言葉を聞く山 (1997)  楠に彩色    ※ 作品集「立ちつくす山」より
言葉を聞く山 (1997)  楠に彩色    ※ 作品集「立ちつくす山」より

画廊通信 Vol.233             山に臨む

 

 

 舟越桂の用いるワードには「山」や「水」と云った言葉が散見される。2001年刊行の作品集が「立ちつくす山」と題され、続く2002年刊行の作品集が「水のゆくえ」と題された事例だけでも、作家にとってこれらのキーワードが、重要な意味を持つ事が推測される他、彫刻のタイトルにもそれは顕著であり、作品集から適当に拾ってみても「動く水」「黒い山」「音のない水」「山について」「水の地図」「壁際に立つ山」「水のソナタ」「夜の降る山」「水の下の小石」「山を包む私」

等々、挙げれば枚挙にいとまが無い。この内「水」と云

う言葉に込められた意義は、作家自身の発言から明瞭で

ある。以下は版画集(2003年)掲載のインタビュー

から。

 

 子供達の帰った後のプールで、泳いだ時の事です。空

 気を全部吐き出してプールの底に沈み、息が続く限り

 座り込んで、周りをぼんやり見ていたんです。夏の夕

 方で、西陽がキラキラと水面から射し込んで来ては揺

 れて、ものすごく静かな空間と時間でした。ずっと後

 になって、自分を探すとはどういう事だろうと思った

 時に、水の中にひとりで潜っていくようなものだとい

 う気がしたんです。一人一人が、北欧にあるような深

 い湖を持っている、その中に潜っていって、どこにあ

 るのかも分からない小さな石を、拾って来るという事

 じゃないか、そんな風に考えるようになったのです。

 

 即ち「水」とは「精神」の暗喩であり、作家にとって

「水の中に潜る」とは「自分の中に分け入る」事に他な

らない。よってタイトルに「水」と云う言葉が含まれた

時、それが彫刻であれ版画であれ、作家の生み出した人

物像から等し並みに注がれるあの独特の眼差しは、他で

もない自身を見ているのであり、それはまた作品と向き

合う側の心奥をも、深く見つめる視線となるのだろう。

 対して「山」と云う言葉に込められた意義は、解釈が

極めて困難である(あくまでも「私の頭では」と云う前

提付きではあるのだが)。この言葉も「水」と同様に、

作家自身の或る体験に起因するものなので、まずはそれ

についての直話をここに写してみたい。以下、前記と同

じく、版画集に掲載されたインタビューからの抜粋を。

 

 「山」のイメージが出て来た元々のきっかけは、ある

 日大学へ向かうタクシーの中で見た裏山なんです。唐

 突に「あれっ、あの山は僕の中に入る」と思ったんで

 すよね。どういう事だろうと自分でもびっくりしたん

 だけれど、でも今あの大きさのまま入っているんだか

 ら、という感じで。奇妙な体験でしたけど、その気持

 ちはそのままとっておいて、時々思い出したりしてい

 ました。それから随分経ってから、人間がこの世界を

 見たり捉えたりする事は、例えば宇宙空間のような大

 きいものまでも、頭の中に入れられるという事なんだ

 と思った時に、あの山を見て感じた事がつながったん

 ですね。僕にとっての「山」とは、そうした人間とい

 う存在の、大きさの象徴と言えるのかも知れません。

 

 と云う訳で、この話を聞いて直ぐに理解出来る人が居

たとしたら、それは上記と同じような特殊体験を持つ人

か、或いは哲学や宗教をよほど極めた人に限られるだろ

う。よって、そのどちらでも無い俗人にとっては、何を

言っているのかさっぱり分からない、と云うのが、一読

しての正直な印象であった。往々にして芸術家には、俗

人には量り難い意味不明の言説を為す人が多いので(例

えばジャコメッティのように)、これもそのパターンだ

ろうと勝手に見做し、しばらくは理解を放棄していたの

だが、ただ、芸術と云う単一のカテゴリーを超えて、宗

教や哲学・心理学へと範疇を広げてみると、このような

摩訶不思議な体験は、意外に数多く見られるのである。

 目前の対象と不意に一つになった、或いは目前の対象

に留まらず、気が付くと世界そのものと一つになってい

た、と云うようないわゆる「合一体験」は、むろん科学

的には有り得ない事象であるにしても、単なるまやかし

やオカルトでは片付けられない側面を持つ。例えば以下

のような言説が、怪しげな宗教セミナーで語られたもの

ではなく、量子力学の先駆として著名なアーウィン・シ

ュレーディンガーによるものである事を知る時、これを

ただ笑い飛ばして済ませる事は出来まい。おそらくは自

身の体験から、先鋭の理論物理学者はこう語っている。

 

 かくして、君は地面に身を投げ出して母なる大地に身

 を投じ、自分が彼女と一つであり、彼女は自分と一つ

 である事を確信できる。君は彼女と同じように頑健で

 不死身である。数千倍も丈夫で傷つく事がない。明日

 彼女が君を呑み込んでしまうのと同じ確実さで、彼女

 は新たに君を生み出し、新しい戦いに晒す事だろう。

 

 ついでながら畑違いの例として、文学分野からも一節

を引いておきたい。以下は宮澤賢治「種山ヶ原」から。

 

 海の縞のやうに 幾層ながれる山稜と / しづかにしづ

 かにふくらみ沈む天末線 / あゝ何もかも もうみんな

 透明だ / 雲が風と水と虚空と光と 核の塵とでなりた

 つ時に / 風も水も地殻もまたわたくしも それと等し

 く組成され / じつにわたくしは 水や風やそれらの核

 の一部分で / それをわたくしが感ずることは 水や光

 や風ぜんたいがわたくしなのだ(下書稿・第一形態)

 

 他、古代ウパニシャッドにも「梵我一如(宇宙の本質

と自我の本質とは一体不可分である)」と云った原理が

あるように、それは古来何千年の長きに亘って、東洋思

想の基底を成して来た哲理とも言える。切りが無いゆえ

例証はこの位にして、以上のような合一体験が如何なる

メカニズムで生起するのかを、以降出来る範囲で考えて

みたい。もしやそこに、舟越作品の謎を解く鍵が潜むの

だとしたら、愚考もまた無駄にはならないだろうから。

 まずはそんな特殊体験を考える上で、重要な示唆を与

えてくれる論考が有るので、一部をこの場に引いてみた

い。小林秀雄の講演からの聞き書きだが、小林はアンリ

・ベルクソン(フランスの哲学者 / 1859-1941)の学

説を解説する中で、ベルクソンが失語症の研究を通して、

精神活動と脳組織の運動は決して併行しない、故に精神

を脳内の物理的な運動に還元する事は誤謬であり、脳と

はあくまでも精神と身体を媒介する機関に過ぎない、と

云う結論に到った経緯を説いた上で、次のような驚くべ

き推論を展開している。以下は1961年の講演から。

 

 精神は脳組織の中には存在していない、けれど存在す

 るんです。それなら何処に存在するのか──とつい考

 えてしまうのは、僕らの非常に古い習慣的な思考です

 ね。存在する──と言うと、いつも空間を考えてしま

 う、これは僕らの悟性(知性)と云う機能の習慣に過

 ぎません。存在するものが空間を占めなくても、ちっ

 とも構わない、空間的には規定できない存在も考え得

 る訳です。だから「何処に存在するのか」と問う事は

 無意味であり、それをベルクソンは証明したんです。

 

 つまり小林はベルクソンの学説を通して「精神とは場

所を持たない存在である」と、明言しているのである。

これは「意識は脳の活動であり、記憶は脳内のメモリー

である」とする、いわゆる「脳科学」に真っ向から対立

するもので、この革新的な論考を初めて耳にした時は、

自らの蒙昧が一気に啓かれたような気がしたものだ。た

だし通常は脳の媒介によって、精神は身体に連結され制

御されている事から、私達はあたかも脳で考えているよ

うな感覚を持つ訳だが、もし何らかの誘因で脳の制御が

解かれ、精神が元の「場所を持たない」状態に戻ったと

したら、その時世界はどう見えるのだろう──と、ここ

まで考えた時、まるでレンジファインダーカメラの二重

像が合致するかのように、前述の合一体験が不意に重な

ったのであった。そして正しくここに、合一体験の生起

するメカニズムが、垣間見えるように思えたのである。

 場所を持たない意識に、世界はどう映るのか。あくま

でも私見だが「場所を持たない」と云う事は、換言すれ

ば「どの場所にでも在り得る」と云う事だ。つまり何か

のきっかけで脳の箍が外れた時、意識は不意に脳=身体

の枠を超えて、目前の対象が占める場所に融合したり、

自らを取り巻く空間と一体になったり、延いてはそれが

無限に拡大されて、世界に遍満する事さえ可能となるだ

ろう。これを逆の視点から見ると、対象=世界が自分と

云う存在の中へ、十全に入り込んだような感覚を抱くに

違いない。先述した「あれっ、あの山は僕の中に入る」

と云う舟越桂の言葉は、正にそのような状態を指してい

るのではないか。あの時彼の意識は、不意に肉体の枠を

出て目前の山と融合し、山そのものとなったのである。

 

 どこか遥かな時空を、茫漠と見つめる眼差し。概ねそ

 の視線は、微妙に外側へとずらされているため、何か

 一点を凝視している風ではない。と言うよりも、その

 焦点を外された眼差しは、果して何処を見ているのか

 さえ判然としない。彼は時に振り仰ぎ、時にうつむい

 て、時に首を傾げ、時に凛と頭を上げる。様々な顔の

 動きに連れて、その視線も時に上方を仰ぎ、或いは下

 方に落ち、或いは横に流れ、或いは正面を見据える。

 しかしいずれにせよそれは、遥かな遠くへと想いを馳

 せて、私達には見えない何かをその彼方に捕え、静か

 に静かに立ちすくむ眼差しだ。そのそこはかとない情

 感を湛えた眼から、その見るほどに不可思議な表情か

 ら、その何かを言いかけたような口元から、その深く

 もの思うようなたたずまいから、私達はいつしか彼の

 見ているものを想う、いったい彼は何を見ているのだ

 ろうと。そして、今まで何を見て来たのだろうかと。

 

 9年ほど前、初めて「舟越桂展」を開催した折りに、

私はこのように記した。それが彫刻であれ版画であれ、

どの作品においても一様に際立つのは、やはりこの特異

な「視線」である。それは上述のように、人物像として

の「人間的な」情感を確かに宿すのだが、しかしその一

方で、今あらためて作品を顧みると、何か言い難い「非

人間的な」意志をも、同時に孕むように思える。むろん

この論理は矛盾しているのだが、そんなアンビバレンス

が融合して一体となっている所にこそ、舟越桂特有のオ

リジナリティーが有るのだろう。その非人間性の所以を

尋ねれば、先の考察に一つの解を見出せないだろうか。

「山である私」と「私である山」、あの特殊体験から生

まれた作品には、そんな「私」でもあり「山」でもある

と云う、不可分の合一が潜在する。よって私が山である

時、その視線は「山」そのものの眼差しに他ならない。

もし「山」と云う自然がそのまま人間の形を取ったら、

あのような何処か人間を離れた、言わば「非人間的な」

視線を湛えるのかも知れない。そしてその「山」の眼差

しは、対峙する「私達」へと注がれるのだ。あの遥かな

遠くを見るが如き視線は、実は他でもない私達の内奥こ

そを、いつまでも尽きる事なく見続けているのである。

 

                     (22.09.01)