壺図 (2023)    混合技法 / 60x45cm
壺図 (2023)    混合技法 / 60x45cm

画廊通信 Vol.239         リアリティーの魔術

 

 

 先月の画廊通信で、近年漫画作品が絵画作品と同等の価値で扱われ、特にオークション等の市場においては、むしろ絵画を超える価格で取り引きされている現状を挙げて、そんな不条理を極める動向が、ハイカルチャーとサブカルチャーの境界が疾うに消滅し、それに伴って従来の芸術という概念も、無用となった経緯から派生した現象である事を論じた上で、私はこのように記した──

一つ断っておきたいのだが、私は決して漫画を卑下する者ではない。むしろ無能の画家よりは遥かに有能な、優れた漫画家が存在する、その事実をしっかりと踏まえた上で、それでもやはり「漫画」と「絵画」は違うものだと考えている。ならばどう違うのかと問われれば、そも

そも絵画とは何かという地点から始めなければならなく

なり、それだけであと数ページは費やしてしまうので、

解答はまた次の機会に譲らせて頂きたい──と。そんな

訳で、いずれまた機会が有ったら、それについて書かせ

て頂こうと考えていたのだけれど、自問しておきながら

その答えを先延ばしにしておくというのも、何だか落ち

着かなくなって来たもので、同じテーマを続けて取り上

げるのもどうかとは思いつつ、乗り掛かった船でもある

事だし、今回はそれに関する考察から始めたいと思う。

 

 まずは「絵を描く」という最も単純な行為から考えて

みたい。例えば対象が「人物」であった場合、画家はそ

れをどのように絵画化してゆくだろうか。言うまでもな

く対象(それが人物であれ静物であれ)は「3次元」で

あるから、画家はそれを「2次元」という異なるフェイ

ズに落とし込まなければならない。言わばこの「位相を

変換する」行為が即ち「描画」であり、それには遠近法

や明暗法・色彩法等々の様々な技術が必要とされる訳だ

が、ただ、その技術の用い方=技法が人によって異なる

事から、位相の変換も多様な様相を呈する経緯となり、

そこにその人特有の「スタイル」が、否応なく生起する

のである。それに加えてもう一点、描画が「画家」とい

う或る種のフィルターを通して為される事から、描く対

象から何をどう抽出するかは、画家によって千差万別で

ある事を考慮しなければならない。例えば対象とする目

前の人物を、如何なる主観も加える事なく、ただただ正

確に写し取れば、写真と寸分違わぬ画像となる。これを

「表現」と言えないのは、言うまでもなく人物という対

象から、何物も抽出していないからだ。そう考えると、

未だ美術シーンで隆盛を極める写実派の絵画に、何故こ

うも詰まらないものが多いかが分かる。そして同じ写実

を希求した西洋の古典派が、未だ鮮やかな魅力を放つそ

の所以が分かる。現代の写実派が写真をただ正確に複製

し、対象の細密的な再現を一義とするのに対し、いにし

えの画家達はその多くが、注文に応じた自由度の少ない

制作であったにも拘わらず、それでもモデルから作家固

有の形象を巧みに抽き出している。斯様な時代の風雪を

越えて残る作品の随所に、私達は幾多の人物を見出す事

が出来るが、そこには驚くほど多様な相貌が描き出され

て尽きない。作家の数だけ異なる抽出が有り、よってそ

こには抽出された数だけ異なる形象が顕現する、それこ

そが取りも直さず「表現」の醍醐味と言えるのだろう。

 という訳で、前述した「対象の位相変換」という作業

に、モデルから固有の形象を抽出する──即ち「対象の

抽象化」という作業が加わって、初めてここに「表現」

という行為が樹立される。むろんこの時、2つの作業は

別々に為される訳ではなく、むしろ分かち難く入り混じ

り、渾然一体となって進行してゆくのである。通常「制

作」と称されるその作業が如何にして為されるのか、そ

れは一例を挙げれば、ジャコメッティとの交友を描いた

矢内原伊作の手記に、克明に記されている。画家のモデ

ルを務めつつ書き留められたジャコメッティの肉声は、

表現という行為の果てなき至難を、いきいきと物語って

已まない。以下は矢内原伊作「ジャコメッティ」から。

 

 人間の顔がこんな風に見えるのは初めてだ。確かに自

 分には見えている、しかし、それに達するにはどうし

 たらいいのか分からない。もう一度やってみよう……

 駄目だ、うまく行かない。ここなんだ、どうしても敢

 行できないのは。君の鼻の先端、この一点をどうして

 も描けない。ああもう少し、もう少しの勇気があれば

 いいのだが、糞! 空間も至る所にある、鼻の横、眼

 の下、頬の上、至る所に。それに顔の前にある空間、

 背後にある空間、そのすべてを描かなければならない

 ……駄目だ、筆がうまく動かない。これは絶対に不可

 能だ、不条理な試みだ。全てが嘘だ、全部消して初め

 からやり直さなければ。どうしたらいいんだ、畜生!

 

 さて、それなら「漫画」はどのように描かれるのだろ

うか。ここでその歴史をさかのぼる余地はないが、漫画

の嚆矢は戯画=カリカチュアと言われる。その性格上カ

リカチュアの手法は、簡略と誇張によるモチーフの変形

=デフォルマシオンである。つまりここでは、3次元を

2次元にどう落とし込むか、という「位相変換」の作業

は必要とされず、端から2次元上における変形作業のみ

が課題とされる。よって現実(という3次元)には有り

得ない形容も動作も、漫画(という2次元)においては

全く問題にされないどころか、却ってそれが簡略や誇張

の具現として、漫画表現の特徴を成すのである。その意

味で、かの村上隆が唱えた「スーパーフラット」という

呼称は、正に漫画の本質を突いたものと言えるだろう。

 もう一点のファクターである「対象の抽象化」に関し

てはどうか。上述の「簡略」や「誇張」という言葉は、

一見「抽象化」の一手法の如くに思えるが、ここで言う

「抽象化」とは、あくまでも現実(という3次元)から

何らかの形象・心象を抽出する、という意味においての

概念である。対して漫画の場合、目前の現実から内的な

形象を抽き出そうと考えるよりは、対象の外的な特徴の

みを意図的に抽き出して、2次元上でそれに自由なデフ

ォルマシオンを加える事が、その基本的な制作手法とな

る。よってそれは「抽象化」というよりは、対象を極端

に性格化する「キャラクタライズ」の作業であり、それ

ゆえ必然的に様々な「キャラクター」が発生して、漫画

特有の世界を形成している事は、ご存じの通りである。

 そんな訳で、以上は私見に過ぎないにせよ、この辺り

で絵画と漫画の差違が、見えては来ないだろうか。つま

り、絵画はその制作において、現実との濃密な交渉=コ

ミットメントを経る事に対して、漫画は当初から2次元

上の仮想空間がその領域であり、よって現実とのコミッ

トを一切必要としない。言わばこの「現実からの解放」

を前提とするからこそ、漫画は対象の自在な変容を可能

とする訳だが、一方で現実との非交渉は、リアリティー

の欠如を招かざるを得ない。リアリティーが、現実存在

=実存との間断なき葛藤(格闘と言ってもよい)から生

まれるのだとすれば、それは至極当然の成り行きであろ

うし、実はその一点こそが、絵画と漫画を決定的に別つ

分水嶺なのだと思う。およそ優れた絵画は、全て固有の

リアリティーを孕む。そしてそのリアリティーが、絵画

に強度を与え、重度を授け、深度を齎す。従って独立し

た作品として両者を並置した時、漫画の内在する力は、

リアリティーを内在する絵画には到底及ばない、更に言

うなら、そもそも漫画は絵画に及ぶ事を目的としていな

い、故に漫画と絵画は異なるのである。ここで私は、両

者の優劣を論じているのではない、方法論上の明白な差

違を申し上げたいのである、念のため。先述した位相の

変換然り、或いは抽象化然り、絵画は常に「存在」との

コミットを命題とする。たぶんそれは安閑な交渉には非

ず、着地点の見えない手探りの葛藤を余儀なくされるも

のだろう。だからこそ、そこにはリアリティーが宿り、

作品は否応のない実在感を放つ。「そこに在る」という

この感覚は、やはり絵画だけの齎し得る特権であろう。

 

 漫画と絵画の違いからリアリティーというテーマに到

り、そこから中西さんの世界へ繋げようと目論んでいた

のだが、例によって話が長くなった、ご容赦のほどを。

 改めて言うまでもない事だが、そのモチーフが何であ

れ、中西さんの描き出す物=存在は、全て言いようのな

いリアリティーを湛える。一例として、右に今回の新作

を載せておいたが、小さな画像では分かりにくいにして

も、磁器の膚から醸し出される見事な質感は、もはや特

筆する必要すら無いだろう。ところが、いざ実際の作品

に接してみると、特に細かく描き込んである訳でもなけ

れば、写実の粋を極めたようにも見えない、ただ必要な

だけの描画が坦々と施され、必要なだけの手際が加えら

れている、それだけの画面なのだ。そこには何の声高な

ものも無く、何ら衒うものも無い、取り立てて如何とい

う事もない平生の佇まいを見せるのだが、画面から少し

の距離を置いた瞬間、俄にそれは驚くようなリアリティ

ーを放つ。一体この絵の何処にそんな卓絶の魔術が潜ん

でいるのかと、今まで多くの絵描きが眼を凝らす場面を

見て来たが、残念ながら誰一人その謎を解き得た者はな

く、皆不思議そうに首を傾げるばかりである。つまり、

中西さんの描き出すリアリティーには「種明かし」が無

いのだ。ここで一家言、ギャラリストならではの鋭利な

推論でもご披露できれば、私の面目も大いに躍如すると

いうものだが、お付き合いをさせて頂き早20年にも垂

んとするのに、未だその秘密は皆目分からない。ただ私

に言える事は、中西さんは「描く」達人(それは自明の

事として)である前に、まずは「見る」達人であるとい

う事だ。むろん「見る」という行為は、誰もが日常で為

してはいるのだけれど、思うに日常を「真に見る」人は

少ない。ならば「真に見る」とは何か。それはかつて、

自然への限りない敬愛を説いた学者が、簡潔かつ的確に

語っている、曰く「もしこれを、今までに一度も見た事

がなかったとしたら…。もしこれを、二度と再び見る事

が出来ないとしたら…(レイチェル・カーソン)」と。

確かに、そのような眼で日常を見る事が出来たら、世界

は正に驚きと輝きに溢れている事だろう。取りも直さず

それが中西さんの眼差しであり、上に「見る達人」と書

いた所以である。但し、中西さんの世界では「驚き」は

「共感」へと、「輝き」は「敬仰」へと昇華される。こ

うしてあの不思議なリアリティーを湛えつつ、温かな尊

厳を静かに醸し出す、独特の絵画が現出するのである。

 

 たぶん絵画を通して私のやろうとしている事は、物を

 「置き直す」事なのかも知れない。それは本来在るべ

 き場所に、もう一度物を「置く」と云う行為である。

 

 この中西さんの言葉に、おそらく画家の本分は言い尽

くされている。きっと私達の眼は日常の中で濁り、物の

本来在るべき姿を見ていない。つまり、真の実在は私達

の側に有るのではなく、それは「本来在るべき場所に、

もう一度物を置き直した」絵画の側にこそ有るのだ、そ

う考えれば、あのリアリティーの謎に少しは迫り得る気

がする。卓越の技術と相俟って、あの実在感は「物を置

き直す」という作業から、必然的に生起するものではな

いか。たぶん絵画におけるリアリティーとは、在るべき

場所に立ち返った存在の、瑞々しい息遣いなのである。

 

                    (23.02.17)