カナリア (2021)      混成技法 / 20F
カナリア (2021)     混成技法 / 20F

画廊通信 Vol.228             芸術の意義

 

 

 従来のコロナ禍に加えて、ウクライナの戦禍がいよいよ凄惨を極め、世情は暗澹と混迷したまま、春興とは程遠い時局に在る。かつての震災時もそうだったが、このような局面に決まって浮上するのが「今、芸術に何が出来るか」と云う発問だ。これに関しては去る2011年の「榎並和春展」が、正に上記の3・11から間も無い頃であったから、この場に私なりの考えを記した事があ

って、その繰り返しになってしまうのだけれど、現況に臨んで今一度、あらためてその問いを再考してみたい。

 まずは「問い」そのものに関して。往々にして問いは

発せられた時点で、既に或る前提を踏まえている事が多

い。例えば「生きる意味は何か」と云った定番の問いを

省みると、この発問には「生きる事には意味が有る」と

云う大前提があって、その上で「ならばその意味とは何

か」と問う訳だから、そもそも生きる事に意味など無い

のだとしたら、たちまち発問の基底は崩れて、問いその

ものが意義を失う。同様に「芸術に何が出来るか」と云

う設問の底には「如何なる危機においても、芸術には何

かを成し得る力が有る」と云う前提が潜む。あたかもそ

れに答えるかのように、東日本の震災時には「震災復興

支援」なる題号が、一時は雨後の筍の如く頻繁にメディ

アを賑わし、それはそれで意義ある活動であった事に違

いはないが、しかし、それはあくまで作品制作とは別種

の副次的な活動であり、作品自体の価値が試された訳で

はなかった。むろん震災を題材や契機とした表現は、そ

れぞれの分野で様々に為されたけれど、「如何なる危機

においても、芸術には何かを成し得る力が有る」と言え

るに値する表現は、果たしてどれほど有ったろうか。あ

の時、本当に支援の一翼を担ったと言えるのは、已むに

已まれぬ思いでとにかくも現地に飛び込んで、泥まみれ

になって災禍と向き合った無名の人々だった。実際に夥

しい瓦礫を拾い、無数の残留を救ったのは彼等である。

対して芸術に関わる者達が、否応なく突き付けられた事

実は、あらゆる惨事や災禍を前に、それはたった一片の

瓦礫すら拾えない、たった一個の握り飯にさえ及ばない

と云う、芸術の徹底した「無力」だったのではないか。

 

 再度、問うてみたい──今、芸術に何が出来るか。一

見この問いは、芸術の存在意義が問われる困難な設問に

思える。しかしそもそも芸術とは、実用から離れた純粋

な表現であった筈だ。もしくは、何らかの目的を達する

ための手段と云う実用的価値を離れ、純粋に表現そのも

のを目的とした時に、初めて芸術は芸術足り得たと言う

べきか。とすれば元来芸術は、実用的な一切の価値を持

たず、自ずからそれを放棄している。喩えれば、野に咲

く花のようなものだ。無力なだけではない、無益な花な

のである。よって、災害や戦争と云った極度の暴力の前

で、芸術は抗う一切の手立てを持たない。且つ、社会的

には何者をも救えない。「如何なる危機においても、芸

術には何かを成し得る力が有る」と云う先述の前提は、

元から崩れているのである。この「何も出来ない」「何

の役にも立たない」と云う覚悟から、芸術は始まるので

はないだろうか。そして、この覚悟を自らの根幹に据え

てこそ、初めて芸術は何かを成し得るのかも知れない。

 思うに、野の花は如何なる力も持たないけれど、人は

取るに足らない路傍の小花から、大いなる癒しを得る事

がある。のみならず、自らの都合で咲いているに過ぎな

い一輪の野花に、時に人は救いを見出し、励ましの声を

聞き、一条の希望さえ感じ取る。つまり、野の花自体は

無力であり無益であっても、それを見る人、即ち「受け

取る側」にとっては、時に蘇生へと導かれるほどの強靭

な「力」と成り得るのである。芸術もまた、同じではな

いだろうか。上述の如く、芸術は一切の実用価値を持た

ず、よって社会的には全くの無力・無益な存在である。

しかしながらそれを受け取る側は、感動と云うあの言い

難い精神の揺動を通して、時に自らが変革されるほどの

衝撃を体験する。言わば社会的には全くの無力であって

も、作家からの送信とそれを受信する個人が、徹してパ

ーソナルな関係に在る時、芸術は受け手に或る確かなも

のをもたらす強靭な「力」と成り得るのである。その時

に初めて芸術は、紛れもない価値を有するものとなるの

だろう。所詮社会の変革は芸術には不可能であり、そも

そも芸術はその役割を持たない。それを成すべきは即ち

政治であり、思想であり、社会運動なのだが、然りなが

らその力が如何に強くとも、個人にまでは決して及ばな

い。芸術こそが、個人の変革を可能にするのだと思う。

 作家はただひたすらに役に立たない物を、命を削って

創り上げ、世に送り出す。その純粋なる無益の産物を、

どう受け止め、どう意味付け、どう活かし、どう役立て

るのかは、徹して受け手に委ねられている。芸術の存在

意義は、むしろ受け手が作り出すものではないか。なら

ば送り手である芸術家の為すべきは、せめて受け手にま

で響き到るような、精一杯の「花」を咲かせる事だ。強

大な力に翻弄され、為す術もなく蹂躙されてなお、幾度

も幾度もその下から甦り咲き直す、力ある一輪の花を。

 

 手に余るような難題ほど、くどくどと書き連ねてしま

うのが私の悪い癖で、ご容赦頂く他ないのだけれど、改

めて榎並さんの芸術家としての姿勢を顧みると、やはり

芸術の在るべき領分と云うものを、明確に弁えた人であ

る事が分かる。語るべき事は言葉で語る、語り得ない事

は絵に描く、よって余計な主義主張を絵画には混在させ

ない、それが榎並さんの貫いて来た、画家としての揺る

ぎないスタンスである。もう十数年も足を運んでないの

で現状は知らないが、以前はたまに団体展を覗くと「戦

争を告発する」「環境問題を告発する」と云った類いの

社会派作品が有って、それらに「◯◯賞受賞」等々のシ

ールが、誇らしげに貼付されている図を見かけたが、思

うにどんなに戦禍に打ちひしがれた子供を描いた所で、

或いは累々と堆積したゴミの山を描いた所で、それは何

の役にも立たず、状況は露ほども動かない。当人はそれ

で勇気ある告発をしたつもりかも知れないが、本当に戦

争や自然環境を憂うのなら、悠長にアトリエで絵など描

いてないで、即刻何らかの社会運動に身を投ずるべきだ

ろう。先述した通り、それは絵画の為すべき役目には非

ず、己の分際を履き違えた、芸術の傲慢と言う他ない。

「ペンは剣より強し」の「ペン」とは、絵画の筆ではな

い、言論のペンを指すのだ。と云う訳で榎並さんは、語

るべき事はハッキリと言葉で語る。ご存じの方も多いと

思うが、もう20数年も続けられているブログに、近年

はフェイスブックも加わって、それらを舞台に榎並さん

は、折々に時事批評を記されている。それが実に明け透

けな舌鋒鋭いもので、マスコミの当たり障りのない日和

見論評に辟易している身としては、常々溜飲の下がる思

いで拝読している。ただ、天下の東電や政局に歯に衣着

せぬ批判を浴びせるものだから、私としてはいつか電力

総連や安倍一族の闇討ちに遭うのではないかと気が気で

はないのだが、ご本人は至って飄々としたものである。

閑話休題、言論の分野はその位にして、そろそろ絵画の

分野に話を移そう。今回の「旅寝の夜話」と云うタイト

ルに関して、画家は次のようなコメントを寄せている。

 

 今だから言えるのかも知れない。こうやって巡回展を

 始めた当時は、今のこの形を予想していたわけではな

 い。20数年やって来て、結果的にこういう形が出来

 上がっていた。何となく始めた事が、やがては大きな

 道筋になって本道になって行くような事は、よくある

 ことだ。最初からこうやって巡回展をやって行けば、

 何とかやって行けるだろうと計算出来たら、それは私

 ではない。結局、どういう風に生きて行きたいのかと

 いう事だろう。ただ有名になるとか、地位や名誉が欲

 しいとか、そういう事ではない。生業として職人にな

 りたいわけでもない。それなら、就職して働いた方が

 何倍も楽なのだから。自給自足と言うのだろうか、実

 際に食べ物を育てるのではなく、思想上の自給自足。

 ああでもないこうでもないと考えながら、思考の芽を

 育てて、絵や文章で表現する。それを世の中に問うて

 少しばかりの糧を得る、こんな生き方が出来れば理想

 だ。こういうのを、何と言うのだろう。昔の旅芸人と

 か漂泊者などは、そんな生活者ではなかったろうか。

 

 思想上の自給自足──と画家は記していたが、思想と

は詰まる所「言葉」であるから、文章においてはそのま

ま思想表現が可能であっても、絵画においては言葉を介

さないため、そこで用いられるものは感性の言語、いわ

ゆる「造形言語」となる。この場合の「言語」とはむろ

ん比喩であるから、実際に用いるものは絵具やメディウ

ムによって創り出される、色や形・テクスチャー等々を

指す。考えてみれば、画家は自らの精神をそのまま画布

に塗り付ける事は出来ない。如何なる想いであれ、それ

は絵具による造形言語に、翻訳されなければならない。

よって、そこにどんなに深い精神が感じられようとも、

それは徹して絵具の重なりと連なりでしかない。然りな

がら私達見る者が、そこに或る確かな精神を感じ取るの

は、画面上における造形言語への翻訳が、画家の手で十

全に成されているからだろう。そして言うまでもない事

だが、その作業に画家の用いる道具は、絵具と絵筆のみ

(榎並さんの場合は様々なコラージュも加わるが)なの

である。この美術表現の原則とも言える「翻訳」と、現

在どれほどの画家が、真摯に向き合っているだろうか。

絵画に寓意や風刺を交えたり、何らかのコンセプトや理

念を施したり、声高な主義主張を入れ込んだり──と云

った具合で、他作家が様々なファクターを絵画に混在さ

せている間に、榎並さんは黙々と独り、画面に絵具や墨

を掛け流し、壁土や黄土を塗り重ね、種々の布地や素材

を貼り込み、その上に更に絵具を積層させ、時によって

は幾工程を経た画面を大胆に破壊して、新たな手掛かり

を希求してゆく。これら一連の飽く事なき作業は、即ち

感性に湧出する無形の精神に、形を与えるための翻訳作

業に他ならない。但し、翻訳とは言っても頼るべき辞書

は無いのだから、一切は手探りである。だからこそ画家

は、他作家が主義主張をこねくり回している間に、正し

く「手」を用いて未知の領域を模索する。やがてその先

にゆくりなくも何かが降り立ち、画面に確固とした形が

浮かび上がる時、長い翻訳の作業は完結するのである。

 

 今回も昨年と同様に、西千葉駅を挟んだ新鋭画廊「く

じらのほね」との同時開催となる。内容も同様に、当店

は混成技法によるタブロー、先方は水彩によるドローイ

ングとなるが、周知のようにドローイングもまた、斬新

かつ軽妙な魅力に溢れたものなので、若きオーナーのモ

ダンな店作り共々、ぜひ併せてご高覧頂ければと思う。

 最後に蛇足ながら。前頁に「芸術の意義は受け手が作

り出すものだ」と書いたが、ならば私達受け手の為すべ

きは、作品から響き到る声を、余す所なく十全に聞き取

り得るアンテナを、常日頃から磨いておく事に尽きる。

どんなに優れた送信でも、劣化した受信機では何も届か

ない。磨かれた感性のアンテナは、必ずや優れた精神を

キャッチする筈だ。そこに、掛けがえの無い何かを見出

す時、私達は自らの作り出した「意義」を知るだろう。

 

                     (22.04.17)