリジナル版画である。その範を問われ

たら、迷わず「池田満寿夫を見よ」と答えたい。そして

「その画業にこそ、オリジナル版画の全てが有る」と付

け加えたい。正に版画を畢生のテーマとして、あらゆる

手法を果敢に軽やかに手掛け、潔い破壊と創造を飽く事

なく繰り返した、その稀有の軌跡こそが、オリジナル版

画=版画芸術の成し得た、紛う方なき証しなのである。

重ねて言うが、殊に銅版画は尽きない魅力を放つ。是非

ご高覧頂きたく思う、上記の如き大家達が、偽のオリジ

ナル版画で懐を潤している間に、独り真摯に銅版と格闘

し、荒々しい描線を幾重にも刻み、インクだらけになっ

てプレス機を回し、新たな表現へと自らを追い立てた、

その未だ瑞々しい息吹を宿す、真のオリジナル版画を。

 

                     (21.09.30)